今日は箱根や八王子でも雪だった。
銀座の割烹「川端」に集まったのは(元)美女5人。
オーケストラの(元)ヴァイオリンパートの3人と(元)事務局の2人。
いずれも(元)がつく。
私はそのうち(元)人間なんて紹介されるかも。
私達は同じ世代で共に苦労した仲間たち。
苦労といっても毎日笑うのを堪えるのが苦労だっただけで、いまある顔の皺はその頃の笑い皺。
顔と言えば、Wちゃんは先日転んで顔面で着地、鼻の下に大痣を作っている。
皆に「でも、いつもと同じよ」と言われながら。
皆にではない、私にと訂正しておこう。
なぜなら私は彼女に恨みがある。
演奏旅行で列車に乗っていた時のこと、振動で網棚から荷物が落ちた。
そのものは軽いドレスケースのようなもので、それが私の頭を直撃した。
結構大きな音がしたので、その車両の人達がびっくりして一瞬静まり返ったそのタイミングで「ああ、可哀想に、こんなひどい顔になっちゃって」と言い放ったのがWちゃん。
皆何事かと首を伸ばしてこちらを見ていたので、その後どっと笑い声が起きた。
一番笑っていたのは私なんだけど。
その時の笑い皺がまだ残っている。
だから彼女が鼻の下に痣を作っていても、気の毒にとか言わない。
傷ができた時、病院にいったら受付嬢から「ここはただの外科ですから傷は治せますけど顔は治せませんから、整形外科に行ったほうが」と言われたそうなのだ。
もう一人は、私がオーケストラをやめる少し前に並んで弾いていたKさん。
彼女とはえらく気が合って、すぐに辞めるつもりだった期限が1年以上延びてしまった。
彼女はセカンドヴァイオリンのトップ奏者だった。
私は入ったときから10年余り、ずっとファーストヴァイオリンを弾いていた。
あのパートは華やかだけれど、面白さはセカンドやヴィオラにはかなわない。
私は再三セカンドを弾かせてほしいと申し出ていたのに、中々コンマスの許可がおりなかった。
それでもう辞めるぞと半ば脅しで、やっと念願のセカンド弾きになった。
そうしたら面白いのなんのって、それでやめるのが少し延びたというわけ。
事務のお二人は私達が貧乏にもめげず、キャッキャとはしゃいでいた頃大変お世話になった。
オーケストラは一度解散して、その後団員の自主的な再建が始まった。
お金がないので大変だけれど、同じ理想に燃えた人たちとは家族同然。
今でも会えばすぐに気持ちが通じ合う。
ある時横須賀へ団員たちと遊びに行く相談が出来た。
当日我が家にはお金が無くて、抽斗や服のポケットというポケットをひっくり返しても、でてきたのは500円ぽっきり。
これでは会費すら払えない。
諦めて車にガソリンを10リットル入れた。(当時のガソリン代は安かったですねえ)
それから横浜の伊勢佐木町でウインドショッピング。
帰り道でもやしとインスタントラーメンを買ってきて、家で食べた。
そして満足して寝た。
次の日、事務所に行ってこの話をしたら、事務の女性が可哀想と言って泣き出した。
私は面白い話として喋っていたのでびっくり。
その頃、お世話になったのが今日のお二人のHさんとNさん。
給料が遅配で家にお金がなくなると事務所に行って、少し貸してもらう。
自分の給料なのに貸してもらうという感覚だった。
しかし事務所にもお金が無かったときには、Hさんは自分のお金を出してくれていたらしい。
それはごく最近聞いてびっくりした。
誰もが献身的に働いたから、オーケストラが存続したのだった。
その時の5人が一緒に食事ができるなんて、夢のようだった。
改めて連絡先を交換して帰宅した。
そして今朝はもう一つ嬉しいことが。
張りのある男性の声で、電話がかかってきた。
私より少し年下のKさん。
彼はドイツのオーケストラを定年退職して、今日本へ1週間の予定で滞在していると言う。
中学生の頃九州から引っ越してきて、私の実家の隣に住んでいた。
大人になってからは、大晦日になると私の家でお酒を飲みながら年を超した。
ある時好きな人ができたけれど、あちらの母親の反対で結婚できないので駆け落ちをした。
その時彼のお父さんは「後のことは全部オレが責任取るから、お前は自分の好きなようにしろ」と、彼を励ましたと聞いて感激した。
ドイツのオーケストラで働いて結婚して、今でもあちらに住んでいる。
その彼が電話をしてきたのは、夫を失くした私へお悔やみを言うためだった。
そして今度はぜひ一緒にコンサートをしようと言う。
彼の友人のSさんとチェロのTさんと・・・と、なんだかメンバーが決まっていく。
これは本当に実現するかもしれない。
そうなったら嬉しいなあ。
みぞれ混じりの雨なのに、ほっこりと温かい気持ちの湧く1日だった。
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