2023年7月30日日曜日

お墓ブーム

 先日M子さんとお墓を見に行った。

彼女は以前飼っていたワンちゃんと猫さん二匹と一緒に入れるお墓がほしいというから、神奈川県と東京都の境目にある一山で墓地として売り出されており、私も死んだら入れるように買っておいた樹木葬を紹介した。小高い丘の上は様々な形の墓地に分けられていて、私は庭園になっている一区画が気に入って購入した。春先に訪れたときに全山桜色に染まっていてその美しさに圧倒されてここに決めたのだった。うぐいすが鳴き、様々な種類の桜が咲き誇っていた。即決したのは桜のせいだった。

山の一部の区画は小さな庭園に別れていて、私の墓は涼風という一角。名の通り山の上は下から風が吹き上げてくる。なんとも自由で明るい墓。墓石はなく、芝生の地面に遺骨を納める穴しかない。その一角を囲むように樹木が植えられている。私が買ったときは春爛漫だった。今回見に行った日は暑さで焼け焦げるような地面からの照り返しが強烈だった。ただでさえ痩せているM子さんは地面に溶けてしまうのではないかと思ったけれど、そこはしぶとくヴァイオリンを弾いて生きてきた逞しい根性の持ち主だから日傘をさして涼し気に佇んでいる。

夏の日差しは強烈でも流石に丘の上は風が吹き渡り、気持ちが良い。こんな土地に墓場というのはいかがなものか。生きている人間に明け渡してやりたいけれど、以前この場所はお墓と森しかなかったものと思われる。商魂たくましい経営上手のお寺さんが流行りの樹木葬という形に目をつけて小綺麗に整備した結果人気になったというわけ。Hさんは私の入る区画を希望したけれど残念ながら完売で、少し離れた場所に良さげな穴を見つけてかわいがっていたワンちゃんと猫さんに囲まれて安らかにお休みになる予定となった。

この庭園墓地には私のものと旧友のHさんの穴が隣り合わせにならんでいる。直ぐ側にM子さんの区画、それに少し離れた昔からのお寺のお墓にヴィオリストのKさんのご両親が安らかにお休みになっている。そしてM子さんから話を聞いたO家の方が興味を示していらっしゃるようだ。それに私達の友人のY子さんもぜひ見たいというので、次回は墓巡りツアーを開催しようかと思っている。お墓を選んだあとにイタリアンのフルコースを食べる、なかなか魅力的なツアーになりそう。

墓地の近所に素敵に美味しいイタリアンレストランがあるのですよ。けしからん事にそこは定休日以外にも不定期に休むので油断がならない。先日行ったときも休まれて、そこでランチをと思っていた私達はお腹をすかせてさまよう羽目となった。

お墓など死にまつわる話題になると私達は厳粛にならざるを得ないとなるけれど、私はあの重たい墓石が自分の上にあるなんて考えられない。死は人生を全うしようとする人たちの通過点と考えるとまだまだその先がありそうな気がする。肉体が滅んだあとになにか素敵な境遇が待っているとしたらワクワクするではないか。足が痛むこともない。涙を流さなければならないような悲痛なこともない。もちろん戦争ははるか彼方の出来事・・・なんて素敵な世界が存在しないだろうか。

ともあれ、私のお墓の周りは急速ににぎやかになる模様。夜中に隣の穴からコンコンとノックがあって「今なにしてるの、飲みに来ない?」と、それを聞きつけた少し先の方からなにやら白いものがふわふわと飛んできて「えっ、飲み会始めるの?」なんて。すると他の穴からも声がして「カルテットでもはじめない?」なんて。さぞにぎやかなは墓場になることでしょう。やっと安住の地を見つけた他の人達は「うるさくてやっていられない」と逃げ出すものも。それを引き止めておしゃべりをするものも。うわー、大丈夫かしら。

人の生き死にに対してこういう冗談は不謹慎と思われる方も多いと思う。それで私はよく失敗するけれど、死に対して人はなぜクソ真面目になるのか。今日は義兄の七回忌で親族が集まった。お坊さんはグレーに黄色い花の刺繍のある涼し気な薄物の衣と袈裟を身にまとい早口でお経を詠む。お仕事だけど、これで亡くなった人が喜ぶのかな?法事などはなくなった人より残された者たちの満足なのでとやかく言うこともないけれど。

なぜか私は本当に幼い頃から死というものに関心があって、布団を頭からかぶって気が遠くなるまで息を止めてみたり。苦しくなると、この先が死ぬということなんだと疑死体験をよくしたものだった。今思うとあと一歩で本当に死んでいたかもしれない。危ない危ない。死にたいとは思わないが死ぬときはどうなんだろうと興味津々で怖くないかといえば嘘になるからなるべく冗談めかして考える。

たくさんの猫を飼ってきた。私の人生に猫がいなかったのはほんの数年。あとはずっと多数の猫に囲まれて今、最後の猫を送り出そうとしている。歩けない、見えない、聞こえないほどの年齢なのにしっかりと生きているうちの化け猫の姿を見ると勇気が出る。苦しくとも生きることがどれほど素晴らしいことか、だからこそ死がつまらない形として示されるのは、しかもそれが金儲けのための空虚な形となって表されるのが苦々しい。だからつい冗談にしたくなって周囲の人たちからふざけていると思われるのですよ。





















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