2024年7月21日日曜日

ファスナーを開ける猫

 のんちゃんという元野良猫の頭の良さは驚き。

先日は高速道路でナイロン製の網を食い破って猫のキャリーバッグから脱出したことは前回のnekotamaで書いた通り。私は今回やっと健康が回復したので北軽井沢に少し長めに滞在した。先日のハプニングの経験から今回はコチャのバッグにのんちゃんを入れて、コチャは新しくプラスチック製のケージを使うことになった。

コチャの大きさに今度買ったプラスチックのケージがぴったりだったので。行きは良かった。のんちゃんも文句を言いながらもなんとか網は破かれずに澄んだ。それではと帰りの入れ物も同じものにしたら、家から出て5分くらいのところでのんちゃんの頭がヌッと出た。あれっと思う間もなくコチャが長年愛用したキャリーバッグは使えなくなった。

のんちゃんはキャリーバッグのファスナーをやすやすと開くことに成功したのだった。まいった!どうやって学習したかというと、前回網の目を引き裂いての脱出は相当な体力を使ったものと思われる。たまたまファスナーの引手の部分に爪が届いて引き下げたら開いたらしい。そこをさわればなんとか開くということがわかったらしい。

あっけなくファスナーを開けられてしまったのは浅間牧場の交差点。車を牧場の駐車場に入れて考えた。今コチャが使っているプラスチックのケージはのんちゃんには小さいけれど、これに入れるしか方法はない。窮屈で可哀想だけど交換しよう。

慎重に逃げられないようにコチャを予備のバッグに入れる。空いたところへのんちゃんをガッシと捕まえて押し込む。近くを通る車からの視線を感じる。いったい何をしているのかと見ている。奮闘の末二匹はケージ交換終了。やれやれ

この数時間前、Y子さんからのお誘いで軽井沢の大賀ホールへコンサートを聴きにいった。マチネーだったのでお昼ご飯をY子さんの家で頂いて、そこから徒歩でホールまで行った。梅雨明けの日差しはもう強烈なのに木陰は涼しい。気分よく散歩してホールに到着。やはり軽井沢は素敵。特にこの界隈は美術館やコンサートホールが並び、賑やかな駅前の雰囲気とは別世界。北軽井沢の雑木林もいいけれど、ここに来ると充実した人生を送ってきた人々が古くから好んで作り上げた特別な別荘地の感じがする。

私のように馬を飼いたいというので山を探していた野生人とは人種の違いを感じる。北軽井沢では熊の話は聞かないけれど、雑木林には様々な動物がいて最近はイノシシが散歩しているとか。しかも川沿いに親子連れで歩いているというから自宅敷地内に川が流れている我が家も安心できない。それで猫たちも表に出すことができないので、猫用の小屋を作ってあげることにした。

玄関横に掃出し口があって猫の出入り口にはぴったり。そこから外に金網の小屋を作ってせめての外気を吸わせるという計画をたてた。近所に木工細工をする人がいてお願いしてあるけれど・・・彼に頼んだ表札は二年越しでまだ出来上がっていない。これも計画倒れになる可能性もあるかも。

さて軽井沢の大賀ホールでのコンサートはウイーンフィルの元コンサートマスターのライナー・キュッヒルさんのヴァイオリンリサイタル。

ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ8番から始まった。ブラームス「雨の歌」ショスタコーヴィッチ、プロコフィエフ、チャイコフスキー・・・至福のときだった。

輝かしく端正で豊かで、幸せに満たされたコンサートだった。ここ大賀ホールは音響が素晴らしい。私も1昨年弾かせてもらったけれど、ステージのどの場所で弾いても音が変わらない。本当に心地よい。

そして家に帰ると待っていたのは二匹の猫。お腹をすかせて食事を摂ると立派な排泄物を揃って産出、翌日帰る予定だったのを急遽「今」帰るに変更。こんなチャンスはまたとない。いつも車の中でトイレシートを取り替える羽目になって情けない思いなのに、今日はその心配がない。

そろそろ日が落ちる、高速入り口まで明るいうちにたどり着けたら楽だから、大急ぎで家の片付けをして猫を車に乗せて発車、でこの文章の最初に戻るとファスナーの話しに繋がります。

帰宅するや二匹の猫はすっかりくつろぎ、のんちゃんは早速ご近所さんを訪問に出歩いている。梅雨が明けて暑いけれどやはり自宅がいいらしい。北軽井沢は前の持ち主のノンちゃんから引き継いで6年、あと4年持てばいい。体力的にはそろそろきつい。運転も大変。山を降りて軽井沢に居を構えるとなると先立つものがない。千葉県の海辺の家に引っ越してもいいかも。やはり私は野生の血が濃いから自然の中に住みたい。さあてね。









2024年7月10日水曜日

のらの脱出

北軽井沢で病後のリハビリ、清浄な空気と溢れる緑に目の保養を終えての帰り道、高速道路でハプニングが。ほんと、死ぬかと思った。

最近は老猫のコチャはすっかり車に慣れておとなしい。けれど新入りのノラ改めのんちゃんは一向になれることがない。

人のノンちゃんは北軽井沢の家の前の持ち主、ノラはその後継ぎとしてノンちゃんのお名前を頂いて平仮名の「のんちゃん」とすることにした。白黒模様の艶のある毛並み、一見大人しげで美人だしほっそり優雅な物腰、いかにも可愛げに見える。ところがこれが恐ろしく気が強く感情が激しい。しかも賢い。

長年野良で生き抜いてきただけのことはあって、並大抵のことでは我慢することはない。思ったことは必ず押し通す。地域猫として数件の家を渡り歩き可愛がられてきた。艶々した毛皮には傷も見当たらない。外見は全く良いとこのお嬢様。声は高く澄んでいて決して大声を出さない。

ところがこの猫は人の気持ちを見抜く。こっそりわからないように出かける前の日に荷物はほとんど車に運び込んでおく。出かける前から何気なく最後の積荷を運び込むけれど、そのあたりからもう状況は彼女に筒抜けになっている。絶対にケージに入りたくない!という意志がオーラとなって見える。幸い猫には急所があって、首筋を掴まれると身動きがとれなくなる。そこを掴んで乱暴にケージに押し込めファスナーを閉じる頃には私はハアハアと荒い息を収めるのに大変。まずは私の勝ち。

前回ケージのファスナーを開けてのんちゃんは脱出、高速を降りてからだったからすぐに対処できたけれど、今回はそれを高速上でやられてしまった。どうやってファスナーを開けたのだろうか?たぶん最後の止め方にわずかに爪をいれる空きがあったのだろう。

もちろんファスナーは前回のこともあるのでちゃんとしまっていることを確認している。ケージをシートベルトでしっかり固定。しかし今回の彼女の騒ぎ方は前回を上回っていた。なにがなんでもこんなところに入っていたくはないという彼女の強烈なアピールで車内は大騒ぎ。途中の点検で見たところ、底に敷かれたトイレシートはずたずたに食いちぎられていた。

そろそろ高速の出口が近くなったころ異変が。ひときわ大騒ぎがあってやっとそれが静まったと思えた頃、私の左肩からぬっと猫の顔が!あわわわわ・・・・なんで?どうしよう。

猫が大人しく座っているわけがない。しかものんちゃんは私の膝が殊の外お気に入り。膝に乗られたら運転できない。とりあえず速度を落とし左側の走行車線に移り75キロで走っている軽トラックの後ろにつく。猫はと見れば物珍しげにフロントガラスの景色を眺めている。眺めながらも私の膝に座ろうとする。しっかりとのんちゃんの体を左手で固定した。

細身でありながら長年の野良生活で鍛えた彼女の筋肉は強靭で、激しく逃れようとする。そうさせまいと抑える私。ああ、どうしよう。路肩は狭く車を止めるのは無理。その時、三芳パーキングエリアがあと13キロと標識が出た。13キロ・・・とにかく走ってたどりつけばなんとかできる。

そこからは私の持っている全神経と筋肉が悲鳴を上げるほどの恐ろしさだった。猫が暴れる・・必死に抑える・・車がふらついてあわや・・・

外から見たらふらつく車でなにか異変が起きていると見えたに違いない。トラックが横に並んで少しの間並走している。しかし前の軽トラが75キロで走っているので追い抜いていった。軽トラがのんびりと走ってくれてよかった。

三芳のパーキングについたときには心底助かったと思った。のらのケージを見たらファスナーを開けたのではなく、ナイロンの硬い網目の部分が僅かに破られていた。こんな狭いところからどうやって抜け出したのか。しかしそれからが問題で、一体この猫をどうやって壊れたケージで運ぶのか?

いつもなら段ボールが積んであるのに今回は身軽に出たのでそれもない。クーラーボックスはあるけれど猫は蓋を閉めたら窒息してしまう。しばらく思案した結果、高齢で最近ほとんど身動きしないコチャのケージにのらを入れ、コチャは壊れたケージでも決して抜けられないとみた。

入れ替え作業は油断できない、高速の駐車場で逃げられたらもうこの子は生きて帰れるとは思えない。決して手放してはいけない。

まずコチャを座席に移し、その間しっかりと抱きかかえていたのんちゃんをコチャのケージへ。幸いコチャのケージはしっかりしているからこれはこわしようがない。のんちゃんを入れてしっかりファスナーを閉めた。ボロボロになったのんちゃんのケージへコチャをいれると大人しく入ってくれた。コチャはやっぱりいい子だ。

しかし猫が暴れたくらいで壊れるほどの粗悪品、売っていたペットショップに一言カスハラしておかなければ。か弱く見えるのんちゃんは実はものすごく凶暴で、私にさえも噛みついてくる。異常なまでに意思を通す。強烈な愛情深さと賢く人の心を読み取る力、時々猫ではないのではと思ってしまう。

事故を起こさないで本当に良かった。思い出すたびぞっとする。生まれて初めての事故が大好きな猫によって引き起こされたら私は絶望してしまう。ここ数年の悲しい出来事の上事故まであったらもう生きてはいけない。でも誰かが私を守っていてくれるのを感じることがある。

のんちゃんに似た私の母親かもしれない。


























2024年6月30日日曜日

土砂降りの中華街

 悪友のM子さんの誕生祝いをしようと約束した日は、線状降水帯が発生したという素晴らしい日だった。まだ西日本でと思っていたけれど、敵もさるものあっという間に関東地方も土砂降り。われら病み上がりのか弱い二人。元町・中華街の駅に降り立った頃には横殴りの強い雨が。ゆくもかえるも地獄、それなら行ってしまおう。

小さなお店はたくさんの有名人の色紙が壁に貼ってある。どうやら野球関係者?そのあたりの知識のまったくない二人はありがたい色紙にも目もくれず注文をする。しいたけや中華風高野豆腐?の甘辛い炒め物、ピータン、フカヒレスープ、うにの茶碗蒸し、など普段あまり食べない料理につられて食べる食べる。飲み物は慎ましくノンアルコール。ずっと病院食の薄味に慣れていたけれど、濃い味が殊の外美味しい。

すっかり満足してさて、表を見れば、この中を歩いて帰るの?誰に相談するまでもないけれどシャワーのような素敵な大量の水が天から降ってくる。しょうがないか、いつまでもお店に居座ることもできないし。

とにかくコーヒーでも飲もう。水たまりをものともせず駅に近い方まで戻ると、ああ懐かしやヴェローチェなど数件のカフェ。そこでやっと一息ついていると続々と客が入ってくる。入り口近くは水浸しで店員が時々モップで拭いている。慌ただしい誕生会となってケーキもなかったけれど、実現できてよかった。なんたって「俺達に明日はない」だから。誕生日を祝えたことだけでもラッキーなの。思い出に残る誕生日にはなった。

しばらくすると雨は小降りになってきた。しかし、無鉄砲な二人のビショビショ美女がこんな高齢者だとは誰もしらないのが愉快。生命力強いのかもね。メニューの中で気になる食べ残しがあったからまた来ましょうと言って、この食欲がある限りもう少し生き残れるかな?


2024年6月3日月曜日

泡沫の夢

 いつも猫に起こされるのは夜明け前。もうすぐ夜が明ける頃お腹が空いたといって鳴き始めるから、渋々起き上がって少し食べさせてもう一度眠ろうと思うけれど、もう眠れない。それでまたしばらく起きて窓の外を覗いたり白湯を飲んだりしているうちにあっという間に夜明けがきて、そのまま起きてしまうからいつも睡眠時間が短い。

時々まだ眠りたいと思うときには布団に潜り込んで横になっていると、しばらくして眠っていることもある。そんなときに夢を見た。昨日のこと。

つい先ごろまで仕事をしていたからその仲間たちがぞろぞろ登場してきた。どの顔もニコニコしている。ああ、懐かしい仕事仲間たち。本当に楽しかったのに、ここ2年半ほどの擦った揉んだですっかり忘れていた。

同世代もいたけれど、大抵はわたしよりずっと年下の息子や娘の世代なのに、なんとも愉快に過ごしてきた。私は本当に幸せだったのだと改めて思い出した。その仕事仲間にマンドリンのSさんがいて、彼女とは仕事でもプライベートでも仲良くしてもらっていた。

毎年東京マンドリンクラブのコンサートが千駄ヶ谷の青少年センターで開かれて、それを聞きに行くのが恒例だった。去年はあまりの忙しさにいかれなかったけれど、色々解決して余裕ができたので今年は聞かせてもらった。マンドリンの音色は弦を指で細かく震わせるトレモロで演奏するので、不思議に心揺さぶられる。

今年の曲目は前半はクラシック、後半は越路吹雪特集。

前半 プーランクの「牝鹿」 シューベルト「交響曲 未完成」

マンドリンの音は普通の弦楽器よりもボリュームが出ないけれど、ビシッと決めるときには面白いように決まるのだ。そんなことを考えながらのんびりしていた。シューベルトの二楽章に差し掛かり、そういえば三楽章ってどんなメロディーだったかしら?思い出せない。

ついに私もボケたかと思っていて気がついた。思い出せないのは当然、だから「未完成」の名がついたのだ。この曲は二楽章までしかないのだ。いくらオーケストラから遠ざかっていたとはいえ、こんなことを考えるようではもうおしまいなのだ。苦笑い!

後半は思い出の越路吹雪特集。越路さんとは「題名のない音楽会」でお目にかかったことがある。リハーサルに現れた彼女は顔色が悪く髪の毛ボサボサ、声も出ない。「これが?あの?」越路吹雪?有名なあの人なの?

本番当日心細げに佇んでいる彼女。しかし、舞台袖でスタートの声がかかった途端、オーラが噴出した。あの情景を思い出すたびに私は胸がいっぱいになる。そこには輝く火の玉のような大スターがいた。あっという間に私達を虜にした。

マンドリンコンサートの演奏者の中には、リズム担当のゲストとして以前スタジオやテレビ局などで一緒に仕事をしていた人たちがいて、彼らの上手さには舌を巻く。パーカッションやベースの小気味よい決まり方が素晴らしい。こんな人達と仕事をしていたのだ。なんて素敵なことだったのか。終わってみてやっとわかったこと。

外は土砂降り、雷鳴が轟いていたらしい。表に出ると小雨の中、球場から出てきた人たちとコンサート会場から出てきた人たちで歩道はいっぱいでノロノロ進む。目と鼻の先にあるかつて勤めていた音楽教室で私の生徒がピアノ合わせをしている。時間が間に合ったら聞きに行くからと言ってあったのに、終演が伸びたのと人混みと悪天候で遅くなってしまったので諦めた。タクシーも捕まらないし、徒歩では間に合わない。地下鉄で行くのはもっと無駄。

電車の窓には土砂降りの雨が叩きつける。最近私は電車に乗ると必ず席を譲られる。ずいぶん老けて見えるのだろうなと思う。2年半の嫌な時間を過ごしていたときは鏡に映る顔は般若だった。やっと自分を取り戻し始めたけれど、もう時間は戻らない。

姉が来て私の顔を見て「nekotamaちゃん、前に戻ったね」といってくれたから少しは元気に見えるのかな?やっと。

















2024年5月13日月曜日

プラシド・ドミンゴ プレミアムコンサート

 彼ももういい年だと思うから多少の衰えを感じるのは覚悟でコンサートにいったけれど、嬉しい誤算、声もオーラも変わりなく、東京文化会館大ホールの満席の聴衆からブラボーの嵐が巻き起こった。

私が彼の生の声をきいたのはずっと以前、彼の容姿はスラリとしていかにも若々しかったから数十年は経っているかも。私の音楽人生は聞くことから始まった。学齢前の頃からクラシック音楽は私の最高の遊び相手。親兄弟が学校や仕事に出かけたあとの空っぽの家にたった一人、ぽつんと残された無聊をかこちながらレコードを聞くのが日常。そのお供にはいつも猫がそばにいた。逃げないように私にぎゅっと抱きしめられて猫もさぞや迷惑なことだっただろう。

その頃レコードで聞いたのは古くはシャリアピン、カルーソーなどの昔の歌手たち、その後はブライトコッフなど、そしてディートリッヒ・フィッシャーディスカウ、ペーター・シュライヤーなどから後は肉声を聞いている。歌は人そのものが出す音だから、楽器に比べてより面白い。しかも声楽家はだいたい女たらし、美食家、わがままときている。男としての魅力満載でいながらジェントルマンでもある。こういう人は素敵だけれど、そばにいたら鬱陶しいかもなどと妄想を馳せる。私ごときにそんな男は寄っても来ないのに。

さて、今回のコンサートの顔ぶれは

 プラシド・ドミンゴ    モニカ・コネサ(ソプラノ)  マルコ・ポエーミ(指揮)新日本フィルハーモニー交響楽団

ヴェルディ:序曲「シチリアの晩鐘」が終わってドミンゴ登場。少しお腹周りが太ってはいたけれど、無理をしていたかもしれないけれど、歩き方も颯爽としている。第一声を聞いたときに驚きの若々しさに感嘆。最初から手加減せずに聴衆を魅了した。いったいおいくつになりますか?

聞き手は魅了されどんどんヒートアップ、おとなしい日本人も彼に翻弄されてスタンディングオベーション、後半は一階席は殆どの人が立っていた。私は二階席で良かった。そうでないと前の人が立ってしまって彼が見えなくなってしまうところだった。なんかオペラ歌手のコンサートというよりもロックバンドの乘りではないか。しかも客はほとんど中高年層。おしゃれをして母と娘で参加しているようなセレブ層など。珍しいね。

おかかをたっぷりかけた餌をもらった猫のように満足して家に帰ると、やはり疲れたらしく食事後すぐに眠ってしまった。あのパワーに対抗するには私はどうも齢を取りすぎたようだ。

新日本フィルの演奏が新鮮でチェロやビオラのソロがとても良かったことが嬉しかった。多分私のかつての友人たちの忘れ形見が演奏者の中にいると思う。もはやどこのオーケストラにも私の同僚だった人たちの姿はなく、次世代の活躍する時代になった。その血脈が音楽の中に流れてまた次世代につながり、西洋音楽が自然なものになる。今後は日本の文化に自然に溶け込んで世界は一つになる。そんな日がもうすぐそこに来ているのに他国では未だ戦争をしているバカどもがいる。これが悲しい。



















2024年5月7日火曜日

ヴァイオリンはもうやめるけど

体調が戻ってきた。

これは足の状態が良くなったということで、まずは復調の兆しと喜ばしい。けれど私はもう引退を決めている。ステージで死ねたら本望なんていうことも聞くけれど、それはひどくはた迷惑なことなのだ。ステージにたどり着くまでにどれほどの人たちの陰の力が必要か考えてみてください。

誰かがコンサートを企てるとする。まずは会場を決めてホールの使用状況を調べる。プログラムを決める。そのプログラムに必要な演奏者を決める。もし自分が主催者ならば曲目に必要な共演者・・例えばピアノ伴奏がほしいとか、カルテットならば自分の他にあと3人、もっと大編成のこともあって腕の良い共演者を集めるのは至難の業、売れっ子はたいていひどく忙しく希望日が空いていなかったり練習日が合わないとか、様々な障害が立ちはだかる。

やっとメンバーが決まって、大抵はそこからはマネージャーにお願いしてプログラムとチラシのデザインを決めて写真を撮ったり演奏者のプロフィールを集めて印刷が始まる。チラシが出来上がるともうあとには引けなくなる。ここまでに相当のお金がかかる。

一番楽なのは仲良しの共演者を作っておくこと。そうすると同じようなスケジュールができるからグループとして同じ動きもできるし、日頃から練習を重ねておけば多くの言葉はいらなくなる。以心伝心、楽器で会話ができるようになったらしめたもの。それでも揉めるのはいつものこと。以前私がしつこくチェリストに注文をつけてカルテットを潰してしまったことがあった。10年間も一緒にやっていたのに。これからもっと良くなっていくはずだったのに、その度合に対する熱意の分量が違っていたから。

揉めようが未完成であろうがコンサートの日は迫ってくる。眠れない、逃げ出したい。その繰り返し。しかしそうやって苦労しなければ永遠に上手くはならない。生涯の最後の日までうまくなったとは言えず死んでいくのが普通で、私ごときの演奏家は自分の限界を知っているからむしろ楽かもしれない。これが天才的な演奏家になるとプレッシャーは限界がない。

あのハイフェッツが自分に課したのは、演奏はそれ以前のものよりも進化していなければならないということだったと聞いたことがある。なんという厳しい生活なのか。長い目で見れば人は必ず上達していくとおもうけれど、時には体調や心のあり方で不調の事もあろうというもの。ヨアヒムが日本に最後の来たのは彼の引退の寸前で、一体どこが不満で引退するのかと思うほどの名演奏だった。もったいない。会場中の人が涙した。拍手が鳴り止まずハンカチで目を拭う人たち。でもそれが彼らの矜持と思うと、名演奏家はつらいと思う。レベルを下げることはできないのだ。

さて私の場合は引退するといえば皆さん喜ぶ。やれやれ、あのヴァイオリンをもう聴かなくてすむ。あれなら猫の声を聞いたほうがましだ。それは自分で一番良くわかっている。「そこはあたしの寝床なんです」と言って泣く丁稚ではないけれど、今までお付き合いしてくださって皆様、本当にありがとうございます。上等なお茶と羊羹をお出しして、お帰りにはお土産を差し上げたいと常日頃思っておりました。

で、ちゃんと今年で引退します。しますとも。だからヴァイオリンは古典の定期以来もう弾いていないのですよ。まだあと一回本番ありますからそろそろ準備しなければならないのに楽器を持つ気がしない。それなのに私の楽器は良く鳴る。下手くそな持ち主から開放される喜びでしょうか。時々指ではじくと素敵な音がする。この楽器にあえて良かった、としみじみ思う。楽器だけでなく今まで私に関わってくださった皆様、あなた達に会えて本当に幸せでした。

強情で頑固で意地悪で怒りん坊の私をよくぞ支えてくださった。御礼の言葉はどれほど言っても足りません。でもまだ死にはしないから(たぶん)今後ともよろしくお願いします。






































2024年5月3日金曜日

休眠期

 私はどうやら休眠期に入ったらしい。

今までの自分の活動パターンを見るに10年とか15年に一度大病をする。最初の病気の記憶は急性腎炎。ある朝起きると姉たちが大騒ぎを始めた。「nekotamaちゃん、顔どうしたの」どうしたと言われても元々不細工で美人と言われるような顔ではないけれど、大騒ぎされるような、そこまでおばけチックでもないだろうにひどいわ。と思ったらまぶたがあかないくらいのむくみが出ていたらしい。母が驚いて牛乳瓶に私の尿を入れて病院に走った。

結果急性腎炎、かかりつけの岸田先生というおじいちゃん先生が飛んできて私は絶対安静で寝かされた。優しい先生はいつも大きなカバンにいっぱい注射器や薬を詰め込んで往診してくださった。「入れ物が牛乳瓶だったから蛋白が出たと思ったけど、瓶のせいでなく本当に病気だった」と。おかゆと梅干しを食べ、タンパク質の多いものは食べてはだめ、当時はそう言われていたらしい。今なら体外に出てしまうのだから補うらしいけれど、初めての大病に大騒ぎ。

私としては痛みもなく好きなだけ寝ていられて、しかも嫌いな学校に行かなくていいからラッキー!だった。子供のくせに体を動かすのが嫌いで空想にふける毎日。天井の板の模様をじっと見ながらお話を作って楽しんでいた。

終戦後の当時の我が家の経済状態はどん底だったから母は大変だったと思う。1,2ヶ月はじっと寝ていたと思うけれど少しも退屈ではなかった。治って学校に行き始めると、私の授業の遅れを取り戻そうと女の先生が張り切って大いに迷惑した。その先生が大嫌いだったからで。

補講が始まっても私は断固拒否。大泣きに泣いて先生を困らせた。教檀で生徒の前で口紅を塗ったり、胸がやたらに大きく明いた服でなんか不潔!大嫌い、というわけで、先生も親もお手上げだった。その後もその先生が私にやたらと親切だったのは、親が地元の旧家ということだからと子供心にも嫌だった。未だにその手の不潔感が大きいのは、その頃からの感情の芽生えからかもしれない。

兄弟が沢山いて学校の先生よりも兄弟から教わることが多かった。結構な高学歴家族だったから家庭教師が何人もいるようで、授業で教わることはとっくに知っている。それでもなおその先生は私を目立たせようと、学芸会の始まりの言葉を言わせたり、運動会の入場行進の先頭に立たせたり、全く無駄に努力をしていた。

学芸会の挨拶は講堂の壇上で黙って突っ立っていいるだけ、入場行進は道を間違えて他のコーナーに突き進んで混乱を招いた。そのへんでどうやらこの子はだめだと諦めてくれたらしい。というより、3年生が終わって4年生となるときに担任が替わった。やれやれ、4年生からの先生は大好きで私はやっと学校が好きになった。

というように人生の節々の私の体調の変化で人生そのものが変わっていった。小学校の腎臓病のあとからは、それまで他の学友たちともなじまず学校嫌いだった私も楽しい小学校の高学年生活を送った。

中学校は間違えて良妻賢母育成のための女子校に入学、これもまた実につまらない中学生活。あまりにつまらないので同学年でヴァイオリンを習っているという人と共謀して、音大附属高校を受験、とうてい受かる見込みのないレベルのヴァイオリンの腕ながら、見事(?)合格。これからの人生がお花畑だった。

学長の有馬大五郎先生は体も心も巨大な人で、高校に現れると長い腕を広げて生徒たちを愛おしそうに抱え込んで廊下を歩いておられた。学校には校歌も規則もなくて、生徒たちはのびのびと明るく育っていった。この世の中に怖いものはなかった。少なくとも校内では。そして私は音大に進んでもヴァイオリンを練習するより本を読む時間のほうが長かった。

せっかく音大に入っているのにあなたはなんで本ばかり読んでいるの?と言ったのは高校受験をともにしたまり子さん。私は音楽家になるつもりで生きてきたわけではなく、その時々の気まぐれで音大に入ってしまったので、ここは遊びの気分。ここを出たらもう一つ普通大学を受験して真っ当な職業につくのが私の目論見だった。

そして卒業間際に母に「この次はどこの大学受けようかなあ?」その時の母の怒りは凄まじかった。子供の望むことなら何でも叶えてくれる母だったのに、そのときは怒髪天を衝く勢いで叱られた。「そんなにあちらもこちらもできないでしょ。一つ事をちゃんとやりなさい!」本当に音大ではただただ楽しく暮らしていたのでもうびっくり。しかもその頃には周りの大人達が私の進路を狭めていた。学生時代からエキストラでお世話になっていたオーケストラがそのまま私の職場となった。

音楽でお金をもらうということは生半可なことではない。お金をもらうからには絶対に手抜きはできない。生まれて初めて私は必死でヴァイオリンを弾くことになった。そして周りの人々が私を導いてくれて素晴らしい演奏家たちと引き合わせてもらい多大な影響を受けた。半べそをかきながら来る日も来る日も練習に明け暮れ、それまでの遅れを取り戻すために練習を重ねた。

当時は良い時代だった。オーケストラをやめてからも仕事は途切れることなく、そして私は大好きなアンサンブルを勉強するために多くの仲間達と夜中まで、時には早朝から練習を重ねていった。フリーになったのも自由に時間が使えるからという理由だったけれど、忙しすぎてフリーどころか寝る間も惜しいくらい。そして急性肝炎、狭心症などなどの病気にブランクを強いられては入院、通院を繰り返した。その周期がだいたい10年から15年くらい。最近は足の故障でここ2年ほど辛い。それもだいぶ良くなってきた。

今年は80才、何回目かの休眠期になりそう。毎日異常なほど眠る。つい数か月前までは4時間から5時間睡眠だったのに今や9時間ほども眠れる。人生の休息年。こうなるとまた新しい目論見が誕生する。時々こうした休息のあとで、なにかしら変わったことを知りたくなって挑戦してきた。若ければきっと長くてきつい旅に出たと思うけれど、今は体の無理が効かないので頭の体操、もう少し勉強しようかなんて思っている。なにを?さあ、なんだろう?そのうち目標が見つかるでしょう。