2022年6月21日火曜日

若い友人たち

 北軽井沢に珍しくお客さん。

若い世代の女性二人。キャリアウーマンたちで一人は外資系、もうひとりは映画広告などのアート系のしごと。二人は中学時代からの親友だそうで、本当に仲が良い。私がどこで知り合ったかというと、外資系企業にお勤めの人は元私のアパートの店子さん。毎回借り手が変わるたびにいろいろなタイプの人が入ってくる。その中でもひときわユニークな人だった。

彼女Mさんが私の家に引っ越してきたときは4月、ちょうど我が家でお花見をしていたので誘ったらその友人Tさんが一緒に参加してもいいかと訊かれたのでもちろんオーケーした。華やかな美人さんがついてきた。Mさんはアメリカで学びドイツ企業に籍を置き今は、日本に出張?物怖じしないし自己主張もあるし、私はこういう人といると居心地がよい。日本人はとかく遠慮や気配りが多くこちらも気疲れするけれど、彼女ははっきりものをいうので。

猫が好きというところも共通していた。彼女が入居してからしばらくしたらコロナになって在宅勤務が増え、時々気晴らしにうちの駐車場でお茶会したり、野良猫の保護に奔走したり、どちらかというと引きずり回されたけれど楽しかった。私の家に入居したのは会社が近いためで、コロナ禍で在宅勤務が増えると会社が近い遠いは関係なくなった。それで自然の好きな彼女は緑の多い地域に家を買って引っ越していった。

店子さんとの関係は殆ど引っ越しによって終わるけれど、いまでも何人かの人たちとはつながっている。子供の写真つきの年賀状など見ると年月の経過がわかったりして大変おもしろい。夜泣きのひどい赤ちゃんがいて、ある時父親から謝られた。「泣き声がうるさくてすみません」と。「赤ちゃんは泣くのがお仕事なのよ、だから気にしないで」というと「お仕事しすぎるんですよ」これは笑った。自分だってお仕事し過ぎでしょうに。若い夫婦が一生懸命子育てをしている姿はちょっと感動的なのだ。

さて北軽井沢の森に来た女性たちは私同様自然と猫が好きな二人。アート系のTさんの車でやってきた。いつもしんとしている我が家は突然賑やかになって猫もびっくり。世代を超えて話が弾む。私は若い友人も多く多趣味なのが幸いして会話はほとんど違和感がない。初日は森の散歩から始まった。二人が本当に自然の中での散歩を楽しんでくれるので嬉しかった。散歩が本当に好きらしく、あれこれ観光するより鳥の声や太陽の光や路傍の花に興味を示すのがうれしい。

Mさんは北軽井沢に来るのはこれで2回め。また行ってもいいですかというからどうぞ、お友達もどうぞと云ったら、親友を連れて来てくれた。こんな何もないところ、ショップやカフェや名所もないところへ喜んで来てくれる。そのなにもないところが良くて私もここに住むことに決めたのに、最近雲行きが怪しい.

リモートで仕事ができるとわかったら移住する人が増えたときいたけれど、これほどとは思わなかった。なにか怪しいものが住んでいそうなこの北軽井沢の森に毎日工事が入る。私が頼んだ庭仕事なんかほったらかしにされて工務店さん大忙し。こんなに人口が増えたら森に住む怪しい者たちもさぞ栖みにくかろう。私の家の周囲の数軒は毎日明かりがついている。それはそれで安心感はあるけれど、私の好きな怪しさは薄れてしまう。周囲がものすごい勢いで開発されているのを見ると、もう少し辺鄙なところに引っ越したくなる。

でもある日の夕暮れ、ホラー感漂うことがあった。私は夕方になると近所の温泉旅館のお風呂に入りに行く。夕方薄明かりの中で森のなかの道端に若い女性が・・・こんな時間に一人佇んで散歩するでもなく。なんでこんなところに?

温泉からの帰り道、少し離れたところでさっきの女性発見。もう日は傾いて薄暗がりに立ち尽くす女性。私が車の窓を開けてじっと見ると軽く会釈をしたので、なにかお困りですか?と尋ねようかと思ったけれど事情がわからないからそのまま通り過ぎた。その後近所の食堂へ。さっきの女性はいないかと探したけれど見当たらないのでやや安心した。

ところが!もう日はとっぷりと暮れて真っ暗な中、またその女性を見つけた。もう全身鳥肌。その時は他所の家の外燈の下で後ろ向きに立っていた。どうやらその明かりでスマホを見ているらしい。暗くなるとこの辺は本当に真っ暗、一寸先は闇になる。なんでこんなところに女性が一人で?しかも段々わが家に近くなっている。一目散に家に帰った。

次の朝散歩にでかけると我が家近く、新しく建った小綺麗な家の前で家族らしい3人を見かけた。その一人が昨日の女性だった。見違えるような元気そうな笑顔。そうか、初めて来て家の所在がわからなくて立ち往生していたのか、家族が到着しなくて心配していたのか。それにしてもよく黄昏の薄暗い森で一人でいられたものだ。私ならビビって大泣きしているところだった。やはり声をかけてあげるべきだったかと反省。

その話をしたら客人の二人は途中からキャアキャア怖がってかわいいのなんのって。その夜は白ワインと赤ワインを開けて話題は尽きなかった。

楽しい夜が開けて次の朝、その家の前を通ったら、まだ新しいので花壇にはほんの少し花が咲いているだけ。数日経って前を通ったらかなり造園が進んでいた。ここに花が咲き乱れたらきれいだけど、でも私の好きな木はこのために何本も切られて、明るい北軽井沢というのもイメージが違うなあ。鬱蒼とした森や夜中に風が轟々吹きすさぶのも捨てたものではない。原始の声が聞こえるもの。

私の好きな北軽井沢が変わっていくのはもう少しあとにして欲しい。











2022年6月8日水曜日

美味しいものが食べたい

梅雨に入る前から体調は下降気味、老猫の老々介護がなかなか大変で自分の食事は野菜スープを大量に作り置きしてあとは魚と肉を 日替わりに。糖質は控えめにと太らない食事を心がけていたら「あ~あ、もうダメ!」無性に美味しいものが食べたくなった。

近所のイタリアンはコロナですっかり経営難。最初のうちはこんなに長引くとは思っていなかったらしく、超美味しいテイクアウトを提供してくれた。そのうちテイクアウトというと人手が足りなくてできませんと言われてがっかりした。結構な頻度で女子会をしていたのもすっかりご無沙汰で時々店の前を通るとまだ潰れていないとホッとしていた。

先日美味しいお肉が食べたくて久しぶりに店に行ったら、スタッフがすっかり変わっていた。以前のスタッフはちょっと陰のある感じのマネージャー、厨房にはがっしりした腕の良いシェフ、出てくる料理はとても美味しくセンスの良い食器と相まって目と口を楽しませてくれた。時々マネージャーが来てお話をする。街のイタリアンとしては上等なタヴェルナ。

故人になるけれど、芥川也寸志さんという作曲家がいた。才能ありハンサムでちょっと気難しく、ぴりりと辛口な冗談がお好きだった。その方が言う。スペインの居酒屋はタヴェルナっていうんですよ。店に入っても食べられない。それで覚えたこの言葉。前述の店は私の家の最寄り駅にあり、どちらかというとがさつなこの商店街には珍しいほどの上等な店だったけれど、根本的には居酒屋の延長。食べるなと言われても時々無性に食べたくなる良い店だった。

雨降りの夕方、どうしても美味しものが食べたい!それにはあの店。思い立って開店と同時に飛び込んだ。見知らぬスタッフ。あらあら、残念、多分味もすっかり代わってしまったと思える。けれど感じが良いからとりあえず席についた。おばあさんお一人様。メニューはやはり変わってしまった。肉が食べたい。赤ワインはキャンティ・クラシコ。なぜかというとキャンティは昔イタリアで道に迷って入り込んでしまったトスカーナ地方が産地で、楽しい思い出がいっぱい。山の中のぶどう畑の道を闇雲に車で走ってフィレンツェ到着。そのワクワク感ったら、もう!

鴨のロースト、グリーンサラダ、パンをとりあえず注文。突き出しとワインでゆっくりと始めると目についたのがメニューの生牡蠣。しまった辛口白ワインを頼むのだった。けれどお酒に弱い私はもう一杯ワインを飲む余力はない。でも牡蠣は食べたいから2つ注文する。大きな牡蠣が牡蠣殻にはいっていた。つるりと喉を通り過ぎていく。ああ、キーンと冷えた白ワインが飲みたい。

鴨にたどり着いた頃にはワインはグラスの底にわずかに残るのみ。おかわりを勧められたけど、2杯飲んだら家に帰れなくなると言ったら、それは困ると思ったらしくあっさりと引き下がった。鴨はちょっと硬くてトゥールダルジャンには遠いけれどまあまあ、粗食に耐えてきた今の私には久しぶりで食すちゃんとした肉料理、美味しい。本当のこと言うとトゥールダルジャンで食べたことがないから想像しただけ。店に仕事でいったことはある。この椅子は一脚30万円しますと聞いたのは覚えている。その椅子に座って音楽を奏でても、うちのボロ椅子で奏でても変わりはないけれど、目の前で番号の付いた鴨を食べるリッチな人々の姿を眺めて目の保養。

久しぶりのちゃんとした食事の効果はめざましかった。味がいいとか栄養価が高いとかそんなことでなく、ゆったりと味わって食べることの大事さ、食は文化、これからは一人でも美味しいものを食べようと考えた。でも今夜はこれから餌を食べます。栄養とお腹が満たされればいいといった程度のものを。猫と一緒に。



生きるのって大変ですね

 私のだいぶ年下の後輩から来た一通のメール。「生きて行くのって大変ですね」

彼女はK子ちゃん。ひまわりの花のようにいつも輝いていた。リサイタルを聴きにいったらスタッフもお客さんも皆彼女のファンのようで、中でもご主人とは曲の変わり目ごとにじっと見つめ合ってニッコリと微笑み合う・・・幸せにあふれていた。演奏も安定して音が輝いていた。私は彼女とは1年に一回だけ会うのだけれど、その笑顔が見られるのが毎年楽しみだった。

一昨年の暮届いたのは喪中のはがき。彼女の大好きなお兄さんの訃報だった。若い人の死は理不尽。彼女の悲しみが文面から溢れ出ていて私は涙した。今年で丸1年経っても悲しみが少しも癒やされていないことをメールから感じられて自分のことのように悲しく思った。メールに返信するとnekotamaさん優しいと。優しいというより共鳴なんだわ。

歳を重ねると若い頃の輝かしい未来はどんどん消費されてしまって、残滓には苦しみと悲しみが積もっている。でもそれが自分の人生に新たな光と影となって深く心のひだに降りていける。これはすごいことなのだと思う。体は上手く動かなくなるし頭は物忘れ、足が痛い、疲労困憊、散歩もままならない。ところがなんだか面白い。自分ってこんなに変な人だったかと再認識する。

元々すごくお転婆だった友人も最近足が弱り、生きて行くのは大変ねという。杖なんかついちゃって。私は息をするのも大変に思うことがある。別の友人と電話で話していたら「背筋を伸ばすでしょう?そうすると歩幅を広くしてさっさと歩かないと前のめりになって転びそうになるのよ。転ばないように大急ぎで歩くから、外見はすごく元気そうに見えるのね。本当は元気じゃないのに大変なの」「そうよね。本当はゆっくり歩きたいけど、ゆっくり歩くと地面の凸凹に影響されてふらついてしまうのよね」言い合って大笑い。老人がさっそうと歩いていると思うなかれ。実は止まれないだけのことなのだ。

本当はゆっくり歩きたい。でもゆっくり歩けるのは筋力があるうち。そのうち前のめりになってスッテン!去年~今年はずいぶん私も頑張った。毎日の筋トレ、高周波エネルギーの治療を受け、毎日の散歩は欠かさない。体重の管理もばっちり。だけど少しでもストレスがあると急に甘いものを食べあさり、夜中でも空腹に耐えかねて菓子パンを食べたりする。それで今は1キロ増量中。

私の人生設計にはこれはもう済んだことのはずだった。ヴァイオリンは売り払って森の中で優雅に過ごすはずだった。大好きな馬を飼って念願だったジャックラッセルテリアと一緒に散歩する・・・はずだった。ストレスとはもうサヨナラのはずだった。ハンモックがゆらゆら揺れて木漏れ日がチラチラ降り注ぐウッドデッキで昼寝。夕日が落ちると星が輝き夜の静寂からかすかな虫の声。

でも北軽井沢の春はまだ寒すぎて虫も鳴かない。木々が邪魔して星も見えない。右も左も真っ暗闇で怖くて外に出られない。

ところが森の中の生活は大忙し。毎日問題が起きるので山に来たときは働きすぎて疲労困憊。自宅に帰るとしばらく起き上がれない。その第一は森の木の管理。毎日様相が変わる。強風が吹けば枯れ枝がわんさか折れる。折れた木の始末をしようと思ってのこぎりを買ってきたら、1日使っただけでとんでもなく疲れた。リタイアした人たちがゆっくり田舎暮らしをしようとして移住しても、こんなに忙しい毎日になるとは思っても見ないだろう。これなら別荘(別名刑務所)で三食カロリー計算付き、適度な運動、家賃なしにいたほうが楽に暮らせそう。犬が飼えないとかの多少の不自由は我慢するっきゃない。

歩くことさえ不自由しなければ年を取るのは中々良い。歩くことにこんな努力が必要とは夢にも思わなかった。明日から筋トレとダイエット頑張ります、と、言っておけば頑張れるかもしれない。








2022年6月3日金曜日

ああ、恥ずかしい

 軽井沢の大賀ホールで弾いてみない?誘われてどんなステージなのか一度試してみようと思ったのでのこのこでかけた。ピアニストのMさんの関係者で地元の先生や、その生徒さんや声楽家たちの集まり。いうなればおさらい会。

先日三鷹の風のホールでヴァイオリニストOさんと共演したMさんはまだその演奏が手に入っていて、私はいわば土俵が出来上がっているところに乗り込んだという状態。すごく楽。曲はベートーヴェンOP.20-3。たいそう若いときの作品のなかでもこの20-3は、ベートーヴェンが急激に成長する様が見て取れる。1~3曲の中で最も優れた構成で、奇をてらわず堂々と正攻法で書かれているのが好ましい。明るく優雅で華やかで。

大賀ホールは軽井沢駅近くなので、軽井沢在住のY子さんに送迎をしていただいた。Y子さんの住まいはその近くにあって、北軽井沢から山を降りた私の薄汚れた黄色い車は彼女の家の駐車場に、私は彼女の運転する高級車で楽屋入り。年をとるとなかなかいいこともあるものだわ。若い人に大事にしてもらえるもの。

出演者が多いのでステージでのリハーサルはなしだそうで、いきなりぶっつけ本番。これは参った。音響は?照明は?ピアノとのバランスは?一本勝負!土俵に登っていきなり勝負するのは相撲取りと同じ。そういえば最近私の体型もアンコ型。違いは塩がないことと、衣装はまわしでなく服をちゃんと身につけていること。

北軽井沢から帰ると映像が届いた。なんとかして見ないようにしようと思ってああだこうだ屁理屈を付けて放っておいたけれど、あまりにも親切に色々送ってくるものだから見てしまいましたよ、世にも恥ずかしいものを。

まずステージにズカズカ登場した私は譜面台をガラガラとピアノ付近に引きずっていく。譜面台の傾きが悪く照明でテカって楽譜が見えない。譜面台の傾斜を直そうとするけれど、あまりにもネジが固く止められていて私の力ではびくとも動かない。なぜこんなに固くねじってあるの?演奏者が自分で角度の調整ができないほど固く閉めないで!

どうしても動かないから楽器をピアノに載せてノコノコ舞台裏へ。スタッフに来てもらって譜面台の角度調節をしてもらう。調節したスタッフは態度が悪く照明の具合を確かめようともせずさっさと引っ込んでいった。仕方がないから演奏開始。少ししか合わせていないのにアンサンブルはまあまあ。音も楽器の調整代金ケチって鼻詰りのまま弾いたにしては、きれいに鳴っている。でも舞台稽古なしのぶっつけ本番はやはりいけません。本当ならもっと鳴らせたはずの楽器がしょぼい。その点ピアノはいい。いつでも良く鳴る。音程も狂わない。

映像を見て気が付いてゾッとしたことは、弓が曲がる!私は弓が曲がらないことには自信があった。今までいつ写真を攝られても弓は常にまっすぐ写っていた。それがぐにゃぐにゃと曲がるようになってしまったのだ。いつの間にこんなになったのだろうか?関節が固くなってきて弓を振り回してしまっている。あらまあ、1からボウイングの練習やり直し。体が固くなっているのも見て取れる。体中が固くなってしまい、微妙な調節ができなくなっているのだ。特にヴァイオリンという楽器は柔軟性が重要で、体のコンディションが即音色に繋がる。これではだめ、ため息が出る。

演奏が終わった、と思ったら私は譜面台の楽譜をむんずとつかんで畳みもしないでぶら下げて舞台をあとにした。そのでかい態度たるや、ああ!

ああ!恥ずかしい!

送られてきた動画を見て一人で叫んだ。そして笑った、なんておかしいんだろう。傍から見たらベートーヴェンのソナタを聴きながら大笑いをしている図なんて、ホラーだあ。




2022年6月2日木曜日

だんだん近くなる

 田舎暮らしに憧れて都会から移住しても地元に馴染めず、尻尾を巻いて逃げ出す人も多いらしい。それはそうなのだ。私だって北軽井沢に通うこと10年、家を譲り受けてから4年、やっと地元のことが薄々わかってきた。

もっとも私は定住したわけでなく、自分の家と森の家との居住比率は3対1位。いつも忙しく行きつ戻りつ、これでは馴染むことも難しいと思っていたけれど、最近ようやく1週間ほど滞在できるようになったらだんだん町の顔が見えてきた。新しい環境に馴染もうと必死で交友関係を模索するのはやめたほうがいい。なんでも徐々にゆるゆるとが最良。

私の場合はお隣さんが古い知り合いというのが幸いして、最初から人間模様が見えていたのが良かったけれど、それでもなんだかテンポ感が違う。例えば工事を頼んでもなかなかことが進まない。見積もりを出さない、設計図がないなど、私の自宅に出入りするリフォーム業者の完璧な仕事ぶりになれていたのではじめはただただ驚いた。見積もりも、これをやったらいくらときちんと値段が決まっていれば計画が立てられるけれど、北軽井沢でいくら位になりますか?と訊いても返事がないと工事を頼みにくい。億万長者ならいざしらず、百万長者でもない私は野垂れ死にする覚悟でもない限り、危険を犯すことはできない。

そういう愚痴を別荘の管理事務所でしていたら紹介されたのはもと東京の人。地元の人は私とペースが違うだけでとても良い人達ばかりだけれど、テンポ感の違いは如何ともし難く最後に腹を立てて理不尽な罵詈雑言をはいて関係が悪化するのがいつものこと。元東京都民の木工業者はこれとこれをやるには丸2日かかります。助っ人も必要なのでこのくらいでいかがですか?と明快な予算を提示してくれて納得の上で庭仕事をお願いした。

庭仕事は楽しいけれど、漆にかぶれた経験者としては二度とごめん。聞けば軽井沢地帯には130~140とか漆の種類が繁殖しているらしい。おお、こわ!

北軽井沢は自然がいい。キャベツ畑ばかりの僻地というなかれ、けっこう文化人が住み着いており、先日訪れた自動車やさんのご主人が北軽井沢愛を熱く語るのを聞いていると私も共感するものが多い。私が腹を立てて牙を剥いても立ち向かってくる命知らずな人はいなくて、のんびりといなされてしまうので最近は腹も立たなくなってきた。今ではこちらに終の棲家を見つけようかとも思うようになってきた。住民票を移すとどんなメリット、デメリットが有るかなどとも考える。

なぜかというと、今コロナ禍の中で地元の施設の貸出しが限られていて中々貸してもらえない。住民票の持ち主に限るといわれても、なんとか疫病を食い止めたいという必死の努力があればこその事情だからこちらも文句は言えない。しかし、生徒たちがアンサンブルの練習に訪れてきても練習場所が確保できず、私の家の狭いリビングでひしめき合って練習するほうがよほど危険なのだ。これが3年続いていたのでいっその事住民票を移してしまおうかと考えている。私は喜んで北軽井沢人になろうかと。

どちらにしても北軽井沢は私の生まれ育った家の裏庭に似た風景なのだ。私の生家の前庭は造園されていたけれど裏庭は放ったらかし。崩れかけた葡萄棚や古井戸、群生の枇杷の木、竹藪、ぼうぼうと草が茂り生け垣の穴から近所の子供達が出入りした。私はこの裏庭が大好きで、ここで一人遊びをしていた。枇杷の木の張った枝に座布団を載せてその上で昼寝を楽しんだ。飾らないありのままの自然で、大山の峰々の上にそびえる富士山が全く遮られるものなく夕日に輝くのを眺めたものだった。今その頃の自分に足早に戻っている。

森の家をノンちゃんが譲ってくれたのも私を子供の頃に戻してくれるためだったのか。初めて彼女の家に入ったとき「うちの裏庭そっくり」といったものだった。これは非難したのではなく本当にきれいだと思ったからで。今その美しい季節になったので、先週滞在してきた。徐々に北軽井沢と私が近くなっていく。しかし開発の波が下から押し寄せてきている。家がどんどん建って10年後にはどんなになっているのか、願わくばこれ以上木を切らないでほしい。




2022年5月22日日曜日

題名のない音楽会の思い出

 私が東京交響楽団に入団したのが1965年、その少し前から放送開始されたのが「題名のない音楽会」現在テレビ朝日で放送されている。

ウィキペディアによれば、1964年 東京放送との専属契約を打ち切られ苦境に陥っていた東京交響楽団の活動拠点の場を与える意味で「ゴールデン・ポップス・コンサート 題名のない音楽会」として始まった。

日頃聞き慣れないクラシック音楽を楽しんでもらおうという趣旨でスタート。東京12チャンネルの開局から4ヶ月後のことだった。当時スポンサーの出光興産の社員のアンケートでは賛成はわずか17%だった。

その後テレビ東京の経営難の放送時間短縮により、「司会者、楽団、スタッフ」はそのままで他局への移籍を検討。出光興産は「会社が潰れるまで提供を継続する」方針であり在京他局が一斉に手を上げたが、当時専属オーケストラを持たなかったことが決め手となって現テレ朝から「題名のない音楽会」として再スタート。途中、中断があったものの1969年から再放送、現在に至る。

2009年、放送45周年を迎え「世界一長寿のクラシック音楽番組」としてギネス申請、中断後の再開した1969年以降の番組が対象となり「継続放送されているクラシック音楽番組」として世界記録の認定を受けた。

私がこの番組に出演し始めて間もなくの頃の騒ぎを未だに覚えている。当時のクラシック音楽奏者はプライドが高く、ポップスや歌謡曲などを一段下に見ている人が多かった。今では若き演奏家たちはクラシックであれジャズであれ、別け隔てなく楽しんでいるけれど、当時はそうはいかなかった。

日本の祭りの音楽がテーマだったので衣装は法被。血相を変えたチェロ奏者が一斉に抗議しているのを不思議な感じで見ていた。「俺たちはコメディアンじゃない、法被着てチェロが弾けるか!」口角泡を飛ばし真っ赤な顔で怒っているのはベテランのチェロ奏者。それでも公開収録の時間には説き伏せられて仏頂面で演奏していた。この番組が自分たちの生活にどれほど大切かということをこんこんと教えられたに違いない。

その通り、この番組のお陰で東響の今日があるのではと思うくらい全国に名前が知れたと思う。演奏旅行で全国津々浦々でかけたのでいろいろな人から声をかけられた。ある時鞆の浦の海に近い旅館に泊ったことがあった。その時は演奏会が午後9時終わり、会場からその宿まで帰ると10時近くなるので夕食は冷たくなっていいから出しっぱなしにしておいてくださいと頼んででかけた。疲れ果てて戻ると仲居さんたちが皆起きていて、温かいごはんを出してくれた。旅館の朝は早いのに待っていてくれたのだ。その時に一人の仲居さんが私に声をかけた。「あなたテレビに出てますよね」私はステージの一番客席に近いところの席だったのでよくカメラに捉えられていた。

私は人の顔が覚えられないという障害?があって、何回も会っている人の顔もおぼつかないのにさすが職業柄というか天才というか、たまに画面で見る顔がよくわかるものだと感心した。ところがその後も色々なところで声をかけられる。自宅の近所でさえも。こうなると悪いことはできない。この旅館の名前を覚えていたのに最近とんと名前を思い出せない。そのうち訪れてみたいと思っていたのに。

若くて怖いもの知らずの私でも初代司会者の黛敏郎さんは近寄りがたかった。他のスタッフ、例えば舞台監督や照明、音響さんたちとは仲良しでよくふざけていたけれど、ひどく無礼なこともあったと思う。舞台監督は「ぶたかんさん」などと呼んでいた。ずいぶんあとのこと、その人と六本木あたりで遭遇して「ぶたかんさん!」思わず大きな声で呼んでしまったけれど、ニコニコして失礼を受け入れてくれた。後にこの番組の楽団が別のオーケストラに変わったときにエキストラで行ったら、彼からさんざんからかわれた。「最近はお弁当が良くなりましたよ。でも2つ食べてはいけませんよ」「ここは若い団員が多いので、団員の平均年齢をあげないでくださいね」等々。お弁当といえば初期の頃はひどかった。日本がまだ全体に貧しかった頃の話だから。

黛さんは周知の事実として極右的政治思想の持ち主だった。しょっちゅう軍歌など弾かされたけれど、軍歌は必ずしも闘争意欲を掻き立てるだけでなく戦いの悲しみを表しているものが多いということも知ったのはこのおかげだった。軍隊にわからないように反戦の気持ちを忍ばせたのではないかと時々思ったりもした。当時の作曲家がひそかに自分の気持を込めていたのでは?と。

昨夜10時ころ就寝、目がさめたのが午前1時。すっきりと起きたので睡眠不足の感じがしない。夜明けにテレビをつけたら「題名のない音楽会」の紹介番組をやっていて、懐かしく思い出した。本当に元気だった若い頃の自分にしばし戻った。当時は下品とか言われてクラシック奏者からは鼻も引っ掛けられなかったポップスや演歌などの垣根を取り払い、現在の若い演奏家たちはジャンルを問わずものすごくうまく演奏している。先日も1部はクラシックの弦楽四重奏曲、2部はジャズとオリジナルのアドリブを演奏するグループのコンサートを聽いた。あまりの上手さに舌もしっぽも巻きっぱなし。キャイ~ン!






2022年5月11日水曜日

漆にかぶれる

4月末に北軽井沢で過ごし、大風の日に根っこから倒れた枯れ木を片付けた。追分に住むKさんが機動力を発揮して根本からのこぎりで伐採、私も斜めに倒れて隣の木に引っかかったままの幹にぶら下がってなんとか引きずり下ろした。ポッキリと折れて2つになった幹がやっと地面に落ちたと思ったら私ごと倒れて、私は頭を打った。

幸い下に落ち葉が積もっていてふかふかしていたので頭は無事。元々物忘れが激しいから毎日鍵を探して大騒ぎするのは日常的、打ったせいでこうなったのではないのは確か。そして都内自宅に帰ったKさんからの連絡で、彼女が漆にかぶれたらしいと聞いた。私?ううん、なんでもないわよ。頭は普段と変わらないし。他人事のような返事をしていたのだが・・・

昨日目が覚めたら右手首から5センチほど上に赤いかすかな傷のようなものができていた。寝ている間に凶暴なうちの猫に引っかかれることがあって、気が付かなかったなあ、よほど爆睡していたのかな。疲れが溜まっていたのね、などと呑気に構えていた。ほんの2ミリほどの赤い筋が6箇所、最初は痛くも痒くもなかったのだがなんとなく傷跡をなぞっていたら、猛烈なかゆみが。みるみるうちに傷は発疹のようになった。とにかく痒くてたまらない。この痒さ初体験。

Kさんはどうしたかと気になった。彼女は帰ってすぐに病院へいって漆かぶれと言われ大変な目にあったらしい。腕だけでなく髪の毛にも入り込んだ漆の屑が作用して顔まで腫れ上がったという。それも他人事のように聞いていたけれど、私はたったの1センチほどの範囲に発疹があって、その周りの皮膚が直径3センチほどこんもりと盛り上がっている程度にもかかわらず猛烈な痒さに我慢出来ないほど。Kさんはそれが上半身、顔から頭の中までというから悲惨な状態だったらしい。すまない!うちの漆が悪さをしてごめんなさい。

他の木にウネウネと絡みついて枯れさせてしまうほどの悪行、のんちゃんのお気に入りだった大木にも何本もの蔦が絡まってこの大木が枯れてしまったときのことを考えるとゾッとする。のんちゃんは心の大きな人だった。なんでもなすがままの流れを大事にして余計な手出しをしない。それが時として困ったことになる。

私の母が亡くなってからもう30年ほどになるけれど、母の入院していた病院には野良猫が住み着いていた。毎日母の世話に通っているうちにいつもの通り、野良は私に懐いた。その子は来るべき寒さに向かって必死に私にアピール。車に載せていけと。私もずいぶん迷った。そのころ家にはもうすでに5匹ほどの獣がひしめいていた。どうしよう。

ちらっとのんちゃんにその話をしたら「野良は自由がいいのよ。自由にさせて上げて」一生懸命私を説得するのだった。「自由に」って。いやそういうことでもないんだけど。でも私も猫飼育の負担の大きさに疲れていたから、それは良い口実だった。そしてある日その子が車にひかれて死んでしまったと守衛さんから告げられた。いまでも後悔している。病院は大きな総合病院で優しい先生や守衛さんに守られて数匹の野良たちはダンボールの家を与えられ、私のような猫キチがいて餌をもらえる。それでもその子は私に必死に連れて行ってと頼んでいたのに。

のんちゃんはおおらかで優しい人だったけれど、彼女が望んだのは自由であること、平和であること、今の世に生きていたらウクライナに乗り込んでいきかねない気骨のある人だった。だから野良にも凜とした人に阿ることのない生き方をさせたかったのか。

猫は無理なのよのんちゃん。ひたすら暖かさと美味しい食事と安穏な毎日が好きなんだから。まるで私のようにね。

今朝になって私の発疹は少し赤さが薄れてきた。傷口に水疱ができている。これを潰したいところだけれど、そこは我慢。大抵火傷の痕とかかさぶたとか引っ剥がして治りを遅くするのが私の悪い癖。人にもズケズケと物を言って関係を悪化させる。

Kさんから電話があって「病院へ行った?」と。私は何でもワンテンポ遅いから昨日は病院へ行くのではなく検索していた。良さそうな病院はどこ?評判が良いのは最寄り駅から3分、女医さんで丁寧な診察という口コミ。それで大変混んでいるというから、たとえ餓死寸前でも行列には並びたくない私は痒さを我慢する方を選んだ。

なぜKさんと私で発症の時間差が出たかというと、彼女は先頭に立って働いたから。私はそばでニャアニャア言って口だけ出していた。危険だから数メートル離れて。時々手を出していたときに多分上着の袖口に漆の粉がついたと考えられる。それが数日して残っていたらしい。買い物に出るときにその上着を羽織ってでかけたのかしら・・・そういえば数日前買い物に行った。と言うと、どの上着を着ていたかが問題だけど思い出せない。その上着を洗濯しないとまたこういう目に遭う。

最初発疹が出たとき私はうちの野良を疑った。どこかでイエダニかなんかを拾ってきたのだと思っていた。でもうちの野良たちが行くお宅は皆清潔らしく、いつも小綺麗な野良たち。我が家が一番怪しい。それでも野良たちが出ていったあとは鬼のように掃除機をかける。先日も駐車場に車を駐めていたら野良がお出迎え。それを見て「お帰りを待っていたのね」と通りすがりの人が笑っていた。たぶんその人も地域猫同盟の一員かとおもわれる。疑ってごめん野良たち。

Kさんには「うちの漆が大変失礼なことをしました」と謝っておいた。実は私が怠け者でなんでも人に仕事をしてもらいたがる性格が一番悪い。それでプロに任せることにした。別荘の管理事務所のそばに木工の細工所があって、そこのご主人は雪好きが昂じて東京での仕事を放り出し移住してきたそうで、雪と木に関してのしごとは任せられる。こんな人材が近所にいるとはうってつけ。こうしてじわじわと私の冬の山籠りの準備が整っていく。それまで足が言うことを聞いてくれればの話だけれど。そのうち群馬県の山の中で熊と暮らす老女の噂を聞いたら、それはきっと私のことです。