2017年7月18日火曜日

楽しく老いる

オーケストラの大先輩Sさんは小田原在住。
千葉大学で薬の勉強をして家業の薬局を継いだのに、なぜか楽隊になってしまった。
さんざん楽隊生活を楽しんだ後に経理士だか税理士だかの(私には区別がつかない)の資格を取って、また方向転換。
という経歴から見る限り相当な頭脳の持ち主で、日本の音楽界の夜明けを支えてきた。

打楽器奏者だった。
打楽器というと太鼓や鐘を鳴らして楽しそうなんて思うのは、分かっていない人。
たった一発のドラやシンバルで、演奏の成功を支える立役者なのだ。
トライアングルがひとつの音をならせばいいのに、緊張のあまり手が震えて風鈴のようにチリンチリンと鳴ってしまう現場に居合わせたことがあって、それからは打楽器の大変さがようやく理解できた。
特にラヴェル「ボレロ」の初っ端。
何千人もの聴衆の前でたった一人、ピアニッシモで始まるスネア。
あんな怖いことをさせられたら、私なら数ヶ月前から眠れなくなる。
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」のドラ。
あのドラのタイミングで次に出る金管楽器の演奏が決まるほど重要な役割がある。

目立つし、かといってのべつ幕なしに叩いているわけではないから、小節を数えていないといけない。
たった一発のシンバルのために九州まで行った打楽器奏者が不覚にもステージで寝てしまい、目が覚めたら自分の出番が終わっていたなんて逸話が語り継がれている。
果たしてギャラは払われたのだろうか、心配してしまう。

その打楽器奏者だったSさんは優れた頭脳の持ち主だから、古い話をとても良く覚えている。
以前から私達だけでその話を聞くのはもったいないと思っていた。
フルトベングラー、カザルス、ヤンソンス、スメタチェック等々。

今日はカザルスが来たときの話をきいた。
彼はスペインのフランコ政権に反対の立場をとっていて、フランコ政権がある限り演奏はしないと宣言をしていた。
けれど日本で、彼の愛弟子である平井丈一郎氏のドボルザークの協奏曲の演奏があったときに、指揮をするため来日した。
チェロの演奏ではないからかまわないという理屈だったらしい。
カザルスといえば大巨匠。
どんな大きな男が入ってくるのかと思ったら、とても小柄でびっくりして嬉しくなったとSさんは話す。
練習が始まると曲の冒頭のホルンのソロがきれいなビブラートをかけたのを聴いて、非常に喜んだそうなのだ。
そこから延々とお話が始まって、なかなか練習が始まらなかったとか。
音楽は常に歌がなければいけないと語った。

巨匠たちの演奏や人柄に直接触れたことは、楽隊にとってその後の人生がどれほど豊かになるか計り知れない。
今日はその他に、楽団員同士の喧嘩の話。
頭が禿げ上がり口ひげを生やした名物トロンボーン奏者は、気が短いので有名だった。
彼は海軍軍楽隊上がり。
豪快に吹き鳴らすバストロンボーンも、日本人離れしたはっきりとした目鼻立ちも、オーケストラの名物男となる資格十分だった。
その彼と喧嘩したのはクラリネット奏者のKさん。
彼はハンサムで穏やかで、紳士として知られていた。
その二人がステージ上で大喧嘩をしたというから、どんな事情があったのかはわからないけれど、本当に珍しいことだった。
そこへ指揮者のMさんが仲裁しようと口を挟んだら、火に油を注いだようになっておおさわぎになったそうなのだ。

へえ、あのKさんが?あんなにジェントルマンなのに?
でも私は知っている。
Kさんが車のハンドルを握ると、ウサギさんがオオカミさんになることを。
よほど腹に据えかねることがあって、彼は車のハンドルを握った状態になったらしい。
ふたりともすでに天国へ行ってしまった。
向こうで仲直りはできたのだろうか。

今日小田原駅前のビアホールで、一杯のジョッキで出来上がった元飲ん兵衛たち。
昔はこんな飲み方ではなかった。
随分年を取ってしまったなあ。

それにしても面白かったよねえ我々の人生は・・・しみじみというSさん。
私たちは彼の話が聞きたくて、時々こうして会いに行く。
彼の話しは抱腹絶倒もので、最初から最後まで笑っている。
年齢差から来る差別は一切ないし、こんなによく笑う年寄りは珍しい。
楽隊と乞食は一日やったらやめられない。
社会的地位も名誉もない、実入りも少ないのに、こんな幸せな人種っているかしら?















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