2020年9月10日木曜日

パヴァロッティ

 太陽のテノール、ルチアーノ・パヴァロッティのドキュメンタリー映画を見てきた。日比谷TOHOシャンテで上映中の映画、美容院で隣にいた友人が見てきたけど面白いよ、と言うから今日が最後の日なので大急ぎで見にいった。今日は姉に携帯電話の契約をしてあげると約束していたのにすっかり忘れて日比谷に駆けつけた。

コーラスをやっているのに、このところコロナのせいで練習もできないという友人がいるので、誘ってみた。冒頭はアマゾンの川をボートで渡るパヴァロッティの一行。100年前にエンリコ・カルーソーが歌ったというブラジルのオペラハウス「テアトル・アマゾナス」で歌うために。私的な行動だったのでホームヴィデオでの撮影、閉館していた会場を開けてもらい、ピアノ伴奏だけで歌うパヴァロッティ。のっけから、その声量と輝きに圧倒される。

伝説的なハイCのなんと軽々と無理なくでることか!まさに世界のテノール、過去も未来も、こんなテノールが出ることはないと思われる。そして音楽的に優れているということは人間的にもそうであると証明できるような彼の人柄が浮き彫りにされる。

最初の妻の話、娘たちとの関係、かれらからどれほど愛され頼りにされたかということ、特に娘の一人は筋肉硬化症で闘病生活をしたときにどれほど父親から慰められたかと話す。音楽だけでなく人生を生きること人を愛すること、それを表現できることが彼をただの天才としてでなく、神に愛された天才としてこの映画は描いている。もちろん数々の映像から、それらは作り事ではなく、彼の類まれな人柄が伝わってくる。

かれは世界中を公演して周り、その間家族とは会えない。その隙間を埋めるような彼の秘書の女性との恋、彼の奥さんのことを思って身を引いた秘書との別れ、その後35歳年下の女性と恋に落ちる。そして前妻と離婚、再婚したことによってカトリック教会から非難され、声も衰え、イタリアでの名声は落ち込んでいく。彼の活動はオペラだけでなく、ロック歌手との交流や共演もあり、それもクラシック界からの反発を招いた。しかし、これらは軍事的な犠牲になる戦地の人々のためのボランティア活動の一環でもあり、クラシック、ロックとジャンルを問わない彼の心の広さでもある。

今回この映画を見るまではパヴァロッティについてはあまり良く知らなかった。私の長年のもっぱらの関心は、世界3大テノールの一人、プラシド・ドミンゴだった。けれど、ここでパヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスと3人並べてみると、圧倒的にパヴァロッティの凄さがわかる。本当の天才とはこのように自然に歌えるものなのかと、驚きをもって聴いた。

オペラフリークのわたしは、オペラのアリアを聴くとたまらない。涙が溢れて止まらなくなるという悪癖がある。最初から最後まで、悲しくもないのに泣いていたので、マスクがぐしょぐしょ。欲を言えば、もう少しちゃんとアリアを聞かせてほしかった。どの曲も一部分だけで終わるのがたいそう不満だったけれど、聽き始めたらオペラ全部が聽きたくなるだろうと思うと、ドキュメンタリーではこの辺がサイズとしてはよろしいのかもしれない。

亡くなる前に奥さんが娘のためになにか書き残してほしいと頼むと、彼はそれを断った。書き残すことによって娘がそれに縛られてはいけない。娘の人生は自由であるべきだという理由から。

これに感動した。なんという大きな人柄、それは娘に対する無限の愛だと思った。食べること、愛すること、歌うこと、イタリア人の3つの信条をこれほどまでに具現した人は他にいるだろうか。私の胸は感動で震えている。

子供の頃、家にあった古い手回しの蓄音機で私はカルーソーの歌を聴いた。そのカルーソーを尊敬してブラジルのシアターまでわざわざ行って歌うほどの尊敬を表したパヴァロッティは、しかし、私が聴いた限りではかるく彼を超えていると思った。古い録音技術も良くないレコードではカルーソーが気の毒だけれど。

帰り道でたまたま今日約束をすっぽかした姉と出会った。急に映画を見に行ったのですっぽかしてごめんと言うと、あら、約束は明日だったでしょう?と空っとぼけた姉の返事。姉妹揃ってのボケ老人。世はすべてこともなし、ですか。







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