2016年6月22日水曜日

八ヶ岳音楽祭はギャラリーとして

今年も八ヶ岳音楽祭出演の依頼があったけれど、音楽監督氏と話し合って観客として行く事に決めた。

オーケストラの仕事はまだ時々お声をかけてもらえるけれど、最近はお断りしている。
なぜ大好きなオーケストラが弾けないかというと、弦楽器は同じ楽譜を2人で見なければいけないから。
正面から楽譜を見られないというのは、老眼乱視にはひどくつらい。
どんなに練習していっても、楽譜がぼやけて見えないのはひどく恐怖なのだ。

今年の八ヶ岳音楽祭の曲目は、ベートーヴェンの「第九」
オーケストラ人生の最後を飾るにふさわしい曲だから、4月頃声をかけてもらったときには勿論引き受けるつもりだった。
第九で締めくくれるのはラッキーと思っていたのに、いざ現実になるとどうしても憂鬱な気分になってしまう。
2ヶ月ほど考えた。

今年に入って、オーケストラの仕事を次々と断っているうちに、もう復帰は無理という結論に達した。
やればまだ出来るとは思う。
猫のわりには責任感はあるほう(だと思う)だから、多分努力を惜しまないでなんとしてでも目的達成するはず。
しかし、その間の緊張はもうたくさん。
楽譜を独占して正面から見られれば良いけれど、2人で見るとどうしても斜めに覗き込む事になる、
自分サイドのページは大丈夫でも、相手側のページがかすんでしまう。

オーケストラの弦パートは大勢で一緒に弾くから、楽だと思っている人が多い。
と~んでもない!
大勢だから難しい。
1人がこけると、周り中に影響する。
お互いの音程やちょっとしたタイミングがずれると苛々する。
全員の緊張が伝わってくる。
それはプロのオーケストラで弾いてきた人には、良く分かる怖さ。

私はもう充分働いて、出来るだけのことはやった。
これからは、先日のコンサートのように、気の合った人と自分の好きな曲を弾いていきたい。
1人で弾くのは本当に楽。
色々音色も考えて好きなボウイングを決める。
時には決めないで、本番が始まったときの調子で決めることもある。
ニュアンスも自分の思い通りに出来る。
煩い指揮者がいない!これが最高。
なによりも楽譜を正面から見ることが出来る。

最近、オーケストラでも一番後ろの席で1人で楽譜を見られるようにしてもらってはいたけれど、そうそうワガママが通るワケではないし、そんなことを言うなら若い人を使ったほうがいい。
若者は綺麗で上手くて、楽譜が斜めでもちゃんと見える。
それなのに私たちの年代を使うのには訳があって、角が取れているというか臨機応変というか、突っ走らず上手く人の間をくぐり抜けることが出来る。
要するにバランスがとれる。

演奏のスキルはあまり衰えていないけれど、長時間の練習や人のペースに合わせるのはしんどい。
というわけで「今年は弾かないで聴きに行きます」と言ったら、音楽監督が「遊びに来て下さい」と言う。
キラリ☆!遊びにねえ。秋の高根町は本当に綺麗。
楽器を持たずに行けば、どこへでも行ける。
小淵沢の昔の仕事仲間のお店にも行ける。
ちょっと足を伸ばせば北軽井沢のノンちゃんの別荘へも。

人間引き際が大事。
噺の途中で分からなくなり「勉強し直してきます」と言って高座を降り、復帰できずに亡くなった落語家がいた。
ひどく気落ちしたにちがいない。
私もオーケストラを弾いている最中に急にネズミを追いかけ始めたりしない内に、やめておこう。

本当にオーケストラが好きだった。
子供の頃オーケストラのコンサートに行って、いたく感激した。
ヴァイオリンもまだ本格的に習ってもいなかったのにこのオーケストラに入りたいと思ったら、まるでレールが引かれてでもいたように夢が実現してしまった。
本当に幸運なことだった。

その大好きなオーケストラを辞めても、少しも寂しさはない。
これからは、少人数でのアンサンブルを楽しんでいく。
それがダメになっても、次々と面白いことは湧いてくる。
何事も深刻に受け取らない性格だから、音楽家として大成できない。
悩める心がないと芸術家にはなれない。
半猫だからしかたがない。




















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