2020年3月9日月曜日

一夜明けて

昨日はさすがの私も寝付けず、今朝の4時まで起きていた。
公演中止の知らせが心に突き刺さった。

来年、古典音楽協会は70周年を迎える。
手で水をすくい上げるように、こぼれないように大切にしてきた「古典」
年を重ねたメンバーは若者のようにパリパリとはいかなくても、年月の重みが伝えられればいい。
ほとんどメンバーの交代がなくて、仲が良くてやめる人がいない。
これは良いようで弊害もある。
世代交代がきかない。
だから全員が年をとってしまうと、団体ごとやめるしかない。

必ず悪口を言う人はいるものだから、私も自分の知り合いに訊いてみる。
毎回きてくださるけど、退屈じゃない?
すると、あのくらいの穏やかさが私達の世代にはちょうど良いのよ、と言ってくださる。
本当に心が癒やされるの、とも。
中には私のような猫族の猛獣もいるけれど、ほとんどのメンバーは優等生的で枠からはみ出さない。
練習も穏やかに進む。

まだ皆が若い頃、よく冗談を言った。
そのうちなんの曲を弾いているのかわからなくなるかも。
繰り返しはしましたかねえ?なんて訊いたりね。
違う曲を弾いていても気がつかなくなったり。
途中で居眠りしたら起こしてね。

まだ皆しっかりしているけれど、それが現実となる日も遠くはない。
それに客席のお客様達も一緒に年を重ねているから、会場全体が善意に満ちている。
これは芸術的な刺激とは相容れないとしても、たぶん心地よい空間でいっときのやすらぎを得ていただくにはもってこいかもしれない。
皆さん「やすらぎ刻」世代だから。

年をとって失うものが多いけれど、物事の本質が見えて心楽しいときのほうが多い。
人の本質、猫の本質、政治家の本質など、表情だけで裏の顔を察するようになれる。
これは強い。
あまり怖いものはなくなってきた。
子供の頃は感受性が強く、しかも物事すべて得体がしれないので、漠然とした恐怖が常にあった。
今は、何見てもハハ~ン。
私に隠し事してもだめよ的。

残念なことは持続できる集中力が減った。
それは視力の低下からくるものだと思う。
常に視力に合ったメガネを掛けていたいけれど、日によってコンディションが違うので難しい。
かと言って何個もメガネを持つ余裕はないし、かならず失くすから無駄になる。
楽譜がよく見えない。
真正面から見ればいいけれど、アンサンブルの弦楽器は二人で一つの譜面台を使う。
これは譜めくりのときに一斉に譜めくりをして音が途切れないため。
そうすると一人で楽譜を独占できない。
ふたりとも斜めから楽譜をみることになる。
自分に近いページは良くみえても、相手側のページは遥か彼方に霞んで見える。
若い頃は斜めでも良く見えた。
それなら譜めくりの箇所を休みの小節にすればいいと思うでしょう?
ところが弦楽器、特にヴァイオリンは休む暇は殆どない。
しかも短い時間でさっと譜めくりしようとしても、手の湿気がなくなっているから紙をめくるのは至難の業。

目が良くみえない。
手の湿り気がなくてめくれない。
手が短くて譜面台に届かない。
と言ったら、ある人が「それは三重苦ですなあ」と言った。
私はヘレン・ケラーか!

そんなわけで、しばらく落胆することが多いけれど、今は国難の日々。
じっと我慢。
欲しがりません勝つまでは!
おお嫌だ、そんな時代がまたやってこないように祈るのみ。
なにかきな臭い。
いまや日本は弱体化しているから、そんなエネルギーもないかもしれない。
それもなにか寂しい。





















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