2017年6月29日木曜日

小鳥と共演

北軽井沢に4日間滞在。
朝自宅を出発、軽井沢インターからまず軽井沢へ行って、軽井沢駅近くの別荘に逗留中のY子さんと合流。
ランチをごちそうになった。
おいしいけれどあまりにもボリュームのあるランチで、食べ終わるともう下は向けない。
前菜、パスタだけで主菜はとても食べられないほどの量があった。
外庭のテーブルの前は道路で、そこを中国人が大勢自転車で通る。
いまや軽井沢も大勢の中国人が楽し気に歩いている。
食事のあと、北軽井沢までのルートは白糸の滝経由。
初めて見たけれど、白糸の滝は山の中程から水がしたたり落ちで、幅の広い滝となっている。
川から落ちているのではなく、山肌から水が湧きだしてくる。
不思議な光景だった。
滝の近くまで行くと急に涼しくなって、やっと若葉が見られるようになった木々が美しい。
先月来た時にはまだ芽も出ていなかったのが、今は全山薄緑で覆われている。

結局Y子さんは夜まで付き合ってくれて、夕飯も一緒に摂ることになった。
北軽井沢ミュージックホールの近くの食堂で、気の良いご主人が作ってくれたおいしい豚の角煮や鶏のソテーなど。
肉の下に野菜がこれでもかと置いてあって、食べても食べても減らない。

次の日昼頃、今回合宿の相棒となるピアニストのSさんを迎えに中軽井沢までひとっ走り。
夏の北軽井沢ミュージックホールフェスティバルのお世話をしてくださる地元のYさんが、ホールのシャッターを開けて待っていてくださった。
練習前に昨日の夜と同じ食堂のランチを食べる。
トマトソースのパスタ。
そのトマトが又、とんでもなくおいしい。
新緑の木々の緑とさわやかな風と、穏やかな日差し、おいしいトマト。

練習の最初は秋のコンサートで弾くモーツァルトの「ピアノとヴァイオリンのソナタホ短調」
ミュージックフェスティバルとは関係ないけれど、ホールを借りてみっちりと練習した。
Sさんも私も、普段はお互い家事や仕事で束縛されているけれど、こういう処に来てしまえばすべて解放される。
そのことだけに集中していれば良いのだから、心置きなく練習ができた。

このホールは片側がシャッターになっていて、そのシャッターを開けると中庭に面した開放的な空間ができる。
全くの外になるから、風も入るし鳥の声や外の車の音まで入ってくる。
雨でも降ったら弦楽器にとっては大惨事。
フェスティバル当日雨でないことを祈っている。
その日は午前中は怪しい空模様で、朝の内は少し雨がパラつくようだったけれど午後には上がって、優しい午後の光が木の葉の間から差し込む。
音を出すとなんともいえない明るい音がする。
ああ、いい音。
ピアノのSさんも、なんて気持ちいいのかしらと深呼吸。
2人は夢中でモーツアルトにのめりこんでいった。
気が付くと、たくさんの鳥が木の上で鳴きだした。
まるで競っているようで、そのまま一緒に弾く。
音楽と自然は調和する。

そのうちセミのような声も聞こえてきた。
セミにしては季節が早すぎる。
カジカではないかと言う人がいた。
カジカってなんだろう?

練習はこの素敵な環境で熱が入る。
二人の様々な思いがぶつかって、何回も同じところを繰り返しては摺り合わせ、一つのものを作り上げる。
これがアンサンブルの醍醐味。
結局練習が一番面白い。
庭の奥で誰かがうずくまって聴いている。
通りがかりの人が音につられてはいったのかと思ったら、ルオムの森のAさん。
去年まで私たちはルオムの森で弾かせてもらった。
彼女も自然と一体になったモーツァルトを、殊の外喜んで聴いてくれたらしい。

その夜からノンちゃんの家が宿泊所。
初めて来たSさんは喜んで、童話のような家を眺めていた。
外側は木の皮で葺いた壁。
時が経つにつれて自然に乾燥や湿度の吸収を繰り返し、板の隙間がふさがっていくらしい。
築8年くらいで木の皮は飴色になっている。
外から見るとミノムシみたいに可愛い。

ワインを飲みながら、話は尽きない。
音楽の話にはとりわけ熱が入る。
外は強い雨音がして、夜も更けてからやっと眠りに就いた。

次の日は夏のフェスティバルコンサートの出演者も合流。
コントラバス、ヴィオラのデュオ、ピアノのソロなどの練習の合間に秋のコンサートの曲を練習したり、一日中弾いていられるのはうれしいけれど、前日とはガラッと湿度が変わっていた。
前夜に降った激しい雨のせいで湿度が高くなっていた。
私の楽器は非常に気難しい。
気難しい事は楽器も人も悪くはないけれど、扱いにくいことは確か。
午前中は昨日と違いほとんど鼻つまり状態で、やる気を削がれる。
午後になり、又前日のような気候になって乾いてくると、楽器が鳴り出す。
弦楽器は湿度との闘いなので、当日の天候が心底心配。

昼食のお蕎麦は物凄く量があって、山のようなてんぷらが添えてあった。
それを食べたら狸のお腹。
夜になってもお腹が空かないから、少し山を下った星野温泉付近のハルニレテラスに行って少量のおつまみのセットを買ってきたけれど、それすらもう受け付けないほどの満腹だった。
ワインだけ少しずつ飲みながら、話し込む。
学生時代に戻ったような気がする。

さて、背中の痛みのことだけれど、滞在中はずっと治らなかった。
しかも首にじんましんのような赤い腫れが出てきた。
ちょっと悲観的になっていたら、ヴィオラのKさんが手当?のようなことができるからやってあげるという。
お言葉に甘えて、うつぶせに寝て手を当ててもらった。
あっと言う間に私は眠ってしまったらしい。
目が覚めたら20分も手当をしていてくれたらしい。

その夜、なにかリバウンドのようなことになって、寝苦しい。
心臓がどきどき、暑かったり寒かったり。
途中で目が覚めては柄にもなく物事を悲観的に考えた。
そのうち夜明け前にスーッと寝入ったら、目覚めはとても気分が良い。
あれほど痛かった背中の痛みがなくなっていた。
首の赤味も薄くなっていた。
触ってみると腫れもひいている。
帰路の長時間の運転にも背中は痛くならない。
目も良く見える。
これは良く寝たからなのか、気功のような手当のおかげなのかよくわからないけれど、快方に向かっているらしい。
とにかく来週は健康診断を受けようと思っている。




























2017年6月25日日曜日

命の恩人

数日前から始まった背中の痛みは一向に消えない。
なにかの病気ではないかとネットで調べたら、背中、特に左側の痛みは大層な病気の兆候と出ていた。

心臓、膵臓、胃潰瘍、腎臓などなど・・・
心臓は真っ先に疑ったので心電図を取ってもらったけれど、きれいな波が並んでいた。
肺も雑音なし。
心臓以外の病気なら、1週間くらいなら急をようする事態にはならないと決めて、明日から北軽井沢に向かう。
姿勢によって痛みが出たリ出なかったり。
特に背中をまっすぐにして両手を前に出す、ちょうどいまキーボードをたたいているような状態が痛い。
座っているからまだ少しは背中を椅子の背もたれにもたせかけられる。
幸いなことに寝ている状態では全く痛みがないから、いつもと同じようにぐっすり眠れる。
これは助かった。
内臓疾患なら姿勢がどうあれ痛みは持続すると思われるので、さほど心配はしていない。

さっきモヤシのヒゲを取っていたら、たまらなく痛かった。
それでモヤシの入ったボウルを高いところに乗せて、椅子に座ってそっくり返って作業。
外から見たら、いったい何をしているのかと疑うような姿勢。
お皿を洗うのもひどく痛い。
これが一番痛い姿勢というとおわかりでしょうか。
北軽井沢で皿洗いするときに、私はしないで済む良い理由になるのでしめしめ。
たぶん心優しい友人がぜ~んぶやってくれるでしょう。

それでもヴァイオリンを弾くのにはなんの支障もない。
右側の痛みだったら、たぶん弾けないと思う。
左側で助かった。
車の運転もできる。
この二つができれば旅行を延期する理由はないから、あちらから戻ったら病院へ行くことにした。
食欲もある。
内臓が悪いとは思えないけれど、どうかな。

そろそろ来る頃だとは思っていた。
10年か12,3年周期で体が故障を起こす。
3大疾病とガンも体験した。
そのたびにリフレッシュして蘇る私は不死鳥のごとし。
そうそう、ハリー・ポッターの第5巻「不死鳥の騎士団」は次のレッスンが最終回。
良く最後までたどり着いたものだと、自分で頭を撫でたい。
最終ページが終わったらルースさんとハイタッチかな。
でも後2巻、まだまだ話は続く。

今回の痛みが出たことでも、普段の生活に支障は出ないのが不幸中の幸い。
怪我でも病気でも、私の場合は普通にヴァイオリンが弾ける。
以前熱い油を手の甲に浴びてしまったことがあった。
その時は指の付け根から甲に向かってのやけどだった。
右手の付け根だったから、幸い包帯を巻いても弓を動かすことができたので、仕事は休まずに済んだ。
包帯姿で仕事に行ったら皆が「右手で良かったね、左手だったら指が動かせなかったね」と祝福?してくれた。

乳がんの手術の翌日には10時間の仕事もできるほど、ダメージはなかった。
やはり麻酔は体にきついらしく多少はだるかったものの、まだ今よりも10歳以上若かったから、ほとんど影響はなかった。
唯一の恐ろしい体験は急性肝炎の時。
演奏旅行の3日ほど前から高熱が出て気分が悪い。
練習場の近くの病院へ行ったら単なる胃腸炎とか、藪医者が適当なことを言って胃の薬を渡された。
演奏旅行中の東北で、あまりの気持ちの悪さに地元の診療所に行ったら、命に係わるからすぐ帰るようにと医師が青くなった。
オーケストラの仕事で一人抜けても残りの人たちがいたからいいようなものの、ソロや室内楽だったら降りることはできなかった。
もう一日演奏会が残っていたのに、メンバーに別れを告げてトボトボ一人駅まで歩く。
途中で力尽きて休もうと入った喫茶店で、私がヴァイオリンを持っているのを見た店主がレコードをかけた。
そのレコードの曲が「死と乙女」
それを聴いたとたん、ああ、私はやっぱり死ぬんだわと思って暗澹たる気持ちになった。
気分が悪すぎてまっすぐには帰れないので、一晩仙台に宿泊して次の日の新幹線で戻ったら即入院。
1ヶ月半の入院となった。
その時に演奏会を1週間後に控えていた。
演奏会に出る出ないで主治医と激しくやりあって、そして近所のホームドクターに諭されてコンサートは出演辞退となった。
その時点で代わりに弾く人を探すのは不可能と思われたときに、鳩山寛さんが代わりを務めてくれた。
お蔭でコンサートの中止は免れたけれど、鳩山さんもさすがに真っ青になって練習していたとは、ほかのメンバーから聞いた。

演奏旅行先の東北とは釜石のこと。
演奏会前にタクシーでホテルから診療所まで、かなり遠い道を走った。
到着して事情を話すと、普通なら検査の結果は翌日まで待たされるのを、その医師は只事ではないと思ったらしい。
すぐに検査をしてくれて、結果をその日のうちに出してくれた。
そして「一刻も早く帰って入院しないと命にかかわる」と言った。
医師の判断のお蔭で命拾いをした。
すでにその時点でGOTが2000を超えるという劇症だった。

3.11の時、私はその診療所がどうなったか、その先生はご存命かどうか知りたかったけれど、いまだに訊くことはできない。
私の命の恩人が、どうかご無事でありますようにと祈っている。































2017年6月23日金曜日

ふんぞり返って

背中の痛みは昨日は小康状態だったのが、今日は又ぶり返してしまった。
筋肉痛なら日が経てば薄らいでくると思うのに、やはり姿勢によってはたまらなく痛い。
それでついに病院へ行くことにした。

何科を受診したらいいかわからないので、とりあえず循環器内科の近所の病院へ。
この病院の医師は、世界でも超一流の大学で研究していたところ、先代の医師であったお父様が亡くなって、病院の存続のために急遽呼び戻されたといういきさつがあった。
研究者としては優秀かもしれないけれど、町の病院は専門の分野だけで済むわけではないから、最初のころはずいぶん戸惑っていたようだった。

お父様は名医としてこの町で信望を集めて、お葬式には2000人もの人が参列して泣いていたと聞いた。
私が子供のころからあった古い病院はいつまで経ってもボロボロで、風邪くらいだと「家に帰ってあったかくして寝てなさい」と薬も出さない。
注射をすることも稀だった。
しかし私の家族はずいぶんお父さんの先生に命を助けられている。

本当に重篤な症状の時には、適切な判断で一歩間違えば命を落としたかもしれない患者をすぐに大きな病院へ転院させてくれた。
その診断はいつも的中する。
姪が脳炎を発症した。
まだ赤ん坊で泣くばかりの子を診断して、すぐに大きな病院へ送ってくれた。
命を失うか後遺症が脳か体に残るかもしれないと言われて、家族は真っ青になっていたけれど、治療が早かったために全く後遺症はなかった。
むしろ普通よりも優秀で健康に育った。

ある時私の姉が重病となり他の病院で誤診をされたけれど、その先生の言葉を信じた母が他の病院の医師と戦って、やっと正しい治療を受けることになったといういきさつがあった。
結局姉は東大病院で治療を受けることになって、一命をとりとめた。
急性肝炎で生きるか死ぬかと言う重病のとき、演奏会を控えていて、絶対に演奏すると言い張る私を先生は必死に説得して大きな病院へ入院させた。
入院中も見舞いに来てくれて、なぜ安静にしているのが大事であるかを懇々と説明してくれたので、私の病気は主治医が驚嘆するほどの回復ぶりだった。
あの説明がなければ私は主治医のいうことを聞かず、回復が遅れ、病気は慢性化していたかもしれない。
その結果、主治医も驚いたことに、私はキャリアにもならず完全に治癒した。
そのことは奇跡的だったようだ。
それほど症状が劇症だったので。

その先生が亡くなって呼び戻された息子さんの先生は、循環器が専門だから、私の喉が腫れあがっているのが直せない。
どうして治らないんでしょうね?と私に訊くから「先生、そんなこと私にわかるわけないでしょう」と言うと頭を抱えて考え込む。
ものすごく頼りなく、お父さんが名医だっただけに、その落差が激しかった。
ついに私の喉はふさがりそうになって、これは危ないと私は逃げ出した。
その後一度だけ受診したら、今度はやたら偉そうに振舞っていたのは虚勢を張っていると見た。
それ以来その病院へは行かなかったから、10年以上いや20年位?のご無沙汰だった。

今日は背中の痛みが心臓疾患の兆候かも知れないと思ったから、専門分野ならいいだろうと久しぶりに病院を訪れた。
旧い診察券はボール紙。
こんな古いのでも大丈夫?と訊いたら、あら、でも大丈夫ですよと受付嬢。
ところがとっくにカルテは失われていたから、だいぶご無沙汰だったようだ。

久しぶりに見る先生はやっと病院に馴染んだという雰囲気。
先代には及ばなくても経験を積んで、穏やかな良い町医者へと変わっていた。
私のことはよく覚えているようだった。
治療にてこずって逃げ出された患者だから。
今回は心電図をとって今のところ異常なし、肺の音もきれいだから、背中の痛みは筋肉痛ではないかと自己診断と一致。
帯状疱疹の疑いも、痛みのある場所に発疹がないのでセーフ。
しかし姿勢によってはものすごく痛い。

さあて、いったいどうしたものか。
こんな痛みは初めて経験する。
背中をまっすぐにしなければ痛みはさほどでもないから、当分偉そうにふんぞり返って生活することにした。




















2017年6月22日木曜日

末期的症状

来週、北軽井沢まで出かける予定。
避暑も兼ねてだけれど、8月17日の夏のコンサートのためにホールの下見もしたい。
それと秋のコンサートで一緒に演奏するピアニストと合宿しようなんて、相談もまとまった。
別荘の持ち主のノンちゃんは不在でも、家を使ってもいいわよと鍵を渡してくれたので、こっそり留守宅に忍び入って狼藉の限りを尽くし・・・なんてことはない。
食器類を割らないように、部屋を汚さないように大切に使わせていただくことになった。
追分の住人のヴィオラのKさん、コントラバスのHさんも現地集合。
そのうえ、夏のコンサートの出演者のピアノのOさんも行きたいという。
あらあら、こんなに練習が重なって、果たしてゆっくり秋の分ができるかしら?
まあ、そこは適当にと、いつものアバウトさでいくことにした。

北軽井沢ミュージックホールの使用は、先月行ったときに役場に行って予約をしておいたはず。
その時に使用許可と使用料金請求書を書面で送りますと言われて待っていたけれど、一向に知らせがない。
もう来週のことだから支払いを済ませないと、行ってからダメだったなんてことになったら目もあてられない。
どうも嫌な予感がする。

私はひと月間違えていないかしら。
使用許可申請書を書いたときに、7月28日と書いたような記憶が。
とにかく確認しようと役場に電話してみた。
やはり私の予感は的中。
申請書には7月とかいてありますよと、担当者の返事。
あわわ、やはりそうか。
でもまだ、確認しただけでも少し救いがあるかもしれない。
現地に行ってから「ぜったい予約してあるはずよ、なんで使わせてもらえないの!」と暴れたりしないだけまし。
役場の人に大笑いされて、ちと恥ずかしい。
私にも恥の気持ちが残っているという新たな発見があった。

近々あるイベントがあって、準フォーマルな服が必要になった。
いつもはジーンズにTシャツみたいなカジュアル路線だから、こういうときが一番困る。
ステージではイブニングドレスという超フォーマルないでたちで、それはそれで用意があるけれど、結婚式やお祝いの会、お別れの会などの時に着ていくものがない。
まさかイブニングドレスは着られないし、上品で目立たないようなスーツなど全く持ち合わせがないので、いつも困っている。
その日はそのイベントが終わってからコンサートに行く予定なので、あまりフォーマルでもおかしいし、失礼にならない程度のきちんとした服でないといけないし、悩むところだった。
SCのフォーマルドレスの売り場に行くと、なんだか急に購買意欲がなくなる。
とてもじゃないけど、こんなつまらない服着れる?

それで買わないから増々困っている。
結局当日まで決まらず、恥を忍んでそれらしい格好でごまかすしかない。
あれやこれやクローゼットを探していたら、ずいぶん前に買って一度も袖を通していない半袖のスーツ。
薄いグリーンで、フォーマルにしてはボタンが金属製なのが面白くないが一応スーツだし、これに長袖のシルクのブラウスの袖を下から出して着ればあまり肌を露出しないで済む。
ようし、これに決めた。
これで安心。
ほっとしてカレンダーを見たら、そのイベントはなんと来月末のはなしだった。
まだ先のはなし。
今月のような気がして、ずいぶん慌ててしまった。
でも来月となると夏の真っ盛り。
暑くて着られないかもしれない。
それならそれで、買いに出かける楽しみができた。
素敵なものが見つかるといいけど。

まだ約束を忘れたリするようなことはないけれど、そうなるのは時間の問題かもしれない。
あな、恐ろしや。
しかし、全部忘れてしまえるようになればこっちのものだと思っていたけれど、それはそれで苦労するというのは聞いたことがある。
まだらに記憶があると疑心暗鬼になって辛いらしい。

らしいなんて人ごとのように言ってるけれど、もしかしたら傍から見たらすでに末期的かも。










2017年6月21日水曜日

すわ!心臓発作?

昨日から背中の痛みがひどくなって、座ってパソコンに向かうのも本を読むのもつらい。
肩甲骨の裏側から背中の左半分が痛む。
こういう痛みは今までも経験があって、10年ほど前に狭心症を発症していたころ度々味わったから、今回もそうかと思った。
水分が不足すると時々痛くなるので、水分補給に努めたけれど、治らない。

痛みは不思議なことに座っていても背中を後ろに少し反らせていればなくなる。
立っていれば痛くない。
ヴァイオリンを弾くには支障がない。
もし心臓由来の痛みなら、どんな姿勢であっても痛むはず。
狭心症の痛みなら、私の場合は冷たい水を一気に飲むと治まるはずだけれど、飲んでも良くならない。

最近はストレスも少なくて、体力も使っていない。
狭心症の症状は影を潜めている。
私の狭心症は心臓の血管のつまりなどではなくて、痙攣性のものだと以前医師から言われた。
ストレスなどで血管が一時的に痙攣して起こるらしい。
それにこんなに長い時間痛みが続くことはない。
横になっていれば痛くないし姿勢で痛み方が変わるのは、筋肉痛ではないかとよくよく考えてみた。

そういえば!
車の冬用のタイヤをやっと夏用に履き替えた。
ずっとスタッドレスタイヤで今年の冬まで走ってしまい、来年の春にノーマルタイヤを新しくつけようかと思っていたけれど、今年の夏は北軽井沢まで行ったり来たりが多くなりそうで、タイヤに不安があってはいけない。
事故につながってはいけないから、足元をちゃんとしないと。
それでやっと今頃になって履き替えたという次第。

交換に行くときに物置からノーマルタイヤを引きずり出し、トランクに積み込む。
交換が終わって、トランクに積み込まれたスタッドレスタイヤを引きずり出して、物置にしまう。
この作業を私のこのか弱い腕で、全部やってのけた。
もちろん頼めば、物置から工場、工場から物置というサービスもあるのだけれど、工場にタイヤを預けるように熱心に勧められたのを断っているため、自分でやらねばと意地を張ったのが悪かった。
その時の筋肉痛が今頃出たのではと考える。

私はやることなすこと緩くて、タイヤをトランクにいれるときにも適当に入れて、凸凹していても気にならない。
でも、自動車会社のメカニックさんたちはなんでもしっかりとやらないといけない。
それで、交換が終わってスペアをトランクにしまうときに、それはそれはきっちりと入れてくれたのだった。
あまりにもきちんと詰め込まれたので、家に帰ってトランクからタイヤを引き出そうと思ったら、びくとも動かない。
少し余裕をもって緩く詰めてくれればいいのにと思いながら、渾身の力を振り絞ってタイヤをどうにか引き出した。
この時にそういえば、左半身に少し負担がかかったようだ。
腰の方は十分注意したけれど、背中には注意を払わなかった。
その時の痛みがでたものと思える。

心臓でなくてよかった・・・とはまだ言えないけれど、自己診断では筋肉痛。
それともなにか重大な病気の前触れ?
10年位の周期で結構な大病を経験してきた。
そろそろお出ましかもしれない。
来週は北軽井沢に行くので、7月にはいったら数年ぶりで健康診断を受けようと思う。
このところずっと受けていなかったから。
たぶん明日あたりには、背中の痛みは雲散霧消していると思うけれど。























2017年6月19日月曜日

ご無沙汰しました。

なんだかバタバタしていて、ブログに向き合う元気がなかったのでしばらくお休みでした。
その間、自分が演奏した本番があって、それは悲惨な出来だったので省略。
思い出したくない!

その次はルーテル市ヶ谷ホールでのコンサート。
ピアニストの服部真理子さんという方の主催する~真理子の気ままなコンサート~というタイトルの楽しいコンサートを聴きに行った。
真理子さんと言う方を私は存じ上げなかったので、ヴァイオリンを演奏した手島志保さんにお誘いを受けて出かけた。
始まったら、いやいや来てよかったとホクホクしながら聴いた。
切れの良いタッチの素敵なピアニストだった。
フランスに留学したという経歴を見て、なるほどと思った。
音の切れ味とか音色や音楽の構成が非常に理知的で、感性が鋭く個性的。
全部弦楽器とのアンサンブルだったけれど、自然な流れで奇を衒ったところがなくしかも華やかで・・・
私こういうの大好きなんて、珍しく眠りもせず聴いた。

   ドビュッシー:ピアノ三重奏曲ト長調
   ドビュッシー:ヴァイオリンとピアノのソナタ
   ブラームス:ピアノ五重奏曲ヘ短調

手島志保・平岡陽子(ヴァイオリン)東義直(ヴィオラ)和田夢人(チェロ)
彼らは弦楽四重奏団を組んでいつも一緒に弾いている。
手島さんのヴァイオリンはパリッとした音の良さと、揺らぐことのない芯のある演奏がお見事。
優れた弦楽四重奏を聴くのはいつでも至上の喜び。
特に最近久しく聴いていなかったブラームスは、これぞピアノ五重奏曲の王者。
そういえばこの曲、以前はよく弾いたのに最近弾いてないなと思ったら、気持ちがむずむずし始めた。
そのうちこの曲を入れたコンサートをしよう、なんて、又病気が・・・

そして日曜日には浦和の埼玉会館でのアマチュアコーラスのコンサートを聴きに。
私たちスキーの仲間「雪雀連」の中に、化学者がいる。
なんでも香りの調合とかなにか化粧品に関係ある研究をしているらしい。
年中嗅覚障害に陥る私には無縁の仕事。
彼女が出演するとなれば、はせ参じないわけにはいかない。

コール”C・E・G”という男性コーラスのグループと、MJ混声合唱団とのジョイントコンサートで、一昨年同じ埼玉会館でのコンサートも聴いた。
その時感心したのは、よくぞこれだけ覚えたということ。
見れば、それほど若い人はなく、というより、皆結構なお年。
特に指揮者の増田順平氏は天皇陛下と同い年だそうで、背中を見ている限りでは、とうていそんな風には見えない。
背筋のピシッと伸びた若々しい姿勢。
目が悪い私には顔の表情まではわからないけれど、たぶんお肌もつやつや?
そのヴィンテージメンバーたちが楽し気に歌っているのを見ると、なんだか世の中楽しくなる。

曲目は沢山あって、ここに全部書くと煩雑なので一部省略。

最初は
萩原英彦作曲  動物たちのコラール

この曲を最初に持ってきたのはよほど自信があったのかどうか。
アカペラだし和声が難しいので、これは喉が温まってからの方がよかったのではないかと思った。
かなり音程が不安定で、しかも狂っていくかと思うといつの間にか合ってきたりと、少しハラハラ。

第二ステージのシューマンの歌曲集で、ホッとした。
この辺から皆の喉が温まって、高音も心配なく聴けるようになった。

第三ステージは男声合唱。
思い出の青春を謳うというタイトルで、私たちが懐かしく聴き育った曲。
私の隣で聞いていたミスター・Aが次の曲嫌なんだよねと言うから「もしかしたらコンドル?」と訊いたらそうだという。
彼は自分とコンドルを重ね合わせているらしいけれど、コンドルにしたらお前さんとワシはそもそも生まれが違うと言うかも。
ミスター・Aは後天的なコンドル状態、コンドルは生まれながらの生粋のコンドルなんだから、一緒にされたくはないだろうに。

最後はシュトラウスのポルカやワルツ。
これは楽しい。
衣装もステージごとに替えて、本人たちが一番楽しいに決まっている。
皆さん物忘れ激しいお年頃なのに、これだけ歌詞もメロディーも覚え、認知症予防に努めている。
日本の医療費削減に貢献しているようだ。
歌はいい。
呼吸が整うしお腹も空く。
これが元気で長生きの秘訣。

又次回に期待を込めてエールを送ろう。

 






















2017年6月11日日曜日

セドリック

甲州街道の立川付近を走行中、目の隅にチラッと見えた旧型の車。
レトロだけれど色も形も気品があって、ん?何だろうと気になった。
中々並ばないのでトヨタのマークⅡ?スカイライン?なんだろう。
右折の車線に入ったら、やっと隣に並んで追い越していった。
日産セドリックだった。
約半世紀前の型?

ミルクティーを濃くしたような色で、箱型で天井が低めのいかにも一時代前の感じ。
懐かしい。
今どきの車のように室内の広さを取るために天井を高くしていないから、平たい形が今見るとスマートで、利便性より外側からのデザイン重視の様に見える。
乗っていたのは車に合ったレトロなおじさん。
特に気取ってはいないけれど、渋くてスマート。
車の色は特注かしら。
こんな色はあまり見たことがない。
古い車を大事にしてまだ乗っている、心意気に共感するものがあった。

私が運転免許講習を受けに行った時、自動車学校の車はセドリックだった。
いつも言うように私はチビだから、身の丈に合わない。
昔の車でも、もっと高級車だったら装置が付いていたかもしれないけれど、自動車学校の
セドリックはハンドルや運転席の高さ、背もたれの角度など変えられなかった。
今どきの自動車はうちの(ボルフガング・アマデウス)シルフィーにだって、ちゃんとその位の調節機能は付いている。
ボルフガング・アマデウスとあの高貴なお方の名前を付けているけれど、ごく安めのシルフィー。
それでも昔の車に比べたら、雲泥の差。

教習所では班が決まっていて、私の所属の班は1班。
この班はインストラクターが粒ぞろいだった。
たまに1班に空きがなくてほかの班に回されると、嫌なおじさん教師に遭うことも。
1班の先生たちは教え方も巧く、厳しかった。
次の時間に教習生がいなければ、時間オーバーでも修理工場でオイル交換を見せてくれたり、熱心に教えてもらった。
実技試験当日、運転席が大きすぎる私のために、背もたれを2枚重ねて座布団までおいてくれた。
そのお蔭で免許取得できた。

そして晴れて初心者ドライバーとして家の周りを運転した時もセドリック。
父は機械が専門だったから、どこから持ってくるのか家にはいつも車があった。
機械でも専門は車ではなく電車だったようだけれど。
さすがに電車までは家に持ってこられない。
子供のころで車の知識がなかったからはっきりとはわからないけれど、今思うと形も色もユニークな車ばかりだったから、たぶん外車。
その何台目かの車が国産のセドリックだった。

そのころ自家用車がある家は少なかった。
だからと言って我が家が裕福だった記憶はない。
いつも質素な食事、おさがりの服や鞄を持たされていた。
中学校の制服が姉からのお下がりで、入学した時にはすでに袖口が擦り切れていたというのは、先日書いた通り。

免許を取って初めてのドライブ。
大きなセドリックの運転席にちょこんと座った私が、辛うじて足が届くように何枚も座布団や背もたれを重ね、助手席に兄をのせて意気揚々と走り出した。
兄が色々教えてくれる。
ずっと対向車とすれ違っていたのに急に対向車が来なくなった。
そこで私は対向車線を走って前の車を追い抜こうとした。
助手席で兄が絶叫「行っちゃだめだ、止まれー」
ずっと連なった車の前に出たら、前方に踏切があって遮断機が閉まっている。
対向車が来ないわけだわ。
遮断機が開いたらどっと向うから車がきてしまう。
兄は助手席で米つきバッタにへんし~ん!
窓を開けて、両手を合わせて他の車を拝んでいる。
やっと入れてもらって難を逃れた。
妹のためにこの兄はどれほど苦労したことか。

免許を手に入れた私は、次々ととんでもないことをしでかす。
当時のオーケストラの団長が乗っていたのも、セドリック。
何を思ったか、その車を私に運転させた。
団長夫妻と打楽器奏者のAさんをのせて張り切って運転した。
対向車線からバスが来た。
左側には電柱。
同情者が全員絶叫「止まれー止まれー」
私は「えー、なんで?大丈夫よ」
バスとすれ違いざま車の左側に軽い衝撃があった。
バンパーにつけてあった旗竿がもぎ取られていた。

このセドリックはその後東北の演奏旅行でも貸してもらって、ドライブシャフトが落ちる事故に遭った。
時々カラカラ異音がしていたのが、いきなりドシャッと言って急に車が動かなくなった。
夜遅い国道四号線の真ん中で。
あたりは畑。
そのころJAFはあったかどうかしらないけれど、一般的ではなかったから誰も入っていなかった。
携帯電話もない。
他の仲間の車に頼んで、修理工場を見つけてもらうように頼んだ。
野宿して朝を待って、修理工場からけん引に来てもらった。
ドライブシャフトを留めていた数本のボルトが、全部なくなっていたそうだ。
ひどい目にあった我々が怒っているのに、報告を受けた持ち主の団長はワハハと笑っているばかり。
運転していた団員は、整備不良車を貸すなんてと大むくれ。

その当時、無人の車が走っているという怪奇伝説が生まれた。
姿の見えない運転手とは誰あろう、かくいう私のことです。
外から見ると運転手の姿が見えない。
小さな私はステアリングの輪っかの下から前方を覗いていたのです。


















2017年6月10日土曜日

余計なお世話だったかも

おなじみのミッケと間違えて動物病院へ送られてしまった三毛猫。
鼻水と目の感染症、のみがひどくて治療を受けていた。
獣医さんには少しも懐かず、ネット越しに点滴や投薬をされて怒っていたそうだ。
昨日からはさらに元気になって大暴れするので、エサに薬を混ぜての治療のみ。
今日様子見に行ってみるとかなり病状は改善されていて、相変わらず怒っている。
獣医さんはご夫婦で、女医さんのほうが怖がって手が出せない。
手袋したら?といってもごつい手袋をはめると指が動かせなくて、ネットのファスナーの開閉もままならぬ様子。

私が持参したケージに網ごと引きずられて移動した。
私にはなぜか険しい表情は見せないで、可愛い声で鳴く。
私も鳴き返して、会話しながら車に乗せて帰路についた。
家までほんの5分ほど。
その間三毛はおとなしい。
きっと自宅の方に向かっているのがわかるのだと思う。

うちの猫たちも病院へ向かう時には大泣きするのに、退院して家の方に向かう時にはおとなしい。
ヒゲのセンサーが自宅方向をキャッチしているのかも。
三毛はすっかりきれいになって、先日よろよろと歩いていた姿とはずいぶん違う。
もう一匹の三毛猫のミッケと増々似てきた。
おそらく姉妹猫ではないかと思う。
獣医さんの話では、ひどいノミにたかられていたので、貧血状態だったかもしれないと言われた。
ノミの薬が効いているからしばらくは大丈夫で、万一我が家の飼い猫になるとしても室内飼いなら問題ないとのこと。

駐車場に停まるといかにも安心の表情でおとなしい。
ここが思案のしどころ。
さて、どうするか。
我が家の猫にするかどうかということで、まず部屋に入れてみた。
うちの先住猫のコチャがワニみたいな恰好で匍匐前進。
押し入れに消えた。

コチャはいままで多頭飼いであまり構ってもらえなかったのが、去年3匹いなくなって天下晴れて一人っ子となったから、いまやおっそろしい甘えん坊になっている。
いままでの分を取り戻すかの様に、一日中私にべったり。
それが又ほかの猫が入ってくるとストレスになりそうで心配だった。

それは初めの内だけですぐに猫同士折り合いをつけるから心配はしないけれど、少し可哀想かなとも思う。
まずケージごと置いてしばらく様子見。
駐車場に着いたときの安心しきった表情とは変わって不安そうな三毛。
おびえてはいないから飼い猫かもしれない。
もしそうなら、今頃飼い主さんはとても心配しているに違いない。
張り紙でも出しておこうか。

とにかくもう一度駐車場にケージを運んで扉を開けてみた。
ひどく怯えるようならもう一度戻せばいい。
しかし、三毛ねえさんは何事もなかったように、さっさと出て行ってしまった。
普通知らないところに来れば警戒してあたりを嗅ぎまわるのに、それもなし。
当然のような顔をしてのんびりと歩いていく。
あらま、やはりこの辺の猫だったようだ。

3晩も帰ってこなくて飼い主さんの心配はたいへんだったかもしれないけれど、あの状態で外を歩いているということは、手入れが行き届いていないと言える。
まあ、それほど可愛がっていなかったか、野良猫だったか、そのへんはわからない。
今後ノラ生活をするにしてもしばらくは良い状態で過ごせるなら、本にゃんにも悪いことではない。

それにしても・・・動物病院は保険がきかないからたいへん。
以前うちの猫たちが数日家出することがあって、私は気が狂ったように探しまわっていたことがある。
その後けろりとして帰ってきた。
あれなんかもこんな状況だったのかもしれない。

























2017年6月7日水曜日

三毛違い

今朝ゴミ出しに行ったら、うちの駐車場に野良猫ミッケがフラフラと現れた。
足元も覚束ない。
いつもより毛の色も薄くなってしまって目も小さくなっている。
ミッケは本当に器量よしの三毛猫で、近辺のノラたちのアイドルなのに見る影もない。
良く見ると片目が感染症で、瞬膜が半分ほど目をふさいでしまっている。
これは一大事。
段ボール箱に押し込んで蓋をして、朝からイライラしながら動物病院の開院を待った。

9時、早速病院に連れていく。
普段のミッケなら私が毎日エサをやっているにもかかわらず、体に手を触れることができない。
たった一度だけ、とても寒い日にゴロリとコンクリートに寝そべって「さあ、撫でなさい」とばかりに催促されて、有り難く撫でさせてもらったことがある。
今日はすっかり弱ってしまったせいか、抱えることができた。
なんだか痩せて顔つきも、毛の艶もいつもより薄い感じがする。
ああ、こんなにやつれてしまって可哀想に。

ケージに入れるときに少しだけ抵抗したけれど、か細い声でニャーと鳴いて車に揺られている。
病院に着くと急に暴れだして、先生を引っ掻こうとする。
この子は病院の体験があるのかしら?
もっともミッケは以前は飼い猫だったから、避妊手術をしているはず。
そのしるしの耳キレだし。
それにしても、この子の尻尾、こんなに長かったんだ。
たしか短尾のような気がしていたけれど。

点滴をしてノミ・ダニの薬を塗って、しばらく入院することになった。
瞬膜は若猫なら手術をして戻せるけれど、けっこうな歳みたいだからこのままになるかもしれないと説明されて、置いてきた。

関東地方も梅雨入りで雲行きが怪しいので、夕方雨にならないうちに散歩に出かけた。
時々雨粒が当たるけれど、まだ本降りにはならない。
曇り空のせいか、少し頭が痛い。
楽器も鳴らない。
いやな季節が始まる。
この先も去年のように暑いと、私はすっかり元気をなくしてしまう。

雨模様の中で、途中、知り合いの猫たちに挨拶しながら足早に戻ってきた。
そして我が家の角を曲がった途端、チラッと三毛猫の後姿が見えた。
あら!あれはミッケ。
ミッケ!ミッケ!と呼ばわると、いつものミッケが見返り美人のように顔だけこちらに向けた。
ああ、紛れもなくミッケだ。
すると病院にいるのは誰なの。

落語みたいなことになってきた。
行き倒れを見つけた早とちりの男、自分の兄弟分と見間違えて「本人」を呼びに行く。
呼ばれた「本人」は死んだ自分を抱えて悲しむ。
死んでるのはおれだ。
抱えているのもおれだ、するてえと、一体おれはだれなんだ?みたいな。

しかたがない、関係ない猫でも一旦面倒見てしまったら、もう見放すわけにはいかない。
さあて、どうしよう。
やはりミッケの尻尾は短かった。













2017年6月5日月曜日

辛いのなんのって

怪しい肉を食べても大丈夫だった胃が、時々シクシクと痛む。
なぜかというと、例によって軽率なことをして。

いつも食事の献立は考えない。
予定を立てて買い物をすれば、食材を買いすぎることもないから経済的とはわかっているものの、性格的にそういうことは無理。
まず買い物に出かけるとき、何も考えない。
食品売り場で目に付いたものを片っ端から買ってくる。
その日の体の要求とご相談。

暑い日ならキュウリやトマトが食べたい。
冷ややっこもいい。
茗荷とネギ、大葉などの薬味があれば最高。
去年夏の大ヒットはスイカピザ。
スイカを薄切りにして上に生ハムやチーズをのせて食べる。
友人たちが来た時に出したら、うにゃうにゃ言って食べていた。

先日、さて今日は何を食べようか。
冷蔵庫になにか入っているかな?
見慣れない紙の箱を見つけた。
カレールーでも置いてあるのかなと思って取り出してパッケージを見ると、四川マーボー豆腐の元と書いてある。
こんなものいつ買ったかしら、さっぱり記憶がない。

冷蔵庫に声を掛けた。
「これはどうしたの、いつからここにあるの?
私は買った覚えがないけど、あなた、どこからくすねてきたの」
すると冷蔵庫はわたしをじっと見て「そういうのを下種の勘繰りというのですよ。品性卑しい人が自分の持ち主だと思うと情けない」
ふん、冷蔵庫風情にバカにされてしまったわ。
「数日前にご自分で私のお腹に入れたじゃないですか。あなたこそちゃんとお金は払ったのでしょうね?」
あら、そうだったかしら。

ちょうどお豆腐もあるし、ではこれで麻婆豆腐を作ってみよう。
というか、たぶんお豆腐を買うときに一緒に買ったものと思われる。
計画性がないから単に忘れていただけ。
中には小分けされた調味料が4袋。
お豆腐1丁に一袋と書いてある。

袋はとても小さい。
お豆腐一つに対して、こんなに少しでは足りないでしょう。
2袋入れよう。
だって、ネギをたっぷり入れたいし。
ネギは少ししかなかったので、大きな玉ねぎを使うことにした。
お豆腐も大きめ、こんな小さな袋で足りるわけがない。
説明書通りに作業をしないのでいつも周囲から顰蹙をかうけれど、私は料理だったらわかるんだから。

袋を取り出してみるとやけに赤い。
ふん、少し辛そう。
まあ、四川風だし。
見た目はおいしそうに出来上がったけれど、一口食べると喉の奥に引っかかった辛味がこみあげてくる。
思わず咳き込んだ。

その日はそのまま食べたけれど、少しずつ恐る恐る飲み込むとまた強烈な辛味が・・
ほんの少し食べてギブアップ。

次の朝、なるべく唐辛子の赤身の少ないところを掬ってトーストにのせて食べると、これは意外とおいしい。
そのあとコーヒーを飲んだら、何が何だかわからない風味がした。
両方強烈すぎるし、相性最悪。
口の中で食べ物同士が大げんか。
お昼には白いご飯一杯にほんの少々のせて。
これは一番オーソドックスだけど辛くて全然減らない。
その日の夜、ジャガイモをゆでてマッシュポテトを作った。
それにマーボー豆腐を混ぜて辛味を軽減。
ゆで卵の周りにそれを巻き付けてパン粉をまぶして揚げた。
スコッチエッグのマーボー豆腐バージョン。
これはすごくおいしかった。
ピリッと辛いのがアクセントになって、卵の黄身のねっとり感と良く合う。

そこまでしてもまだ余っている。
スコッチエッグに使ったジャガイモ入りのマーボー豆腐の余りは、今朝最後の舞台を迎えた。
オリーブオイルで食パンを両面カリッと焼いて、マーボー豆腐をのせてその上に溶けるチーズをのせてトースト。
う~ん、これは美味しい!
我ながらアイディアの素晴らしさにウットリだわ。
食べ続けてようやくマーボー豆腐完食。

辛かったせいか、胃がシクシク。
食べ過ぎたわけではない。
夕飯の分が次の日丸一日とその次の朝食になったのだから、食費はずいぶん倹約できたかもしれない。
材料はお豆腐1丁、ネギ少々、玉ねぎ大玉半分。
材料費200円くらい?
形を変えて、ジャガイモ2個、卵2個。
トータル500円もかかっていない。
うっふっふ、見たか、これが猫ママの節約術なのさ。








































2017年6月4日日曜日

物忘れ名人ここにあり!

物忘れの名人の名人たる所以。

私はひと月分の肉を毎月一回生協で仕入れる。
それをカットしてジップロックの袋に入れて冷凍。
必要な分だけ取り出して解凍して料理する。
昨日夜、電子レンジの扉を開けたら解凍済みの肉が入っていた。
パニックになる。
果たしてこの肉、いつ解凍したのだろうか。
まじまじと見ても色も変わっていない。
鼻が悪いから匂いはわからないけれど、さほど悪臭もしないようだ。

昨日、今日の行動の軌道を思い起こそうと努力はしてみるものの、まったく思い出せない。
さて、この肉を解凍したのはなんのためだったのか。
なにか料理の計画があったからとはおもうけれど、果たしてその料理とは?
ニャーロック・ホームズは考えた。
考えても、思いつかない。
どのくらい電子レンジの中に置き去りにされていたのか。
食べても大丈夫だろうか。
野菜室に茄子が入っていたから、その茄子と一緒に炒める予定だったかも。
それにしては今日食べる分はすでに他の料理ができている。
だから、その前に解凍されたものと思われる。

考えても仕方ないのでなにか作ってみよう。
食べてコロッといっても自業自得。
その時はそのとき。

野菜室を漁っていると、茄子だけではなく、ゴーヤー、玉ねぎ、シイタケ等々大量にストックがある。
異常な野菜好きだから、好き嫌い一切なし。
ゴーヤーチャンプルーというより肉野菜炒め甘酢味になってしまったけれど、いかにもおいしそうに出来上がった。
この怪しいお肉のおいしさ。
いつもよりおいしいような気がする。
果たして明日の朝起きられるかどうか。
これを食べたら中毒で病院行きかもしれない。
悪くすると…
嫌な予感がするけれど、構うものか。

今朝、ぴんしゃんして起きた。
一日経っても腹痛もない。
明日になったらどうかな。

今朝、定番のキャベツとバナナのスムージーの材料をミキサーに入れて準備。
豆乳を投入。ダジャレだけはスムージー?
ダジャレを言うのはダレじゃ。

朝食が終わって10時のおやつ時。
もう一杯コーヒーを淹れようとしてふと気が付いた。
ミキサーの中でキャベツとバナナがブウたれていた。
「お~い、俺たちをいつまで豆乳漬けにしとくんだよ~う!」
そうでした、スイッチ入れないとスムージーはできない。
どおりで今朝の朝食はいつもより簡素だと思った。

まだお腹は痛くならない。





















2017年6月3日土曜日

古巣

クラリネットのU先生から、インドネシアの11歳の男の子の演奏に付き合ってほしいと言ってきた。
曲はモーツァルトの「クラリネット五重奏」第1楽章。
今度の日曜日、私が元講師をしていた音楽教室「ルフォスタ」のクラシックパーティーがある。
これは発表会の予備練習や日ごろ弾きたい曲などを持ち寄って弾くとか、外部からも参加可能なのでいつもにぎわっている。
始めたときはもっとくだけた、いい加減な進行だった。
何を弾こうかなんてその場で楽譜を開いて相談したり、途中までしか練習していないから今日は半分でおしまいとか。

この遊びのヒントは、ニューヨーク・マンハッタンの音楽院で学んでいた私の友人からのはなし。
オーケストラの人たちは根っから弾くのが好き。
特に室内楽はアンサンブルのトレーニングになる。
オーケストラの本番が終わると誰かの家に集まって、サンドイッチパーティーをするのだそうで、ワインやビールを飲みながら「今度は俺が弾くから次はお前が弾け」とか「この曲はわたしに弾かせて」とか言いながら、夜通し楽しむそうなのだ。
もちろん酒の肴はサンドイッチ。
どんどん楽譜を出して初見でワイワイ。
カルテットはアンサンブルのなかでも究極の完成された形だから、オーケストラプレーヤーでカルテットを嗜まない人は本当に胡散臭い。

私は、それを聞いてなんて楽しそうなの。
半ば生徒たちに強制して時々、日曜日に私の家に集まった。
そこで育ったのがそのころ小学生で、ことし音楽大学院を卒業したS子ちゃん。
初見力もアンサンブルの能力も抜群だった。
長調で書かれた曲を短調になおして「陰気なユーモレスク」などと言ってアドリブで弾いたりするような、ユーモアのセンスも持っていた。
流石にお酒は飲まなかったものの、酔っぱらった大人を見て面白そうに笑っていた。
その時の参加したのがほとんど音楽教室のメンバーだった。
それがクラシックパーティーの原点。

当初の私の考えでは、とにかく楽しむだけのことで良かったのだけれど、そのうち、やはり日本人ですなあ。
どんどんきっちりと練習して、本番さながらの雰囲気になってしまった。
私が自宅で生徒たちを集めては楽しんでいたころ、1曲弾けばお酒を飲んでもよし!という約束だった。
だから初めの方で弾いた人は、最後の方になるともう酔っぱらっている。
酔っぱらっても初見でどんどん弾かせる。
次々と合奏が始まる。
あんまり楽しかったのでそれが忘れられなかった元の私の生徒たちが、ルフォスタでも始めたという次第。
でも我が家での騒ぎとは、もはや雰囲気は大違い。
もちろん途中でお酒を飲むような不届き者はいない。
私はただただ楽しいというだけの場所がほしいのだけれど、皆くそ真面目になってしまうのが惜しい。
なんでかなあ。
音楽なんて本当になんの決まりもないのが良い。

話は戻る。
昨日、インドネシアの坊やがきて練習するというので、古巣の教室にメンバーが集まった。
現講師の人たちとなぜかニートの私とで弾くことになった。
現れたのは体の大きな坊や。
名前はショーン君。
私よりも背が高いし幅もある。
付き添いの父親はもっと大きい。
立派な体格とゆったりした態度で大物と知れる。

練習が始まると、上手いのでびっくりした。
落ち着いたテンポ感と柔らかく美しい音に気圧されるようで、こちらが焦った。
それでもモーツァルトが弾けるということは、無上の喜び。
できることなら全楽章弾きたい。
このようにまだ音楽教室とは細々とつながっている。
私はほとんど過去を引きずらない性格で、終わったものはすぐに忘れてしまう。
物忘れの名人と呼んでほしい。
それでも合奏の指導などで皆に会えるのはなかなかうれしいことで、こんな風にチャンスを作ってもらえることに感謝。

この教室は長く教えていたので、私にとっては第二の家のようだった。
行けばいつでもコーヒーを飲ませてもらえて、初代のオーナーだった故小田部ひろのさんの写真に会える。
彼女が生きている頃は顔を合わせばいつも喧嘩ばかりしていたのに、私たちはよほど相性がよかったとみえて、彼女が息を引き取る瞬間まで一緒にいた。
喧嘩ができる相手はもう誰もいない。

年を取るとこういう悲しみが積み重なってくるけれど、私はその人たちが今いる世界はきっと輝いていて、自分を待っていてくれるのではないかと思っている。
生きているのは楽しいけれど、先に逝っている人たちに会えるのもまた楽しみ。
特に、たまさぶろう、もや、にぶ・・・猫たちが天国の前でニャンニャン言って迎えてくれることを想像するとニンマリしてしまう。























2017年6月2日金曜日

力まないで

まだずっと先の話し。
8月17日 北軽井沢ミュージックホールでコンサートを開く。
今回は北軽井沢ミュージックホールフェスティバル参加ということで、去年までのルオムの森でのコンサートの場所が、ホールに移った。

ショスタコーヴィッチのヴァイオリンデュオをプログラムに入れた。
この曲は初めて弾くけれど、こんなに素敵にかわいい曲をショスタコーヴィッチが書いたとは信じられなかった。

ショスタコーヴィッチと言えば交響曲5番。
初めて弾いた時には暗くて重くて好きにはなれなかった。
ヴィオラ泣かせの曲で、ヴィオラのソリの部分にくるとハラハラして手に汗にぎった。
なぜかというと、私たちがオーケストラに入りたての時代にはヴィオラ奏者はあまり上手な人はいなくて、いつ音程が崩れるかもしれないので。
ヴァイオリン側から聞いているので、早くその部分が終わってほしいと思った。
今の時代、ヴィオラは立派なソロ楽器と認められ、ヴァイオリンが下手だからヴィオラに転向するのではなく、ヴィオラの音に魅せられてヴィオラ奏者になる人が多い。
私も、もう少し体が大きかったらヴィオラ奏者になりたいくらい、ヴィオラが好き。

ヴィオラジョークと言う自虐的なジョークがネット上にあって、一時期それがガクタイたちの評判になっていた。
ヴィオラ奏者が書いたものらしい。
例えばショスタコーヴィッチの5番では、緊張のあまり弓が震えてしまう人も多くて、ヴィオラ奏者はスタッカートを一弓で弾ける・・・・とか。
それはヴァイオリンでもチェロでも同じで、あの有名な斉藤秀雄氏も弓が震えて弾けなくなってしまう方だったらしい。
大きな声で言うとファンに暗殺されるので、この部分は声に出さずに読んでください。
私の運弓法の先生の故三鬼日男氏から聞いた話ですから。

昔の奏法はとかく無理があって、様々なやらなくてもいいようなことをやらされた。
今の奏法は本当に自然で体に力が入らないから、最近の若者で弓が震える人はあまり見かけない。
昔の日本では先生たちも見よう見まねで外国の名人たちの弾き方を外側から観察して、こうした方が、ああしないといけない、などと試行錯誤したと思う。
それが外国に簡単に行けるようになると、直接現地の先生に学んでくるから、最近の日本人はとても自然体で難しいテクニックも難なくこなす。
音大の学生さんたちだって、私たちの時代だったら名人に思われたかも。
そのくらいレベルが上がっている。

ピアノの世界も同じ。
日本のピアノ演奏の初期のころ、日本の大先生がドイツへ留学して、あちらでほんの一時期はやっていたハンマーのように鍵盤をたたく奏法を学んで帰ってきた。
その奏法はドイツではすぐに消えてしまったらしい。
けれど、日本に帰った大先生はそれを生徒たちに伝え、それ以後脈々とハンマーでたたくような奏法が日本では主流になってしまった。
その方は大御所だったからお弟子さんたちも同じようで、その派はいまだに鍵盤をひっぱだいているのを見かけることがある。
最近は奏法が改善されて、皆さんあまりたたかなくなって響かせるようになった。

ヴァイオリンも同じ。
かつての先生からは、右手の人差し指で弓を弦に押し当てて圧力をかけるようにさせられた。
それをすると、弦は共鳴することをやめてしまう。
手元では大きな音がしても、遠くへ飛ばない音になる。
外国から来たソリストたちは近くで聞くと音が小さいのに、ホールの隅々にまで響かせるのを不思議に思った。
そういうことだったのかと、今思えば納得する。
力任せの奏法は年をとると無理が来て、早くから演奏をやめてしまう人も多かった。

話はどんどん逸れるけど、私は9月に古典音楽協会の定期演奏会でソロを弾く。
バッハ「ブランデンブルグ協奏曲第4番」
この曲は途中にヴァイオリンのとてつもなく早いパッセージが続く。
曲全体の速さから言うと信じられない音型で、その場所を全体の速さで弾くことは私には不可能だと最初は思った。
それで曲全体を少し遅めのテンポで弾いていたけれど、どうしてあのバッハがこの音型を書いたのか不思議に思っていた。
今まで2回本番をしているけれど、その都度、猛烈に練習をしてやっとやり過ごしてきた。
こんな早いパッセージをどうやって弾いているのかCDなどを聴いても、皆普通に弾いている。
それにあの大バッハが、弾けないテンポのパッセージを書くわけがない。
youtubeを見ていた時、ソリストがそこの部分になると顎を外して弾いているのを見て、ああ、これだ!と思った。
それは古楽器の人たちの演奏だった。
元々顎あてなどはない楽器だから肩に軽く載せて弾く。

それでもその部分になると顎をはずす。
これは超リラックスのしるし。
私もそこへ来た時、まず全身の力を抜いてみた。
そして、笑ってしまうくらい簡単に弾けた。
脱力こそが最高のテクニックだったのだ。

ここまで来たら話がどんどん違う方向に来たので、とりあえずもとい。

ショスタコーヴィッチ「2つのヴァイオリンとピアノのための小品」は、ほんの短い曲が5曲つながっているけれど、それぞれが2分くらいで長くても3分。
だから全体で10分くらい。

1)プレリュード 2)ガボット 3)エレジー 4)ワルツ 5)ポルカ

当時のソビエト連邦で、ブルジョワ的と非難されなかったのだろうか。
おしゃれで、なによりも短いのが良い。

北軽井沢は交通の便が悪い。
軽井沢からバスかタクシー。
車がないとたいへん。
泊まるところも少なく、林とキャベツ畑ばかり。
だからこそ自然が残っている。

軽井沢近辺で避暑の方たちは、たまにはこちらへ足をお運びください。
とくに8月17日は素敵な?イヴェントもありますからね。
ミュージックホールを覗いてみてください。

そろそろ練習が始まる。
ショスタコーヴィッチだけ昨日集まって練習してみた。
簡単な曲だけど、弾いていてとて楽しい。
この曲を入れて良かった。
今月後半には現地まで行って、ホールで音響を確かめる予定。
屋根がトタンで、雨が降るとバタバタと雨の音がするそうだ。
それもまた面白い効果を生み出すかもしれない。















2017年6月1日木曜日

掌中の珠

取手市で中学生の女子生徒が自殺した問題で、今までのらりくらりと1年半もいじめはなかったとしていた市の教育委員会が、文科省の指導が入った途端手のひらを返すようにいじめを認めたという報道で、私は怒りに震えた。

見れば本当に美しく性格も明るいという素敵なお嬢さん。
ピアニストを目指していて、発表会の録画を見ると才能も豊か。
ご両親は彼女の将来をさぞや楽しみにしていたことだと思う。
それを途中で芽を摘まれ、どれほど悲しく苦しい時間を過ごしたことか。

いじめをなくそうとか言うけれど、いじめは絶対なくならない。
きれいごとを言ってないで、いじめたら厳罰にすればいい。
日本のなあなあ社会では、いじめられた方にも原因があるというけれど、いじめる方が絶対に悪い。

このお嬢さんは、ご両親から掌中の珠のように育てられて、他人の悪意を受けるのは人生初めてだったかもしれない。
いじめに対しての免疫がなかったかもしれない。
私の知人のお嬢さんは母親がすごい毒舌なので、学校で多少のことを言われても、お母さんよりひどくはないと言って、ケロリとしている。
私の様に大家族で育つと、人それぞれと言うことを早くから学ぶ。
だからそれぞれの立場から見ると、どんなに良い人でも、ある人にとっては邪魔な存在になることもある。

たぶんこのきれいなお嬢さんはお金持ちの家でピアノも上手い、ご両親も揃って素敵な方たちで、性格も素直で申し分ない人生だったのをねたまれたものと思われる。
妬みは恐ろしい。
私はそれほどのキャリアでなくても、仕事にも友人にも恵まれて楽しく過ごしてきたけれど、その間には様々なやっかみを頂いた。
たまに会う男性からは、ことごとく文句をつけられた。
それはフィンガリングから着ているものからなにやかやと。
その人は某国立大学出身が自慢。
私の方が沢山仕事をもらえるのが面白くないようだった。
ステージで得意げに難しい曲をチャラチャラ弾いている。
私がその時練習していた協奏曲をちょっと弾いていたら、早速フィンガリングに文句をつけた。
「そんなめんどくさいフィンガリング、誰の?」と言うから「あなたの学校の教授のよ」と言うと、押し黙ってしまった。

それが毎回続くからうんざり。
それでも私なら無視できた。
他の男性たちからも、そろそろ仕事やめたら?とか、ひどいことを言われても私はフン!と言ってスルー。
雑草育ちの強みを見せつけた。
誰が何と言おうと自分は自分、きちんと生きていればいい。

実は私も中学時代は独りぼっちだった。
6人も兄弟がいたので当然家は火の車。
中学に入学した時には3歳年上の姉の制服のお古を着せられた。
ぴかぴかの一年生の中で袖口の擦り切れた制服と取っ手のはげた鞄。
さぞや目立ったと思うけれど、私は意に介さなかった。
家が大変なのはわかっていたし、生まれながらのお古の境遇を受け入れた。
少しも恥ずかしくはなかったのは、やはり私がすごい変わり者だったからかもしれない。
独りぼっちは全然問題ない。
親と兄弟が全部外出して独りで留守番なんてことも珍しくなく、猫を抱いて縁側で家族の帰りを待つこともあって、一人で様々な空想をしていたのも楽しかった。

中学ではぼんやりしていたら、友人もできた。
特に音楽の先生には目をかけてもらった。
歌が下手くそだったのに。
それでも私の人生の明るい日差しの中の影の部分は、この中学時代。
たいしたことはなくても感受性の強い思春期の女の子は、物事が重大に感じられる。

可愛がられて育った取手の女子中学生にとっては、本当につらい毎日だったと思う。
とても素直な良い子だったに違いない。
それでなければ、そんないじめに屈することはなかったと思う。
ただ、ピアニストを目指していたなら、もっと強くならないと。
音楽の世界はやっかみと競争の世界。

私が許せないのは、今になって前言を翻した市の教育委員会。
上から言われたとたんヘコへコとおめおめと、謝りに行く、その無様な姿。
よくもよくも・・・
上からと言ったけれど、なにが上なのかは知らない。
どちらにしても国民の税金をもらっている人たちを上と言うのはおかしい。
私だったら泣きわめいて引っ掻いて無様な姿を晒したと思うけれど、自殺した子のご両親は静かな怒りに燃えて最後まで言葉を荒立てはしなかった。
それが余計に深い悲しみと悲痛さを感じて涙が出た。