川崎ミューザのコンサートはおかげさまで無事終了。
今回もたくさんのお客様が聴いてくださった。
開演前の雰囲気からすでに、暖かかった。
楽屋まで伝わってくる、客席のざわめきがアットホームで楽しげにおしゃべりする人、笑う人。
それまでのド緊張が緩んで、ステージに出る頃には客席を見るのが楽しみになってきた。
皆がニコニコとこちらを見ている。
嬉しいものですね、こういうのって。
練習であれほど苦労したモーツァルトがスルッと始まった。
テンポも申し分なく、なにがあんなに難しかったのかと訝しい。
自然にピアノと音が溶け合って、心地よい。
2曲めのプロコフィエフは乗ってしまえばこちらのもの。
楽しく弾き終えた。
確かに音の動きは他の2曲と比べて遥かに複雑で、演奏はむずかしい。
譜読みに時間はかかるけれど、私の気分としては弾いていて最高に楽しい曲なのだ。
お茶目で冗談ぽく人を驚かせる。
それでいてシーンとした透明感のある緩徐楽章は、静謐でえも言われぬ美しさ。
作曲者自信がこういう複雑な人だったのだろうと思う。
2部のフランクは、やはり1楽章が鬼門だった。
難しいピアノに比べてヴァイオリンの楽譜は本当に易しい。
4部音符と8分音符でゆったりとしたテンポで、音もさほど高くない。
一体どこが難しいのか良くわからない。
それでも終わってからやはり1楽章は良くなかったと、評価は低かった。
単純極まることの方が難しいというのは、何回も実感している。
それで、モーツァルトがたいそう難しいものの一つになる。
今回は前回の三軒茶屋でのコンサートに比べて、苦労が多かった。
曲自体が難しいわけでは無く、私が歳をとってしまったということらしい。
私は音が伸びない、音程が気になるで、青息吐息だった。
一昨日まで緊張で体がゴリゴリ。
こんなになったのは今までになく珍しい。
1週間前は出来上がりも上々だと思っていたのに、7日を切るともうだめで、敵前逃亡したくなる。
本当にだめで、こうなったらこのままの状態で皆さんからおしかりを受けることになっても仕方がないと、腹をくくった。
前日までそんな状態だったけれど、当日になったら急に重たい鎧がはらりと落ちるように、平常心が戻ってきた。
関節が急に緩んで体が自由に動く。
これがいつも不思議なんだけれど、必ずパターンが決まっている。
だからいくら緊張しても本番はなんとかいけると思っているのに、毎回同じことの繰り返し。
その1週間がもったいない。
緊張しないで済むはずなのに、緊張する。
無駄だとおもうのに。
終了後は聴いてくださった方々への感謝の気持ちとして、簡単なパーティーをすることになった。
ケイタリングのツマミと持ち込みのワインとビールで乾杯。
これらの準備は私達の生徒達が、大活躍をしてくれた。
重たいお酒を車まで取りに行ってもらったり、椅子をさっさと片付けたり、誰もが決めたわけでもないのに迅速に動いて、あっという間に準備が出来上がる。
若い人たちの頼もしさは場の雰囲気まで明るくする。
きれいなお嬢さんたちは居るだけで春風が吹いてくるようだけれど、私にもこんな時があったのです、信じられないでしょうが。
私も充分にそんな素敵な時を満喫してきたのだから。
その時々を目一杯生きてきたから、老いていくのも悪くはない。
今回の演奏の評価の中に友人がくれた「年をとるのって宝だと改めて思ったしだい」という言葉があった。
これは嬉しかった。
若い人の演奏はさっそうとしているけれど、いつもなにか物足りない。
自分のほうが上手い演奏だというわけではないけれど、ちゃんと生きてきた証として何かが皆さんに伝えられたのではないかという自負心もちらりと顔を覗かせる。
でも残念なことに、次回は?と訊かれると即答はできない。
来年はもう弾けないということの確率が高くなってきている。
ピアニストとは半世紀に亘り一緒に演奏してきた。
ピアノ弾きは耐用年数が長いけれど、ヴァイオリン弾きは様々な理由から耐用年数が短い。
なにしろ立っていなくてはならないので。
だから私のほうが早くリタイアすると思う。
皆さん頑張れ頑張れと言ってはげましてくれる。
弾いていたいのはやまやまだけど、限界はもうそこまで来ている。
今日ヴァイオリンを出して弾いたら、あまりに疲労が溜まっていて音がでない。
やはり、火事場の馬鹿力がないとだめなようで。
ずっと火事だと燃え尽きる。
程々の火事は山の家の暖炉の中がよろしいようで。
来年2月、北軽井沢の炎のまつりに行く予定。
2月の第2日曜日、松明ろうそくに火を灯し花火を打ち上げる。
花火とろうそくの火が相まって幻想的な世界が広がる・・・と宣伝文句。
厳寒の北軽での神秘的な夜を過ごしてこようかと思っています。
が・・・氷上の運転がこわい。
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