2017年5月17日水曜日

衰えていくのがそんなに悪い?

今日のためしてガッテンの放送を見ていたら、アルツハイマー発症にプロアミノ酸βの排出量がかかわってくるという話だった。
排出が上手くいかなくなると脳にゴミがたまって固まって、アルツハイマーになる。
排出を良くするためには、食事と睡眠が大事。

ほら出た!
睡眠、睡眠、睡眠。
脳に溜まったごみは寝ている間に排出されるから、質の良い睡眠と量が必要になるそうなのだ。

私が一番いやなのは、睡眠時間が不足するとどうのこうのと言われること。
日付けが変わる前に寝ろとかなんとか。
眠ることまで他人に指図されたくはない。
好きなように寝かせて!
夜中の静寂は本当にすてき。
上等なチョコレートをいただいたときなど、世の中が寝静まってから隠し持っている上等のブランデーをトクトクとグラスについで、少しずつ舌の上で味わいながらまったりするのは至福の時。
これは夜中、しかも1時2時でないといけない。

昼間だとせっかくのブランデーの馥郁たる香りも、チョコレートの魂をとろかすような甘さも、さお竹やの声で台無しになる。
粗大ごみの回収車の、変に甘ったるい女性の声がスピーカーから流れてくると、すべておじゃん。
「鐘はいけないよ、おじゃんになるから」という、落語の落ちみたいなことに。

ところで最近私の物忘れはいよいよ佳境に入り、鍵はもちろん、今まで目の前にあったものが掻き消える。
さっきは料理するのに、チーズを手元に置いたはずが消えた!
使うのをやめようと思ったら、鍋の蓋の陰から見つかった。
なぜそんなところに隠れていたかと問うと、あなた、ご自分で私をこんなところに押し込めたでしょう。お忘れですか?と、生意気にも口答えをした。
たかがチーズのくせに生意気なと思ったけれど、私よりチーズの方が世の中のためになっていることを思い出して辛うじて我慢した。

なぜ人は老いることにこんなに恐怖するのか。
私だって、老いてから周りのことがすべて不可解で、自分の名前すら思い出せなくなったら怖くてたまらないとは思うけれど、これは自然の摂理。
のんびりしていれば、誰かが助けてくれる。
人様に面倒見られたくない?
いいじゃないですか、面倒見てもらえるならみてもらいましょう。
素直に受ければ良い。
構ってもらえず野垂れ死にしたら、それはそれで結構ではないですか。
生まれてきたときは独り、還る時も独り。
傍に誰が居たって、結局孤独なんだから。

猫たちを見ているといつも思うのは、彼らがあるがままを受け入れて行動するということ。
食べられなくなったら食べない。
人間の様に管から食事を摂るなんて馬鹿なことはしない。
飼い主は必死でエサを食べさせる。
点滴をして延命治療。
少し前までは私もそうだった。

今までそれこそなん十匹もの猫を保護して飼ってきた。
最初は人と同じように扱って、軽い病気でも病院へ連れて行った。
ある時、脳に腫瘍の出来た猫に大手術を施してその後死んでしまったときに、私はなんてひどいことをこの子にしたのかと、いたく反省した。
家から一歩も出たことのない猫に病院の恐怖を与え、可哀想に家に帰ることもなく死んだ。
いくら泣いても後悔は収まらなかった。
その後の猫はみな自宅で見送った。
そっとしておくと、苦しまずに私の傍で眠るように逝った。

そう、これが自然な終わり方。
だから衰えていくのをやたらに騒ぎ立て、時間を巻き戻そうとするのはむだなこと。
だんだんぼんやりしても、ゆったりと森の中で生活しようともくろんでいる私は、ご先祖のサルに近くなっていくようだ。

今日は友人の絵の展示があって、京橋の画廊へ出かけた。
久しぶりの銀座付近だから、プログラム用に使えるきれいな紙でも探そうと思っていた。
銀座一丁目に伊東屋がある。
帰りはそこへ寄るつもりでいた。
画廊を出て、なんとなく右へ。
あら?日本橋、おかしいな。
宝町、おかしいな。
疲れたのでカフェに入ってランチをとって、考えた。
そうか反対方向だった。

今まで書いたのは年を取ったことの言い訳にすぎない。
実は私は天性の物忘れの天才。
小学校の時にはすでに、別の部屋に物を取りに行くと何をしに来たのかわからなくなるという、早熟な子供だった。
鞄に教科書を入れないで学校へ行くなんてしょっちゅう。
お弁当だけ持って大学のオーケストラの授業に。
楽器がないのに気が付いたのは新宿の駅で。

これは先天性プロアミノ酸β欠乏症ではないかと思う。
だから寝ても寝なくても同じ・・・と結論!!!

どうしてこんなに健康法だの睡眠時間だのと騒ぐのか。
煩くてたまらない。
しかもそれをちょっと気にしたりする自分にも腹立たしい。






































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