甲州街道の立川付近を走行中、目の隅にチラッと見えた旧型の車。
レトロだけれど色も形も気品があって、ん?何だろうと気になった。
中々並ばないのでトヨタのマークⅡ?スカイライン?なんだろう。
右折の車線に入ったら、やっと隣に並んで追い越していった。
日産セドリックだった。
約半世紀前の型?
ミルクティーを濃くしたような色で、箱型で天井が低めのいかにも一時代前の感じ。
懐かしい。
今どきの車のように室内の広さを取るために天井を高くしていないから、平たい形が今見るとスマートで、利便性より外側からのデザイン重視の様に見える。
乗っていたのは車に合ったレトロなおじさん。
特に気取ってはいないけれど、渋くてスマート。
車の色は特注かしら。
こんな色はあまり見たことがない。
古い車を大事にしてまだ乗っている、心意気に共感するものがあった。
私が運転免許講習を受けに行った時、自動車学校の車はセドリックだった。
いつも言うように私はチビだから、身の丈に合わない。
昔の車でも、もっと高級車だったら装置が付いていたかもしれないけれど、自動車学校の
セドリックはハンドルや運転席の高さ、背もたれの角度など変えられなかった。
今どきの自動車はうちの(ボルフガング・アマデウス)シルフィーにだって、ちゃんとその位の調節機能は付いている。
ボルフガング・アマデウスとあの高貴なお方の名前を付けているけれど、ごく安めのシルフィー。
それでも昔の車に比べたら、雲泥の差。
教習所では班が決まっていて、私の所属の班は1班。
この班はインストラクターが粒ぞろいだった。
たまに1班に空きがなくてほかの班に回されると、嫌なおじさん教師に遭うことも。
1班の先生たちは教え方も巧く、厳しかった。
次の時間に教習生がいなければ、時間オーバーでも修理工場でオイル交換を見せてくれたり、熱心に教えてもらった。
実技試験当日、運転席が大きすぎる私のために、背もたれを2枚重ねて座布団までおいてくれた。
そのお蔭で免許取得できた。
そして晴れて初心者ドライバーとして家の周りを運転した時もセドリック。
父は機械が専門だったから、どこから持ってくるのか家にはいつも車があった。
機械でも専門は車ではなく電車だったようだけれど。
さすがに電車までは家に持ってこられない。
子供のころで車の知識がなかったからはっきりとはわからないけれど、今思うと形も色もユニークな車ばかりだったから、たぶん外車。
その何台目かの車が国産のセドリックだった。
そのころ自家用車がある家は少なかった。
だからと言って我が家が裕福だった記憶はない。
いつも質素な食事、おさがりの服や鞄を持たされていた。
中学校の制服が姉からのお下がりで、入学した時にはすでに袖口が擦り切れていたというのは、先日書いた通り。
免許を取って初めてのドライブ。
大きなセドリックの運転席にちょこんと座った私が、辛うじて足が届くように何枚も座布団や背もたれを重ね、助手席に兄をのせて意気揚々と走り出した。
兄が色々教えてくれる。
ずっと対向車とすれ違っていたのに急に対向車が来なくなった。
そこで私は対向車線を走って前の車を追い抜こうとした。
助手席で兄が絶叫「行っちゃだめだ、止まれー」
ずっと連なった車の前に出たら、前方に踏切があって遮断機が閉まっている。
対向車が来ないわけだわ。
遮断機が開いたらどっと向うから車がきてしまう。
兄は助手席で米つきバッタにへんし~ん!
窓を開けて、両手を合わせて他の車を拝んでいる。
やっと入れてもらって難を逃れた。
妹のためにこの兄はどれほど苦労したことか。
免許を手に入れた私は、次々ととんでもないことをしでかす。
当時のオーケストラの団長が乗っていたのも、セドリック。
何を思ったか、その車を私に運転させた。
団長夫妻と打楽器奏者のAさんをのせて張り切って運転した。
対向車線からバスが来た。
左側には電柱。
同情者が全員絶叫「止まれー止まれー」
私は「えー、なんで?大丈夫よ」
バスとすれ違いざま車の左側に軽い衝撃があった。
バンパーにつけてあった旗竿がもぎ取られていた。
このセドリックはその後東北の演奏旅行でも貸してもらって、ドライブシャフトが落ちる事故に遭った。
時々カラカラ異音がしていたのが、いきなりドシャッと言って急に車が動かなくなった。
夜遅い国道四号線の真ん中で。
あたりは畑。
そのころJAFはあったかどうかしらないけれど、一般的ではなかったから誰も入っていなかった。
携帯電話もない。
他の仲間の車に頼んで、修理工場を見つけてもらうように頼んだ。
野宿して朝を待って、修理工場からけん引に来てもらった。
ドライブシャフトを留めていた数本のボルトが、全部なくなっていたそうだ。
ひどい目にあった我々が怒っているのに、報告を受けた持ち主の団長はワハハと笑っているばかり。
運転していた団員は、整備不良車を貸すなんてと大むくれ。
その当時、無人の車が走っているという怪奇伝説が生まれた。
姿の見えない運転手とは誰あろう、かくいう私のことです。
外から見ると運転手の姿が見えない。
小さな私はステアリングの輪っかの下から前方を覗いていたのです。
セドリック、懐かしい!小学校低学年の頃、父が会社の使っていた紺色のセドリックをもらってきて、よくドライブ行きました。
返信削除子どもにとってはセドリック、大きいクルマでしたね。
セドリックと言う名前が好きでしたね。
返信削除子供のころ読んだのは「小公子」という物語で「小公女」と
対にして読んでいました。
両方とも筋書きも忘れてしまいましたが。