2020年9月25日金曜日

当たらない人生

 宝くじを買って、その後どうしたかと言うと、くじをしまい込んだ場所がわからない。時々出てくるから家にあることは確か。見つけたときはこんなところにあったのね、明日くじ売り場に行って当たっているかどうか確かめようと思うのに、毎日忘れて今日まで。今どこにくじはいるのだろうか。今日こそはと思うので、家探ししてみます。どうせ当たってなんかないさ、これがいけない。それならバッグに入れておけばいいじゃない、と思うでしょう?それは私のことがまだわかっていない。バッグにいれたら必ずなくす。

今までくじとか福引とか、最高でも3等賞。いつもはほぼ外れだから、今回もそんなものだと思っている。けれど、調べなければわからない。もしかしたらストラディヴァリが買えるかも。もし1億円当たっていたら、動物と私の保護施設を作ろう。

今まで一番のあたりは郵便局で、年賀状についていたはがきを出したら、忘れた頃に毛ガニが届いた。郵便屋さんが毛ガニを持ってきたのでびっくり。新年から縁起がいいわいと思ったら、その年のあとの当たりはスキー場で当たられたのと、駐車場で車をぶつけたのとこの2つ。やはりなにも当たらないほうがしあわせなのだ。

もう一つは白金高輪の駅近く、商店街の福引で巨大な洗剤が当たってしまった。重くて持てないからいらないと言うと、そんな事言わないで、もったいないじゃないですか。それならあなたに差し上げます。私はいただくわけにはいきません。押し問答の末持って帰ることになって、難儀しました。せっかく美容院にいって髪がきれいになったのに、髪振り乱してウンウン言って帰ってきた。洗濯が趣味じゃないのに。

当たらないことはいいことだ。でも当たれば嬉しいでしょう。だから今回買った宝くじも当たっていれば感涙にむせぶ。1,000円でいいから当たらないかな。それには早くくじ券を見つけなければ。必死の捜査の結果、見つけた。昨日バッグに入れて今日駅近くのくじ売り場に行ってみる。結果がわかってしまえば夢はここでおしまいになる。もう少し夢を見ていたほうがいいかなとも思うし、又券をなくす恐れがあることを天秤にかけると、今日はとにかく売り場で見てもらうことにした・・・売り場によることを忘れなければの話。

行きは友人と一緒だから帰り道に密かに一人で寄ることにした。友人と一緒のときに1億円当たっていたら、その人に奢らないといけない。一人だったらこっそりと独り占め、ウヒヒとなる。でも1億円当たっていたら、その場で気絶するかも。そのときに友人がいてくれたほうが・・・妄想は次々と浮かぶ。

今日もモーツァルトをあわせる日、こんな浮かれたことでモーツァルトの音楽を曇らせてはならぬ。今朝も考えていた。モーツァルトは幼い頃からヨーロッパ中を馬車に乗せられ、その天才ぶりを王様や貴族たちに披露して歩かされて、大好きな母親と姉から引き離され本当に寂しい幼少時代だったと思う。ガタゴトと馬車に揺られ、寒い日やひどい天候の中でも旅をさせられたと思う。時々モーツァルトを彈いていると、絶望的なまでの悲しみに行き当たることがある。そういうとき私は涙が出る。

決して大声で叫ぶような曲ではない。それでも転調の瞬間、いいようのない悲しみが伝わってくる。かれは多動児だったと言われる。心が少しも休まらない、そのことが彼をそうさせていたのだと思う。天真爛漫?決してそうではなかったか、そうであってもそれだけではなかった。簡潔で必要な音以外の音は使わない。それなのにどんな複雑な曲よりも人々の胸を打つ。

Oさんと合わせてから又イタリアンでランチ。これで最近ちまちまとしていたダイエットが水の泡になる。











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