2021年10月17日日曜日

木を伐る

 北軽井沢の家はノンちゃんの砦だった。彼女はそこで理想的な10年間を過ごした。自分の体力がなくなってきたと悟ってから彼女は私にこの家を託した。私がこの家を気に入っていることを知っていたから。家が気に入ったこともあるけれど、なによりもほとんど人工的に造園していない庭の周りが私は特に気に入っていた。木は生えているだけ。花は咲いていない。寒いから草はあまり茂らない。それぞれの家にはべつの考え方があるから、きれいに造園している家はそれはそれで素敵だと思う。けれどノンちゃんと私はそのまんまの状態が好きだった。

引き継いでから3年が経った。いなくなった人たちを悼む気持ちはまだ消えないけれど、最近は少しずつ傷が癒やされて前向きになることができるようになった。よく見ると前庭はボサボサの風情。細い木が雑然と生えていていくら花の咲いている苗木を買ってきて植えても目立たない。日当たりが悪いのでそのうち枯れてしまう、そんな繰り返しだったから最近時間の余裕ができて来たところで、もう少し華やかな庭にしようと動き出した。

低温で多湿、日当たりが悪い、悪条件が揃っているので多年草でも次の年には枯れてしまう。昨年はヴィオラをまとめて植えてみた。12月に山を下りるときにははまだ花が咲いていた。今年春、最初に行ったときにはヴィオラだけは花が咲いていたけれど、夏になったら全部枯れてしまった。あまりに多湿なのがいけないのかもしれない。もうすぐ冬になると家を閉めることになる。もう一度ヴィオラを植えて越冬ができるか今回も試すことにした。今咲いているのはヴィオラだけ。コスモスの群れを咲かせたかったけれど、飛び飛びにしか来られないので時期を逸してしまった。

次の計画は前庭を整えて、そこにあじさいやツツジを植えようという魂胆。冬になって木が枯れてきたら手入れもしやすい。今日は追分に住むKさんが手伝ってくれた。彼女は女子にしては背が高く力も強い。建築家を父に持ち、本人も建築にすごく興味を持っているけれど、職業はヴィオラ奏者。たまたま花の名前と楽器の名前が一致した。

彼女はいつもは追分にいるけれど今回は所用があって都内の家に帰っていた。昨日都内からこちらにくるというので庭の手入れを約束してくれた。今朝、私は手ぐすね引いて待っていた。用意した道具は華道で使うような剪定バサミだけ。今年の春買ったオーバーオールもスタンバイ。サイズがXSなのに、ブカブカ。ブティックで今年春物新作が入荷したときにあまりにも可愛くてつい買ってしまった。黄色のデニム、大きなポケット、ブカブカのお腹周り、大きすぎるから裾を折り曲げると足がものすごく短くなってまるでペンギン。

それを着たくて庭仕事をするようなものなのだ。ゴム手袋をして手には剪定バサミ。一方のKさんはスラリと長い足にジーンズ、手には大きな長ハサミと、もっと強力な重たい枝切りハサミを交互に持ち替えてバッサバッサと細い木を切っていく。あっという間に足元に枝の山ができていく。それを短く切るのが私の役目。手に力がないからなかなかはかどらないけれど、なんとか片付いてあたりを眺めると、今まで細い木に遮られて全容が見えなかったノンちゃんの家が現れた。ミノムシのように木の皮の壁をまとって泰然と森と融合している。こんな素敵な家を残してもらってノンちゃんに感謝しないとね、と、Kさんが私に言う。もとより私はノンちゃんにはどれほどの感謝を言っても言い切れない。家のことだけでなく、いつでも私のことは全部受け入れてくれた。それなのに私は彼女になにをしてあげたか、記憶にもない。月山の夏スキーで初めて出会ったときの笑顔が、その後の私の道を照らしてくれた。

木を切りながら昨夜の動物の話をした。家の中になにかいたのよ。入り口もなさそうなのにどうやって入ったのかしらね。するとKさんは、よく動物がはいるよ。うちなんかハクビシンがはいっていたんだから。

こういうところでは珍しくもない話らしい。昨夜のハクビシンかもしれない生き物は、今は気配すら感じられないから、我が家の壁から出ていったのだろう。いったいどうやって?入ってどうやって出て行ったのだろう。謎。

この辺は明日から一気に気温が下がるらしい。庭仕事を終えてKさんが帰ってから、私は一人で近所の旅館の温泉に浸かりに行った。自宅のお風呂は様々な問題を抱えていて、私には大きすぎる。縦も横も大きい上素材がタイルで冷たい。追い焚きできないタイプで、この寒冷地ではお湯を張っているうちにどんどん冷めてしまう。ぬるいお湯に冷たいタイル、大きすぎる浴槽で半分溺れそうになって入るのは危険極まる。夏ならシャワーだけでもいいけれど、冬はゆっくり浸かって温まりたい。それでよく入りに行くのは風情のある旅館のお風呂。

先客がいて色々話をした。世田谷からきてもう1週間も泊まっているという。コロナでもう飽き飽きとか。私が熱いお湯に入れないで困っていると、外に露天風呂があるからそちらに先に入ればとアドバイスをくれた。外だからお湯がぬるくなっている。そこでしばらく温まれば熱い方のお湯にも入れる。露天風呂はとてもぬるく、しばらくしてやっと温まったから室内の湯に戻ったらやはりなかなか入れない。その人に熱くないの?と訊いたらぬるいくらいよと返事が戻ってきた。そして明日から急に寒くなると言うので、私は明日自宅にかえることにした。寒さ対策はあまり考えていいなかったのと、姉に託して残してきた野良たちの様子が心配なのと、少しだけ都会の刺激が恋しくなったので。






0 件のコメント:

コメントを投稿