2017年1月27日金曜日

ベートーヴェンの壁

楽しくプロコフィエフを弾いていたけれど、次の課題はベートーヴェン「クロイツェル・ソナタ」
強靭な精神力を要求されるから、軟弱な私は最初からはねつけられている。
スケールの大きさにおいて他の追随を許さないこの曲は、骨格ががっしりして雄大。
2楽章の崇高で優雅なバリエーションは、天空にはばたくような美しさ。
3楽章の諧謔的な動きに心躍る。
ベートーヴェンの魅力を余すところなく伝える。

こういう構成のがっちりした曲が最も苦手な私は、四苦八苦している。
私の中にはこのような強い精神力はない。
まず、音が貧弱。
そこそこの楽器は持っているものの、腕が雑木林に落ちている枯れ枝みたいなものだから、楽器の良さを引き出せない。
かなり強い性格の楽器で、弾く人を選ぶ。
私は端から馬鹿にされている。

この楽器に替えたとき、長年私の演奏を聴いていた人に言われたことがある。
それは前に使っていた楽器よりは良いものなので、音が違う。
「楽器を替えたの?」と訊かれたから「はい」と答えると「いいわね、お金で技術が買えて」と言われた。
おそろしくむっとした。

技術を買うわけではない。
技術を少しでも高めるために替える。
良い楽器は持ったからと言って、最初から鳴るものではない。
それを鳴らすだけの腕を鍛えるためのもの。
楽器が私たちを訓練してくれるといってもよい。
当時貯金がすっからかんになっても、楽器は買ってよかったと思っている。
手に入れてから10年あまり、やっと腕が追い付いたかもしれないと時々思う。

さてクロイツェルの冒頭、ヴァイオリンの重厚なテーマ。
これが曲者。
この曲は今までも何回か演奏しているけれど、練習のたびにため息が漏れるのは、この部分。
特に最近左手中指が、第一関節から小指側に向けて曲がってきた。
そのために、微妙に音程がとり辛い。
ヴァイオリンの音程は、ミリ単位以下でズレても違ってしまう。
指を寝かせてとるか、立ててとるかでも違う。
なまじ耳がまだ確かなので、その差が気になる。
耳が悪くなれば幸せに弾けるかもしれない。

最初はA durの和音がフォルテで始まる。
次第に弱くなっていって、次のA線のDとE線のF♯の3度の重音に移る。
これは弱音で滑らかに弾かなければいけない。
この3度は普段は薬指と人差し指でとるものを、この部分では次のコード進行のために中指と人差し指でとる。
だから指幅を広げないといけない。
しかも私の場合、中指の第一関節の先が曲がってしまったので、ちょうどいい指先のポイントで抑えることができず、音がかすれる。
指先のどの部分で抑えるかによって、微妙に音色が変わるから、音がかすれないようにするために良いポジションを無理に探す。
不自然な動きになる。
そのあと弦を移動して次のHとDの3度に移行していくとき、指先が曲がったことが原因でほかの弦に触れる。
それを防ぐために又余計な作業がいる。

なにを言っているのか説明が下手でわからないかもしれないけれど、加齢によって指の形や柔軟性が失われるなどの要因で、ヴァイオリンの演奏は微妙に難しくなる。
それを補なって余りあるほどの豊かな音楽性があればともかく、底辺のヴァイオリニストとしては大変つらい。

作品番号47だから、ベートーヴェンの初期から中期。
それでも堂々たる風格は、ヴァイオリンソナタの数ある中で、群を抜いている。
この素晴らしいソナタをいつの日か、楽々弾けるようになるだろうか。
出来なくてもそれが自分の力量。
私の理想は常に、低目に設定されているのだ。
自分がその時にできることを、できるだけのことをすれば、そのうち成果はついてくる。
最初から巨匠になれる人はいない。
巨匠になれずに死んでしまっても、それが自分の限界だと考えればいい。
こういうイージーな生き方が嫌いな人もいるかもしれないけれど、凡人に生まれて巨匠を目指すとろくなことはない。

子供の時からコンクールや競争の激しい学校で勉強して、挫折して体を壊したり自死したりした人を何人も知っている。
頑張りすぎて精神が病んでしまって、奇行に走る人もいる。
競争心が強すぎて、自分を失ってしまう人もいる。
本来音楽は健全なもの。
リヒャルト・シュトラウスやグスタフ・マーラーは世紀末の音楽のようにいわれるけれど、あれは熟しすぎて木から落ちそうになっている果物みたいなものと考えればいい。
腐らなければ果実はそのころが一番おいしい。

楽器を演奏するのはこの上なく楽しい。
それが苦痛や心の病を引き起こすなら、やめた方がいい。
生涯かけて旅をしているようなもの。
速足で走ってもゆっくり景色を楽しみながら行っても、行き着く先は同じ。
練習嫌いのわたしでも、ベートーヴェンを弾くときは真正面から向き合って、地味に努力する。
するだけの価値はある。

でも立ちはだかる壁は高い。
足が短いから、乗り越えられない。
猫だから柔軟性と跳躍力はあるかもしれないけれど。

足が短くて断念したのは乗馬。
やはり馬は大きい。
インストラクターが子供でも乗れるからと言って慰めてくれたけど、最近の子供は私よりはるかに足が長いのだ。
スチーブ・マックイーンの西部劇を見ていたら、馬のおなかのはるか下まで彼の足が出ていた。
クオーターホースで小柄とはいえ、馬は馬。
彼の足の長さに驚愕した。
10年ほど乗ってモンゴルの大草原を走ったから満足はしたけれど、法華津さんのように高齢でもオリンピックに出る人がいると、まだやめなければよかったかなあと残念に思う。
今でも時々、乗馬クラブに行ってみようかなあと考える時がある。
脚力が弱っても、なに、走るのは馬なんだから。
私は背中でヒャッホウ!と言っていればいいだけのこと。

私は足の筋力が無くなって、鐙に乗ることも大変。
乗ってしまっても馬は私の合図を背中で受けることになる。
本当はお腹に合図をしないといけないから、馬は、ン、なに?みたいに思うらしい。
勝手に歩いたりとまったり。
乗馬クラブに昔居たホワイティーという賢い白馬。
インストラクターの言葉を理解して、私が合図する前にさっさと並足、速足、駆け足と順番に決まった回数だけ馬場をまわると、手綱を引かなくてもさっさと終わってしまう。
叱られるのは私。
nekotamaさん、ちゃんと合図してください!
でもでも、馬が・・・


いうこと聞かないと尻尾を全部抜いて、弓の毛にしちゃうぞ!





























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