2020年6月29日月曜日

コロナが変える生活様式

コロナの感染拡大が止まらないどころか、毎日発表される感染者数は以前よりもむしろ増えているという不気味さ。
いつ自分がかかってもおかしくないし、周りの人が感染していないと信じることもできない。
私はコロナ以前、コンビニなどで釣銭を渡されるときに、店員が手を添えてくるのが嫌だった。
なぜ知らない人にこんな渡し方をするのかなあ?なんて。
業界では、そうすれば客の好感度が上がると思って、スタッフに指導していたのだと思う。

私のように指先が不器用で、ひっきりなしに釣銭をこぼしレジで小銭をばらまく人がいるから、そうしたのかもしれない。
確かにこれは親切だけれど、私は人が待っているとオロオロして慌てふためくので逆効果。
黙って受け皿に乗せてくれればいいと思う。
それなら次の人が待っていても、脇にどいてゆっくり釣銭を財布に入れられる。

コロナ以来、生活様式が変わったことでトラブルが多発しているらしい。
それは主に中高年が新しい習慣に不快感を示すのだという。
親切に手を添えて釣銭を渡されることになれた人たちが、受け皿に乗せて出された釣銭にクレームをつける。
釣銭は釣銭、どう出されようと計算が合っていればいいじゃない。
かなり前の中国で釣銭を投げてよこしたのにはびっくりだったけれど、あれにはそれなりの理由があるらしい。
音を立てて偽のお金でないことを示すのだそうで。

マスクの上にフェイスシールドを着けて対応する店員に、声が聞き取りにくいとクレームがくる。
店員さんだってきれいな顔を隠さないで、思い切り声を出したいにちがいない。
それはお客様あなたのためですよ、と言いたいと思う。
思うに、買い物をするのは店員さんにサービスを求めるため?
私はいつも思うのだけれど、買い物をする方と買う方はフィフティフィフティなのに、買う方がやたら威張るのはどうして。
買う方はそれが欲しくて買う。
売る方より偉いわけではない。
品物とお金を交換するだけのことなのに、買う方だけサービスを求めるのはおかしい。

一時期、買い物をすると、店員が店の外まで買った品物を持ってきて手渡しすることが流行った。
何億円もするダイヤモンドか何かだったらいざ知らず、たったの1000円くらいのものまでそうされると腹が立つ。
いくら何でもやりすぎと思っていたら、コロナのおかげでそれがなくなった。
そんなことをするから買い物客は自分が偉いと思ってしまうのだ。
商品についての正しい知識と常識的な応対があれば、余計なサービスはいらない。

それが以前のサービスに慣れた中高年にはわからないらしい。
なぜ、毎日テレビを見ているのに、そのくらいのことがわからないのか。
何のためにテレビがあるの?
近所に買い物に行くと、レジで距離を取らずぴったりとくっつく次の客。
たいてい、かなりのお年寄り。
でもまだ若い人もいる。
エレベーターの中で大声で話す人。
こんな狭いところでほんの数秒間、黙っていられないのかえ?おまいさん。

手の消毒も慣れっこになってきて、時々忘れることがある。
だから私も大きい顔はしていられないけれど、ルーティンワークとなるように早く慣れてほしい。
それよりも、昼カラオケに行くのは自重してほしい。
今一番の感染源らしい。
最も感染度指数が高いのはコーラスらしく、今練習ができなくて泣いているコーラスグループがわんさとある。
感染者が減れば、コーラスの練習が再開できるのだ。
だからカラオケはおひとり様でどうぞ。
自宅にカラオケの器械を買って、楽しんではいかが?

ほかにすることがないって?・・・ご先祖様のお墓参りに毎日行けば心もすっきり、花やも線香やもニコニコ、いいことだらけじゃありませんか。
お墓が遠すぎる?
それならその地方に住めばいい。
まもなくそこに入ることになるのだから、近くにいたほうがいい。

わざわざ地方都市からホストに会いに行って感染された人がいた。
なにもねえ、たかが半年一年、ホスト君に会わなくったって。
一生付き合える伴侶を見つけたら?
不特定多数の女性と付き合っているオベンチャラ君にお金使うことはない。
しかもコロナ付きで。

本当の友達はしばらく会わなくても心は通い合うものなのだ。
ほんの少しの間会わないと消滅するのは、泡沫的関係。
会わないから消えてしまうのは、心が通い合っていない証拠。
だからシャボン玉のように空に飛ばしてしまえばいい。
でもね、好きな人はいつも顔見ていたいよね。
それはわからんでもないけれど・・・











2020年6月26日金曜日

そろいもそろって

最近、男性のスキャンダルが否応なしに耳に飛び込んでくる。
若い男性のTというタレント。
歌手?ダンサー?ひっくるめてアーティスト?
顔のつくりはきれい、まるで王子様のように整っているのに、なぜか嫌な顔。
心の中が顔に全く出ていないから、仮面を見ているようなのだ。
この人はコロナで皆が我慢に我慢を重ねているときに、女性を交えて大勢で食事会をしていたという。
どれほど事務所から注意を受けても、自粛しなかった。
これを悪いというと戦時中の統制された時代みたいだけれど、明らかに世の中舐め切っているような態度が世間の顰蹙を買ったのだ。

法律的に罪が問えるわけではないけれど、事務所から切られてしまった。
この手の人はすぐに浮上してくるから同情する必要もない。
とてもずるく立ち回れるから、必ずまた大物を後ろ盾にして上手く立ち回るに違いない。
そのずるがしこさで好感が持てない。

もう一人、絶世の美女を奥さんにしているWというお笑い芸人。
やはり顔が整っていて一見知性的に見えるけれど、やはり嫌な顔。
この人は沢山の女性と不倫をしていたらしい。
いや不倫ならまだしも、心を伴わない行為で世間から大バッシング。
どこまで女を馬鹿にしているのかと思うと汚らしさが先に立って、やはりかなり整った顔なのに、チープなセルロイドでできたお面を見ているような気がする。

どれほど性格に破綻があっても、顔が整っていなくても、嫌でない人もいる。
芸能界でもどこの世界であっても、根っこのところがちゃんとしていれば生き残れる。
スキャンダルの主たちは絶対に自分しか可愛くないという連中なのだ。
私だって自分が一番、でも他人も他ニャンも愛することはできる。
この手合いの男は、たぶんきれいな奥さんかわいい子供もアクセサリー、自分しか愛せない。
根っこが腐っているというか、根っこが最初からないというか。
充実した家庭、仕事は順風満帆、なにが彼に足りなかったのだろうか。
しかし、呼ばれてトイレにいく女性もすごい!
なんだか漫画みたいで吹き出しそうになる。
それにしても汚いし、やることが貧しすぎてすごい。

私も毎日暇だからテレビばかり見ていると、こういう手合いがいかに多いか知らされる。
時々お目にかかるのは、自分はコロナだと言って店の業務を妨害する手合い。
だいたい40台の男性に多い。
職場でコロナの話題を出すと盛り上がるからといって、俺はコロナだとつい言ってしまうらしい。
そう言うとどんなことが起こるかという想像力も働かないのかしら。
本当にあなた、この40年間何して生きてきたの?と言いたい。
しかも、けっこうあとを絶たない話題だから、何人もいるらしい。
情けない!

と、私も最近情報通になったものだわい。

ピアノ弾きの友人からドヴォルザークの楽譜が届いた。
ヴァイオリンとピアノのソナチネ。
可愛らしく短くて初見でも弾けるレベルの曲だけれど、とてもうまくできている。
非常に魅力的なので、合わせに行ってきた。
ドヴォルザークの曲は独特の民族的な美しいメロディーが楽しい。
2時間半ほど弾いたら情けないことにへとへとになった。
曲が難しいわけではなく、そもそもヴァイオリンを弾くということが大変になってきた。
もうだめと思っていたけれど、もう一度合わせようというとちゃんと合わせられるから、単にコロナ怠けであるにすぎないらしい。
これで本番があれば多分急にシャキッとする。
コンサートがないというので気力が萎えてしまっている。
体重も増えて歩くのがしんどい。
あ~あ!早くテレビ漬けの日々から解放されて、ステージに立ちたい。

いつも本番前はひどく緊張する。
舞台袖で出待ちしていると、おなかが痛くなるのに、終わればすぐに次のコンサートを考える。
ずっと緊張が持続する生活だったから、そのうち緊張しない生活が送れたらどんなにうれしいかと思っていたけれど、どうやら業が深くてそうはいかないようだ。

コンサートができないと、男たちのみっともない姿を連日テレビで見ることになる。
見なければ?と言われてもそうはいかない。
毎日へらへらと笑っていられるもの。
文句言いながらもテレビを見ないといられないのは中毒なのです。













2020年6月22日月曜日

コロナ疲れ

思えば今年に入ってすぐから、コロナのおかげでずっと緊張していたのだと思う。
電話の友人の声がだんだん元気がなくなってくる。
初期のころには睡眠時間がどんどん少なくなって、運動ができなくなって、体力も気力も奪われてしまった。
初めのうちはあり余った時間を使って、いままでできなかった勉強もしたし、新しい曲も譜読みして今後誰かピアニストと合わせる準備をしていた。
いったん譜読みができると、あとはぼーっとしてうつらうつら寝てばかり。
このまま痴呆症にでもなるのではないかと心配した。

その後、睡眠時間が延びて眠ってばかりいるようになった。
記憶力は低下してすぐ目の前で起きたこともすぐに忘れるようになった。
これはもしかしたら痴呆につながるのではないかと思った。
自由とハサミは使いよう、自由も過ぎれば自制が必要。
毎日うつらうつらの日々を送っていたら、何事もすべて重要ではなくなってきた。
今まで一生懸命にやってきたことがうたかたの夢と化し、ああ、これが老いるということなのだと思った。

あんなに歯を食いしばる必要はあったのだろうか。
今安楽に暮らせるのはそうしてきたからではあるけれど、でももっと楽にしていてもよかったのではないかとも思う。
睡眠時間が増えたらよく夢を見るようになった。
特に母が出てくるように。
昨日は母が私の背中をさすってくれて時々くすぐるから、やめて、くすぐったいと言ったら、母は、こうすると楽しいでしょと言う。
まあ、ちょっと笑えるけれど。
まだ母は私を心配してくれているのだ。
私は今幸せに暮らしているから心配しないで。

毎日家から出ずにコロナを避けていることが果たして正しいのだろうか?
結局第2波第3波が来た時に、抗体を持たない人は症状が重くなるのではないかと、心配は付きまとう。

今日は買い物に行ったら目的の店が閉まっていた。
それで少し歩いて運動不足を解消しようと、にぎやかな隣町まで足を延ばした。
以前よりは多少空いてはいるものの、非常事態宣言が解除されてすぐにしてはたいそう混んでいる。
解除は感染拡大が終わったということではない。
こういう時期にこそもう少し我慢が必要なのではと思ったけれど、自分もその人込みの中にいるから、説得力はない。
パチンコ店も外から見る限りでは、椅子の間隔も空けていない。
今まで我慢してきたことが無駄になりませんようにと祈りたくなる。

友人から電話があった。
彼女は暇ができたのでハープを始めたという。
え!ハープってグランドハープ?
まさかと思ったら、そうなのグランドハープなのと言う。
あんな大きなものが部屋にあったら、大変。
しかもグランドハープは手よりもむしろ足のほうが大変なのだ。
足でペダルを踏んで転調する。
ハーピストは美人で髪の毛が長くて優雅に見える人が多いけれど、実際はすごく重労働。
絶えず足を動かして、演奏している近くで見ると、とても忙しい。

今度見に来てというから野次馬はすぐにでも見に行きたくなった。
でも見れば私もやりたくなるに決まっている。
ハープは楽器が高価。
持ち運び不便。
君子危うきに近寄らずかもしれない。

今から10年以上前、近所のカルチャーセンターにアイリッシュハープの講座が始まったので、受講を申し込んだ。
アメリカ人のD・ケニー氏が講師だった。
彼は戦後日本に駐留してそのまま日本に居ついてしまった元軍人。
もともとピアノを弾いたり歌を歌ったり、日本の狂言に興味を持って自分で演じるようになったという変わり種。
かつてNHKの英会話の講師としても名前が知られていた。
鎖国時代の日本の歴史のドキュメンタリーなどでは、ペリーの役で出演していた。
ペリーの役はいつも僕なんだよと言って。

ハープ講座の受講生となって、小さなハープを買って練習に励んだ。
アイリッシュハープというのかライアーというのか、膝にのせて奏でるタイプで、半音が出ない。
だから弾ける曲は限られる。
当時アニメ映画の「千と千尋の神隠し」が大ヒット、その主題歌が流行っていた。
歌のバックはこの小さなハープだったので、まずはその曲が弾けることが目的となった。
最初の発表会で私はその曲を弾いた。

ハープか、懐かしいな。
友人はアイリッシュハープに飽き足らず、本格的なグランドハープに挑戦している。
ほほう、こんなコロナ休暇の使い方もあったのか。
私はもう疲れたから新しいことを始める気力はない。
それにしてもこの毎日の眠さは一体、なんだろう。
もしかしたら、私の理想の生き方、大ナマケモノに生まれ変わろうとしているのかも。
家の中にぶら下がれるような装置を作らねば。
観葉植物をたくさん置いて雰囲気もそれらしくしよう。
ん、楽しくなってきたぞ。


オオナマケモノ 画像 に対する画像結果


































2020年6月19日金曜日

マスク色々

去年12月に3年ぶりくらいで健康診断を受けたら、ひどく血圧が高かった。
いつも大きな口をきいている割には肝っ玉が小さいから、なにかというとすぐに血圧や脈拍に響く。
病院で血圧測定をすると、あっという間に高血圧になってしまう。
これを白衣性高血圧という。
白衣を着た医師や看護師の前で緊張してこうなるらしい。

何年も検診を受けなかったのは、そのうち病気になったらその時が年貢の納め時と思っていたから、無駄なことはしないと決めていた。
去年の9月、文化会館での古典音楽協会の定期演奏会の当日、強い低気圧が近ずいていた。
起床時から頭がふらつくような軽いめまいがして、その日協奏曲のソロがあったのに集中できず不本意な出来栄えだった。
これではやはり聴いてくださる方々に失礼だと思い、体調は管理しよう。
その代わり演奏家を引退したら、健診など受けないと。
病気になったその時が寿命だと思えばいい。

その前2年間、恐ろしい偏食になって果物以外口にできなくなった。
たんぱく質を摂らず運動をしなかったら、筋肉があっという間に劣化した。
真っ先に足に来た。
足腰がこんなにも弱るものかとびっくりした。
歩くとバランスが取れずふらつく。
どんなに軽い段差でもつまずいて転ぶ。
そのころの私はしょっちゅう顔にけがをしていた。

それでも生きているうちは足が悪いと楽しくないから、やっと肉類や野菜を食べるようになった。
本当に生きる力は食べ物に左右される。
徐々に体に力が戻り、歩けるようになった。
元気を取り戻すとともに食欲もわいてきて、いつも物事やりすぎてしまう。
むしゃむしゃと食べていたら、今度は高血圧!
自分をコントロールできないのは昔から。
果実以外食べられなかったのが急に肉食へ。

元気になった勢いでバクバク食べていたら体重は増加するし、足はしびれるし、一気に生活習慣病に突入。
冬のシーズンはスキーで運動するおかげで、夏場よりは体が動く。
けれど、今年はコロナでうちでゴロゴロしていたら、じりじりと体重が増えてしまった。
先日小さな玉ねぎを大量に仕入れて毎日スープにして食べていたら、すごい効果。
なんと血圧がスッと下がった。
わお!話には聞いていたけれど、すごい玉ねぎ効果。
と、ここまでが話の前置き。
長かったけど。

それで今日はその大事な玉ねぎを切らしていたので、最寄りの商店街へ買い出しに出かけた。
ここの商店街は沿線の中でも、たいそう賑わっている。
コロナが発生した当時は恐怖を感じるほどの人の群れだった。
肩を触れないで歩くのが難しいくらいだった。
けれど、非常事態宣言が全面解除になった今日は、雨ということもあって人はまばら。
家を出るときマスクを用意してあったのに、傘を探すのにかまけて装着するのを忘れた。
歩く人歩く人みなマスクを着けている。
しまった、仕方がないからどこかで買おう。

もともと花粉症などでマスクはよく使うから、以前から箱買いしてあった。
しかも一つあるのに忘れてまた買うとか、うっかり屋なのが幸いして、コロナ騒ぎの時も困ることはなかった。
他からもマスクが届いたり、使えないアベノマスクもきたし。

それで今わざわざ買うのもしゃくだとは思ったけれど、人込みでマスク無しは後ろめたい気がして買うことにした。
薬局は通り過ぎて、先日見つけた出店のマスク店に。
様々な素材が出回っている。
つけるとひんやりする夏用とか、布でも派手な模様入りのファッション性のたかいものとか。
コロナのせいで、マスクは大発展を遂げたようだ。
今日はユニクロから発売されるマスクに行列がでたらしい。
マスクとしてはこんなちっぽけな自分が世の中でこんなにも大切にされて、感涙にむせんでいるとかいないとか。

それで思い出すのは、自社の在庫マスクを高額で売って顰蹙を買った町議会議員。
あれだって商売の基本を行ったわけだから、法的な罪はない。
しかし、時期が拙かった。
せこすぎて人々の怒りを買ってしまった。
人はこういう非常時に人格が出てしまう。
紀伊国屋文左衛門などの豪商と言われ巨万の富を築いた人はみな、こんなやり方で大もうけした。
ただしそのやり方が巧みで一度力を持ってしまえば、どうにでも粉飾できる。
これが富を持つ者の恐ろしいところ。

今回もマスクで道を誤った人、大もうけした人、新しい技術で新しいマスクを開発した人など、小さなマスクで見られる社会模様が面白かった。
今日はアルミ製のマスクを作った会社の話題がニュースで流れた。
アルミは非常に熱の放射がいいらしく夏場でもマスク内の温度が上がらない。
でもそれを着けると鉄仮面みたいで(笑)製作者も申し訳なさそうに、見た目が・・・と言い訳をしていた。

恐怖と退屈にさいなまれたコロナ騒動も、こうしてみると何かしらの発展を促している。
小型のレントゲン装置ができて、患者のベッドまで運んで撮影できるとか。
これもサーズ~コロナの流れで開発されたという。
人類とウイルスの戦いはこれからが正念場。
人間がんばれ!






























コロナの功徳

まだ感染拡大が終わったわけではないけれど、ここ数か月のコロナ騒ぎの中で得たものは、少なくはなかった。
亡くなった方がいるのでこんなことをいうのは不遜だけれど、私は長年の多忙が当たり前の生活を改められてよかったと思っている。
自分が感染していない(多分)からこんなこと言えるし、これからも感染しないという自信はないけれど。
歯車は一度動き始めると止めるのは大変で、止まるとパニックになる。
けれど、それは長い人生の中のほんの一コマ。
私風情の社会的な地位や才能では、世の中には何の影響も与えない。
ましてや、もう半引退のへたくそヴァイオリン奏者が家にいても、無理に引っ張り出して演奏が聴きたいなどというもの好きもいない。
これはとても気楽でいい。

会社の転勤で大阪に行ってしまった私の生徒が、休暇で戻るからレッスンをしてほしいと言ってきた。
ちょうどコロナが猖獗を極めているころに転勤だったから、そんなときに知らない土地に行く心細さはどれほどかと思った。
それで大阪は食べ物が美味しいよとはげましておいたのだけれど。
大阪はコロナに関して優等生。
東京にいるより安全だったねという話になった。
あなた、運が良かったと言ったら彼女は「そんなポジティブに考えたことなかった。確かに会社も休業が多く、引っ越しの荷物もゆっくりかたずけられました」と。

人はみな自分の幸せに気がつかない。
これが不思議なのだ。
母にある時愚痴った。
「私足が短くていやだわ」
すると母は「でも両足そろって短くてよかったじゃない」ですと。
おみ足のご不自由な方ごめんなさい。
でもそういわれて気が付いた。
健康なら足の長さは気にすることはないと。
ウエルシュ・コーギーは足が短くてかわいいといわれる。
私も相当物好きな人にはかわいいと思われるかもしれないから希望を持とう。

美容整形をして鼻を高くする・・・すると目が気になる・・・あごのバランスが悪い・・・胸が・・・
美容整形を受けた人はかくして泥沼に沈むらしい。
私は初めから泥沼なので、手入れの仕様がないことはわかっている。
それでも丈夫な歯、老眼だけれどいまだに白内障にもならない健康な目、聴力は衰えていない。
これだけで御の字。

コロナで損害を受けた人はたくさんいる。
けれど、例えば津波の災害で家を流され、肉親を失った人ほどは悲惨ではないでしょう。
収入が90パーセント減ったとか、倒産したとかきく。
しかし、ほんの数か月で倒産するようでは、商売を始めた見込みが甘かったというしかない。
冷たい言葉でぐさりときて憤慨するかもしれないけれど。
例えばホストクラブのお兄さんたち。
たぶんルックスが良くないとやっていけない。
並よりも能力ないと女の子にはもてない。
それならほんのしばらくホストやめても働き場所はあるはず。

何度も言うけれど、昭和天皇ご崩御の前年の私たちフリーミュージシャンは悲惨だった。
その前のオーケストラ再建の時の収入もほぼないに等しかった。
しかし、その時に猛烈に働いたおかげで、学校では教わらなかったアンサンブルの基礎を手に入れることができた。
譜読みの速さも身についた。
若さというのは本当にそれ自体が素晴らしい能力なので、いくらひどい生活でもやっていける。
社会に出て最初から成功しようと思わなければ、いくらでも道はある。
コツコツと積み重ねていけば、それ自体が大きな能力となる。
長い目で人生歩めばいいのであって、最後に死ぬ間際に「ああ、本当にいい人生だった」といえるようにしたい。

これも何回も言うけれど、昭和天皇ご崩御のとき、仕事がないのを嘆いていたら「君ね、そういう時は勉強するものだよ」と諭してくれた鳩山寛さんの言葉を思い出す。
だから今私はいつもより時間をかけて練習していた。
いた、というのは今はもう飽きてさぼりまくっているから。
ここで練習が持続できればたいしたもの。
コンサートの当てがないから真剣さが持続できないのは確か。
運動不足で胃の調子が良くない。
食べ過ぎて不摂生をしたら蕁麻疹が出た。

私のような凡人は常にだれかに叱咤激励されないとまともになれない。
けれど、もういい年になるとそうしてくれる人はいない。
以前は、私は自分でそうしないといけない環境に自分を放り込んできた。
睡眠時間も極端に少なかったけれど、今は好きなだけ寝ている。
ゆるみにゆるんで、ついに自分が死んで葬られる夢を見た。
心地よい風の吹く丘の上に横たわる私に土がかけられた。
そして私は、ああ、面白かったとつぶやいている。

素敵な最後だなあ。
本当にこうだったら良いなあ。
4月に私の大切な友人が亡くなった。
5月に食事の約束していたのに。
私より若く才能ある人だった。
彼女も、もうこれで良しと思っていたに違いない。
彼女が緩和ケアに入る前に交わしたメールは、どれも穏やかだった。
抗がん剤が全く効かなかったので、これから緩和ケアに入ります。
あと数週間、長くても数か月です。
淡々とした文面。
皆さんにお目にかかれないのが残念ですと。
コロナのせいでお見舞いにも行けなかった。

彼女が私に託していった生徒のレッスンがはじまった。
人の連鎖がこうして途切れない。





















2020年6月15日月曜日

練習事始め

毎日毎日、他人と口をきかない日々が続き、もういい加減ボケ始めるのではないかと思うこの頃、耐えかねて集まったのは7人の女たち。
東京アラートが解除されて、でも油断はならない。

楽器を抱えて三々五々、ニコニコと集まったのは、ヴァイオリン4人、ヴィオラ1人、コントラバス1人、ピアノ1人。
なにを弾くかと言うと、モーツァルトのピアノ協奏曲。
ヴィヴァルディの四季。
年をとった分だけベテランと言われるけれど、この7人、ものすごいパワー。
全員年齢は感じられない。
特に初参加のヴィオラのAさんは長年の音楽仲間で、最近は楽器のお付き合いだけでなく食べ歩き女子会のメンバーでもある。

女子会メンバーとは年中アチラコチラのレストランで顔を合わせていたけれど、最近その中のひとりがあっけなくこの世を去ってしまった。
6人で食べ歩いていたのに5人になってしまって寂しい。
写真を眺めて涙ぐむ。

アンサンブルのメンバーは、なにがあっても動じないメンバーばかり。
私は彼女たちをすっかり頼りにしていて、自分で動くことは少なくなった。
けれど長年の経験が豊富なので楽譜だけはしっかり揃っている我が家に、皆集まってくれる。
ところがその楽譜も、コロナのおかげでうつ状態になった私は探すことが出来ない。
ヴィヴァルディの四季はもうさんざん弾いたから楽譜は揃っているものと思っていたら、なんと春の楽譜に欠番があった。
あらら、どこかしら?
コロナ鬱のせいかどうかは判然としないけれど、とにかく頭はもうスカスカ。
体はなまって動かない。
探さなければと思っても面倒で、それじゃこれは飛ばしてとなる。

こうなったらお終いですぞ、みなさん。
楽譜を探すのを厭うようでは世も末!

四季はそこそこ弾き飛ばして、本来ならここで持ち寄った食べ物を出してビール・コーヒータイムとなるのだけれど、コロナ感染は予断を許さないから自粛。
用意したのはセブンイレブンのサンドイッチとおにぎり。
それとカップの味噌汁のみ。
これがなんと美味しいんだなあ。
ピアニストの家に行くといつも手料理を出してくれる。
私はコロナ管理に自信がないから、しばらくはこのスタイルでいくことにする。
メンバーの1人は「私の家はほとんどセブンイレブンのお世話になっているの。お惣菜もここで買うのよ」と。

なるほど、手間暇かけて作ったってこんな美味しくできるものではないし、少人数、まして1人なら買うほうが絶対経済的。
材料余らせて、作り過ぎを捨てたりすることもない。
なによりも、いつでも手に入るのが働く女性にはなによりありがたい。
食器はすべて紙皿紙コップ。
久しぶりでアンサンブルを堪能した人たちは、あふれるばかりの笑顔だった。
これが一番のごちそうなのだ。

コロナ感染が収まって、治療法が確立されて、私達が安心してアンサンブルを楽しめる日が早く来ることを願っている。

今回の練習は11月のコンサートのためなのだけれど、果たして実現できるかどうかわからない。
いつまで我慢すればいいのか先の見えない不安でいっぱい。
8月14日、毎年恒例だったコンサートも中止。
9月の古典音楽協会の定期演奏会もどうなるかわからない。
せめて今年中に数回のコンサートができるなら、幸せ。
しばらくステージに立たないと、たぶん次のステージは緊張で大変だと思う。
常に本番は緊張するけれど、何回もこなしていれば緊張と付き合うすべがわかる。
けれど間が空いてしまうと、自分をコントロールできるかどうか心配になる。

ハリー・ポッター講読も再開した。
本を読むだけだからコロナ感染もさほど気にならないものの、万一のことを考えて自粛してきた。
いつもはルースさん所属のオーケストラの練習場に出向いて、そこの建物の小部屋を使ってレッスンをしてもらった。
けれど、いかにも狭い。

2か月間休んでいる間、私はこの巻の最終章まで読みすすんだ。
コロナのおかげで時間だけはたっぷりある。
魔法学校の校長ダンブルドアが死んでしまったときには、涙が止まらなくなった。
これほど思い入れが強かったことに我ながら驚いた。
私の中でダンブルドアは本物の人のように生き生きと存在していたのだ。
作者のローリング女史のたぐいまれな才能が、私の想像力を刺激する。

先日雨の降る日、二人とも時間はたっぷりあるのでできるだけ先に進むことにした。
久しぶりに会う先生のルースさんはお元気で、本当に良かった。
私はフェイスシールドを用意した。
初めのほうはサクサクと進み1時間半はあっという間、私も快調。
しかし、もう限界となったとき、ランチタイム。
近所のピザ店で軽く食事をして後半へ。
そのころには私は慣れない英語の文字に、目はかすみ口はもつれるように。
心なしかルースさんもいつもの鋭さがなくなって、多少お疲れ?という感じになって、4時間近い長いレッスンは打ち切ることにした。

とことん疲れた!
次の日は使い物にならず、うつらうつらと過ごした。
英語の構文はほんとうに不思議に思うことがある。
日本語とはまるで組み立て方が違う。
なにもここまできっちりと言わなくてもわかるのにと思うこともある。
日本語の曖昧さ、言わなくてもわかるでしょ的なことはほとんどない。
ハリーはもう17歳。
会話は立派な大人の言葉になってきた。
私がうんうん言って考えてもわけがわからないこともしばしばある。
ルースさんは日本語はあまり出来ないので、説明に四苦八苦。
二人でああでもないこうでもない、話しているうちにパッと回答が見つかることも。
言葉は本当に面白い。

私は音や言葉の面白さばかり楽しんでいるから、現実の世界のことは苦手。
家事も雑、お金の計算はほとんど頭を素通り。
電球の交換とか力仕事とかになると、全然役に立たない。
パソコンや携帯電話なんかは、逆立ちしてもわけわからず。
まったく猫と同じ。
それを助けてくださる人がいてこそ、好きなことができている。
日々感謝なのだ。





























2020年6月10日水曜日

ノンちゃんが大好きだった人

ノンちゃんのご主人の田畑精一さんが亡くなった。
ノンちゃんはご主人に惚れ込んでいた。
時々北軽井沢の家にご主人が訪れるときは、朝からソワソワニコニコ。
ノンちゃんは夏の間北軽井沢の家にずっと逗留していたので、都内で仕事をしているご主人とはたまにしか会えない。
初めの頃は精一さんが車の運転をして一緒に来ていたけれど、彼の腰が悪くなってからはなかなか一緒には来られなかった。
彼はいつも素敵な笑顔のとてもハンサムな方だった。
表面上は柔和で優しげだったけれど、思想のはっきりした、権力に立ち向かえる気骨の持ち主だった。

NHKが彼の絵本を断りもなしに放送で取り上げた。
その時の怒髪天を衝く怒り様は覚えている。
NHK側に申し入れをすると、使ってやったのだからありがたく思え的な対応をされたらしい。
訴訟も辞さないという勢いだったけれど、その後のことは聞いていないからわからない。
しかし、理路整然と自分の思いを相手側に伝えられたことは間違いない。
ノンちゃんの一途な心に、それはとても頼もしく思えたのだと思う。

彼は手相を見ることが出来て、スキー場などで夜みんなの手相を見てくれた。
女性たちはキャーキャー言いながら、彼からズバズバといわれる言葉を楽しんでいた。
それをノンちゃんはいつもおおらかな笑顔で見守っていた。

さんざん他の女性の手を握ったあとで、精一さんが最後に必ずノンちゃんの手を握ってニッコリと見つめ合うのが素敵だった。
そんな彼を見ていると、この人隅に置けないといつも思っていた。
ノンちゃんとの結婚を決めたエピソードも聞かせてもらった。
彼はノンちゃんにとって、生涯の恋人だったようだ。
私がノンちゃんを好きなのは、その一途さ気持ちの豊かさ。
精一さんは確かに素敵な男性だったけれど、それを遥かに超えるのがノンちゃんの純粋さだったと思う。
だからノンちゃんが2018年に亡くなった時、ノンちゃん先に逝ってよかったね、と思った。
ご主人が亡くなったら彼女はどれほど苦しんだことか。
どれほど嘆き悲しんだことか。
私はずっとノンちゃんを見ていたから、そんな姿は見たくない。

今頃天国の入り口で精一さんを待っているノンちゃんの嬉しそうな笑顔が輝いているでしょう。
彼が北軽井沢の家に来るのを待っていた時のように。
そういう時のノンちゃんは少女のようだった。
ノンちゃん良かったね。
精一さん、ノンちゃんとずっと一緒にお幸せに、そして安らかにお眠りください。


 「おしいれのぼうけん」などで知られる、絵本作家の田畑精一(たばた・せいいち)さんが7日、老衰のため亡くなった。89歳だった。葬儀は近親者で営み、後日お別れの会を開く予定。喪主は弟博司(ひろし)さん。
 31年大阪生まれ。京都大学中退後、人形劇に打ち込み、その後、古田足日(たるひ)さんと出会い、子どもの本の仕事を始めた。保育園の取材をもとに古田さんと共作した「おしいれのぼうけん」(74年)は、累計発行部数が230万部のロングセラーに。そのほか、先天性四肢欠損の障害がある少女を主人公にした「さっちゃんのまほうのて」、「ダンプえんちょうやっつけた」などの作品がある。
 松谷みよ子さんらと「子どもの本・九条の会」の代表団の一員となり、日中韓の絵本作家による平和絵本シリーズの呼びかけ人になるなど、反戦活動にも力を注いだ。

2020年6月8日月曜日

お金の使い方

私は何度も言うけれど、お金持ちではない。
日本の国民の金持ち度を3等分するとしたら、下の3分の1に入るランク。
しかもその中の真中辺・・・だと思う。
それでもまだ自分に甘いかな?

お金は無くても、実に楽しく暮らせるすべを身に着けている。
それは幸福の基準がお金ではないから。
お金はすごく大切、それは身にしみてわかっている。
私が入団した頃のオーケストラは、スポンサーの放送局からの援助が切られてどん底の経済状態だった。
解散するか自主運営で立て直すか、選択を迫られて楽団員は団結した。
楽団員は一日中働いて、年間300回以上の演奏会をこなし、疲労困憊、それでも給料は遅配に次ぐ遅配。
本当にお金が無くて新聞代が払えないなんてこともしばしばだった。

それで事務所に遅配の給料の前借り?に行くと、事務員が泣く。
でも、人生はいつも輝いていた。
毎日笑って過ごしていた。
その頃はお金が無いことすら面白くて、貧乏自慢。
だんだんオーケストラの経営が軌道に乗ってきた頃、私はもっと羽ばたきたくてフリーになった。
だからお金が無ければ無いなりに生活ができる。

不思議なことに私の運勢は、お金を使わないと入ってこないという様になっているらしい。
必要なときにはお金が必要な分だけ入ってくる。
ただしきっかりとその分だけなので、余らない。
貯金はいつも同じレベルだけはあるけれど、口座額はいくら貯金しても増えない。
というより貯金をし始めると、収入がぱったり途絶える。
それに気がついてからは、貯めるより、必要な物はケチらず買うことにした。
例えば楽器を買うときも、ほしいと思った額の保険金が満期になって手に入るとか。
それも保険のことは忘れていて、楽器欲しさに自分の預金通帳や保険の証書を必死に探していて気がつくとかで。

ノンちゃんの家を譲り受けた時のわたしは、おおよそ、その額の預金しかなかった。
ノンちゃんの家を買ったら私はほとんどすっからかん。
でもノンちゃんのたっての望みで、私がその家の後継者になることは彼女の生前からの約束だった。
まあ、なんとかなるさ。
彼女が亡くなって私は家の所有者となった。

時々、こんな晩年とも言える時期に貯金をなくして、今後なにかあったらどうするのかと後悔することもあった。
あのお金があればエステや美容院に行って、もう少し身ぎれいにできるのに。
新しいドレスがほしい。
靴もムカデさんほど持っているのに、まだ欲しい。
旅行に行っていいホテル泊まって美味しいものが食べたい。
友人たちの殆どが、たぶん心配したと思う。

森の中の一軒家。
季節によっては人っ子一人いないこともある寂しい別荘地。
売りに出しても、おいそれと買い手はつかないだろう。
近くにおしゃれなお店もない。
軽井沢ならいざ知らず、「北」軽井沢なんて。
でもね、大きなサニーレタスが2個で100円!!!

今一番思うのは、私はこの家を買うべくして買ったのだと。
先日追分に住む友人が、庭木の剪定に来てくれた。
体のがっしりした友人は女性とは思えないほど力持ち。
浅間の噴火で飛んできた溶岩が、アプローチの横に邪魔くさくゴロついているのを易々と持ち上げて退かせてくれた。
今まで車をバックで入れる時、あちこちぶつかる危険があった。
それが邪魔な枝を切り、岩を退けたおかげでなんの心配もなくなった。
こざっぱりした庭を満足気に見渡しながら「nekotamaさん、この家買ってよかったねえ」しみじみと言ってくれた。

本当にそう思う。
文無しもなんのその。
ミノムシみたいな可愛い家をしみじみ眺める。
老後の資金が消えても、天下の回りものがそのうち回ってくるさ。
全部なくなったら3畳ひとまのアパートで暮せばいい。
年金で暮らせるものなのかは、わからない。
でも、ノンちゃんはこの家で楽しく暮らす私を見守ってくれているはず。
ノンちゃんが大好きだった庭の大木の下に、花の咲く木を植えた。
本当はおカネのなる木を植えたいけれど。

軽井沢から来た人とベランダで昼ごはん。
焼きそばとふかひれスープ。
セブンイレブンのデザート。
雑木林を渡る心地よい風とチラチラ輝く木漏れ日。
なんて素敵なんでしょうと客人が喜ぶ。
森の奥でカッコウが鳴いて、食後のコーヒーが香り立つ。























2020年6月6日土曜日

今のこの時期

日本で、いや世界中で自分はコロナ新型肺炎にかかっていないと言い切れる人はいないと思う。
誰もが心の奥底で症状こそ出ていないけれど、もしやと思っているのでは?
私も毎日検温と咳喘息の薬の吸入を欠かさない。
夜中に目が覚めて少し寒気がするときなどは、いよいよ来たかなんて、身構える。
次の朝目が覚めて気分が良いとほっとする。
ああ、今日も無事だったと。

その後コロナの感染拡大で、呑気なことは言っていられなくなった。
電車、タクシーには乗らない。
常に自分の車で一人で行動。
それで以前より車の使用頻度は多くなった。
ほとんど毎日運転している。
もし次回の高齢者講習会で運転に適さないなんて言われたら大変。
私はずっと免許証を返納なんてありえない。
運転できなければ猫と2人で北軽井沢にいけなくなる。

毎日検温してわかったのは、体温は一日のうちでもすごく変動するということ。
私だけかもしれないけれど、午後計ると高くなる。
ぎょっとして夜寝る前に計ると低くなっている。
背中がゾクゾクするからきっと熱が出たのだと恐る恐る検温すると、完璧に平熱。
なんだかよくわからない。
私は体温のコントロールが上手くいかない。
体温と言うより温度感がわからない。

寒いからと暖房をつけると、すぐに暑くてたまらなくなる。
暑いからと冷房をきかせると、すぐに寒すぎて消してしまう。
春先には冷暖房を繰り返しつけたりけしたり。
すこしでも暑いと熱中症になるし、寒いのを我慢すると風邪をひく。
それで温度と湿度を表示して、同時に熱中症とインフルエンザの危険度を知らせてくれる温湿計を買った。
自分の感覚よりもずっと信用できるので、これを見て最近は判断している。
https://tamatora.36nyan.com/?p=17653

器械で人を管理する時代はすでに始まっている。
私は介護ロボットのお世話になって快適な晩年を送りたい。
けれど、呼吸や食事まで器械に頼るようなら、人間をやめたほうが良い。
ただ本人の意志とは関係なく、身内の満足のための介護というのは残酷なので、私は受けたくない。
ロボットなら本人よりも快適な介護を知っていると思う。
ついでに猫のロボットも作ってもらって、一緒に暮らしたいというのが私の妄想なんですが。
犬とか馬もいいなあ。

介護施設でのコロナ感染が広がっているけれど、こんなときにこそ介護ロボットの出番ではないの?
なぜ出来ないのだろう。
検温とか唾液の検査とかなら、ロボットができるのでは?
人工呼吸器を自動化したり、病室の移動とか検査室や手術室への搬送とか、自動化できないものなのか。
その際、人は一人だけついていれば良いようにセットできるのでは?
やくに立たないマイナンバーカード作るよりましでは?
莫大な税金を使って普及させたマイナンバーカード。
結局またもや税金の無駄遣いになった。

世の中はいまやキャッシュレスとか言うけれど、これだって日本人のほんの一握りの人しか使いこなせない。
私もそのうちの一人だけれど。
使いこなす方ではなくて、こなせない方のね。
せっかく作ったカードをいつも忘れる。
レジの前で大汗かいてカードを探す。
忘れてきたみたいですと毎回同じセリフを言う。
家に帰って落ち着いて探せばたいていは財布に入っている。

カードをレジで見せたら、レジの人が困った様子で、あのー、これは銀行のキャッシュカードですと言われたこともある。
どこのお店もカードを発行したがる。
いう事聞いて作ったら、財布はカードだらけ。
こんな様々発行されてもなにがどこのなにやら、さっぱりわからない。
それで結局いざというときに役に立たない。
だからといって値段通りの買い物をするのだから現金でも損はしていないのに、ポイントが付かないと損した気分になるのがいただけない。
いっそのこと全部いっしょにしたカードができれば良いわけで、便利なカードも多種多様になればなるほど困っている人が増えないだろうか。

いつの間にかカードの会費が引き落とされていて、ああ、あのカードは年会費を払わないといけないのかと気がつくこともある。
だから私のようにうっかり者は下手にカードを持っても使えない。
おそらく国民の大半はカードが有効に使えていない。
一部の頭脳明晰さんたちが大いに儲かって、使えていると思っている一部の思い込みさんはラッキーならば得をするけれど、たいして大金が儲かるわけではない。
それらの下に使えないばかりか損をしている人がいて、世の中辻褄が合っている。

コロナの話に戻ると、ちまちまと改革をしてみたりするより、最初に大きなお金を使って思い切った対策をすればいい。
お金はそうやって使ってもらうのが一番うれしい。
大金を投じて医療機関に安全な対策を施す。
そこでケチって国民の人気取りにマスクなんか配るのは最悪。
その分、どうして医療費に回さないのか、そこのところが不思議でならない。
対策が長引けばそれだけ不景気が長引く。
最初にケチったために、ますます不景気を呼ぶようでは正しいおカネの使い方とは言えないでしょう。
気の小さい政治家を持った国は、貧乏になりそう。
経済的なことは勿論、心が晴れない。

そう言えば、アベノマスク来ましたよ。
ものすごく使いづらい。
見れば見るほど腹が立つ。
こんなちまちましたことをする一国の首相って他にいるかしら?
本人の気の利かなさ気の小ささを象徴するようで、見れば見るほど腹が立つ。














言われることもある。銀行のキャッシュカードですと













2020年6月2日火曜日

フィジカル ディスタンス

コロナの感染を防ぐために人と人の間の距離を空けましょうという事が言われて、この騒ぎのはじめの頃はソーシャル ディスタンスと言っていた。
それが急に体のことなのでフィジカルが良いと言いうことになって、横文字弱い系の私はついていけない。
なんとでも言うがいいさと思うけれど、言い方以外は大変良いことだと思っている。

日本人は人との距離が近すぎる。
日本人皆家族みたいな国だから、例えば病院の待合室などでベンチに座っていると、すぐ隣に知らない人が来てぺたりと横にくっついて座られるのが一番イヤ。
話好きそうなおばさんが私の顔見てニコニコすると警戒警報マックス。
あらぬ方に目を向けて知らん顔。
ただ私の顔が面白いと思って笑っているのかもしれないけれど、それならもっと腹が立つ。
うっかり会話の糸口がつこうものなら、家族の話、孫の話、聞きたくもない他人の内輪話、それきいてどうする。
しかも知らない人のですよ。
だからと言って人間嫌いではないけれど、病院などでやたらとツバを飛ばして会話するのはいかがなものか。
それがコロナ騒ぎのお陰でやっと皆が気をつけるようになった。
軽い風邪くらいでもひけば命取りになる人もいるだろうし。

会話が弾むのは良いことだけれど、問題は会話の内容。
私は動物の話は大好きだけれど、他人の孫がどうしようと知ったことではない。
孫も動物の仲間ではあるけれど。

ある時、友人のピンチヒッターで仕事を引き受けた。
すでに練習をして残すは本番のみというときに、海外から帰れなくなって私に助けを求めてきた人がいたのだ。
練習に出ていないということは初めて見る楽譜を、会場練習のみで本番で弾くということだから、当然緊張する。
しかもメンバーは全員初対面。
さいわい曲は初めてではなかったし、コンサートミストレスはよく噂に聞く人だったし親近感があったのがせめてものことだった。
ただ、楽譜というのはそれぞれの団体で使っている版が違ったり、コンサートマスターのやり方が違えば当然弦楽器なら弓の動きもちがってくる。
練習で決まったことが私がいままでやったこととは違うこともあるから、油断も隙もない。

おそるおそる会場にでかけた。
相手の人たちは私はベテランだと思っている。
それは年をとっているから。
でも私は前にやったことはすべて忘れる名人だから、常に新人と一緒。
大変小編成のグループだったのでヘマはすぐにわかる。
私が年齢通りのベテランでないことがばれるのは時間の問題。

トイレに行くと鏡の前でコンミスとばったり!
私もこういう時でなければちゃらちゃらと会話ができるのだけれど、珍しく人見知りした。
相手も私とは初対面でどう対処していいかわからない。
鏡越しに軽く会釈をしてニコニコしてはいたけれど、話のきっかけがつかめない。

その日のステージ衣装は黒。
猫の毛発見。
あら、家の猫の毛が....と言ったら、あら、猫飼っていらっしゃるの?
突然嬉しそうにコンミス。
その後は急に猫の話で、トイレで盛り上がった。
スマホの写真を見ると、まさしく猫。
孫の写真見せられてあまり可愛くないと褒めるのに苦労するけれど、猫ならどの猫でもだいたい同じにかわいい。
シミもシワも毛皮で隠れて見えないし、大きさもほぼ一緒。
猫の話なら見知らぬ人の孫の話よりずっと嬉しい。

その後長いことその方にお目にかかることもなく、先日あるコンサートに出演していらしたので懐かしく拝見した。
ステージの雛壇を降りるときに隣の人にそっと手を差し伸べて、お互いに用心深く壇を降りているのを見て、ああ、お互いに年を重ねたものだと感無量だった。
私はもうあの高さなら人手がなければ降りられない。
楽器を持っているからなおさら。

最近、本当に喜ばしいことに人との距離が遠くなったこと。
好きな人ならいざしらず、見知らぬ人とはなるべく近くによりたくないのに、平気で他人の領域に入る人がいる。
猫ならしっぽの毛を逆立ててフーッ!と言えるけど。

電車の中で体験したことがある。
私の乗っている車両に後から乗ってきたカップルがいた。
たぶんご夫婦。
その男性の方が私にピッタリと張り付いた。
いくら私が小さくったって存在はわかるだろうに、私の左脇に全く隙間を開けずに立ったのには戸惑った。
そうっと体をずらすとまだ張り付いてくる。
数回繰り返して堪りかねて、すみませんが間を開けてくださいと言ったら、自分は何もしていないという。
痴漢とかそういう類のひとではなくて、他人に触れているのに気が付かないような風だった。
そばに奥さんがいて、奥さんとは普通の他人とのキョリ。
それなのに他人の私には張り付く、その神経がわからない。
その人は本当になんにも考えずに私と体が触れているのも気が付かないようだった。
多分毎日満員電車でそんなことは日常茶飯事、気にする私がおかしいの?

海外に行くと人の流れやあるきかたがとても心地よく感じる。
お互いにひとの流れを見ながら、ぶつからないように早足で歩く。
だから日本に帰ってきて最初に電車に乗るときには、あまりの歩きにくさに驚くことが多い。
先日私は駅の構内で、いきなり直前をひとに横切られ転倒した。
肋骨にヒビが入っているときで、その上転倒によって胸を打ったので痛くてなかなか起き上がれない。
ぶつかった相手は心配そうに立ち止まってはいるものの、なんの声掛けもしてこない。
悔しいから大怪我したことにしようかと思ったけれど、人だかりができ始めたので死んだふりはやめてあるき出した。
彼は斜め後ろから近づいて私の真ん前を横切ったのだ。
当然私から彼は見えない。
こういうひと最近多くない?
海外でこういうあるき方をする人は見たことがない。
日本人の他人もみな家族、的な関係がそうさせるのだろうか。

それこそソーシャル ディスタンスを守って欲しい。
コロナ報道をする際にはそこのところもひとつ、ワイドショーの出演者諸氏にお願いしたい。