今日は本当は文化会館の小ホールのステージで演奏しているはずだった。
古典音楽協会の定期演奏会。スマホのカレンダーで今日の予定が表示される。古典の定期の予定を削除するのを忘れていたら、画面に現れて胸がズキンとした。やはり自分が思っていたよりもずっとショックが大きい。長年大事にしてきたワークだから、いつもあるのが当たり前だった。それがコロナで中止になっていつ再開できるかわからないのは、再開どころかこのまま立ち消えになってしまうこともありうると考えると虚しい。もう二度とステージに立てないのかとも思う。自分に自信がない。
しばらくのブランクの後、若い頃だったら勘を取り戻すのは短い時間でできそうだけれど、今ではそれができるかどうかは断言できない。大勢のお客様の前で演奏するのは、本当に緊張する。緊張しても余裕を持って弾けるのはなかなか難しい。けれど、練習を重ねればある程度の緊張はむしろ良い刺激になる。緊張感のない演奏は面白くはない。
どんな名人でも、あるいは、名人であればあるほど、プレッシャーは強いらしい。あのハイフェッツは、常に前回の演奏よりも上手く弾けないといけないという自分に対するプレッシャーで演奏をやためたと聞いている。
ハイフェッツと私ではレベルは月とスッポンだけれど、それでも同じように緊張はする。その緊張が演奏を育てるのであって、本番は演奏家にとっては最大の練習になる。誤解を招くといけないので言うけれど、練習と同じように弾くという意味ではない。本番で得るものは、練習の何倍でもあるのという意味なのです。耳を研ぎ澄ませて会場の響きを捉えると、客席の後ろの方から自分の音が戻ってくる。その音を聞きながらお客様の呼吸を感じ取ることができる。客席ろステージが一体になったときの素晴らしさは本当に不思議な世界となる。
波動のように呼応するものが会場を包む。緊張の中に幸福な一瞬でもある。だから私達は聴いてもらえないと還ってくるものがない。自分の中で終わってしまう。いつも思うのは、聴いている人たちに自分たちは育ててもらえるということなのだ。
この年令でのブランクはとてもつらい。2度と戻れるだろうかという不安でいっぱいになる。ヴァイオリンに限らず楽器の演奏は見た目以上におお仕事。体力、気力がないとできないけれど、実際は長年の訓練で無駄な力を使わなければ、それほど腕力はいらない。けれど、緊張や練習不足で筋肉が固くなったらアウト。手足が震え、無駄に力が入れば早いパッセージが弾けない、弓を弦に押さえつければ音は響かず楽器が鳴らなくなる。
だから日々努力をしてきたものが、コンサートがなくても練習をいつものように持続でするのは大変な努力を要する。私のように志が低いと、すぐに怠けてしまう。今はなにもなくてノンビリしていられるけれど、再開するとなると果たして再起できるのだろうかと、取り越し苦労をしている。
とにかくこのままでは古典としての締めくくりができないから、最後の演奏会はしなくてはならないけれど、今日が最後のステージという日が来たら、悲しみで演奏ができるのだろうか?まだ先のある若者なら新たな出発点となるけれど、私はもう締めくくらなければいけないのだ。
本当に多くの方々に会場に来て聴いて頂いた。それによって私達も成長させて頂いた。思えば古典ほど暖かい声援を受けた団体はめずらしいのではないかと思う。長年、ともに歩んでともに年を重ねて、ステージに出ていくのはまるで家族に会うような気がした。こちらを見て微笑んでいる人たち皆が味方してくれていると思えるほどだった。
コロナがどうなるか今後の感染は拡大するのかどうかもよくわからない。だれにとってもつらい日々だったけれど、このまま終わってしまったとしても心に暖かい火が灯っているのはそんな経験を重ねたからで、客席とステージは一体で演奏とはその両者が混じり合って成り立つもの、たとえしばらく、あるいはもはや会えないとしてもこの火が消えることはないと信じている。