昨夜遅く、仕事から帰るのを待ち受けていたように、ロンドンアンサンブルのピアニスト美智子さんから電話がかかってきた。
彼女は彼女のお兄様のリサイタルの伴奏をするためにまだ日本に残っていて、今日がその当日。
ところが昨夜になって本番の譜めくりをしてくれる人が高熱を出してしまったそうで、急遽替りの人を探していた。
演し物はシューベルト「冬の旅」独唱は松村高夫氏。
美智子さんの兄上の松村高夫氏は現在慶應義塾大学の名誉教授で、専攻はイギリス社会史および日本支配下の植民地社会史。
美智子さんが幼少の頃、このお兄様に影響されて音楽の道に進むことになったというのが、私と音楽の関わりに似ている。
私の兄も電子工学が専攻だったが、子供の頃、兄がヴァイオリンを弾いていたことに影響されて、私がいまだに下手くそなヴァイオリンを弾いて居るという悲惨な状況でいるわけで。
それはさておいて、高夫さんは四年前からシューマン、ヴォルフなどの曲をリサイタルで歌ってきた。
そして今年は究極のリート「冬の旅」
長くて暗くて、絶望のどん底にも時々僅かな希望を持ちながら、人生を旅する若者の心を歌った名曲だが、長くて内容の深さもあって、これを歌うのはおそろしく難しい。
私は子供の頃からドイツリートが好きな変わり者だったから、
毎日の様に聞いたのはフィッシャー・ディスカウのレコードだった。
伴奏はジェラルド・ムーア。
この伴奏も大好きだった。
美智子さんの用件は、私に譜めくりのピンチヒッターをお願いできないかという問い合わせだった。
時間は空いているけれど、心配なのは目が悪くなっていること。
手の表面の水分がひからびてきているので、紙をめくるのに苦労すること。
譜めくりは連続している演奏の間に素早くしなければならないから、少しでももたつくと演奏に差し障る。
最大の難関はチビだから、楽譜に手が届くかどうか。
「だから三重苦なのよ」と言ったら高夫さんは「ヘレン・ケラーですなあ」と言ったので笑った。
譜読みの早さは昔取った杵柄。
スコアリーディングも得意な方だから、ヴァイオリンを弾くよりはましかもしれない。
それで三重苦にも拘わらず、お引き受けすることにした。
何と言っても「冬の旅」では断れない。
高夫さんはひどい風邪をひいてやっと治ったばかりなので、まだ喉は本調子ではないという。
リハーサルは私の譜めくりのためにやったようなもので、美智子さんから細かい注文が出る。
ここはこの音が終ってからめくってとか、ここは早めにめくらないと次のページが大変だからとか。
譜めくりと一口に言うけれど、音楽に合わせてめくらないと、弾くほうはとても困る。
次のページが難しいから早くめくらないといけないのに、ゆっくりとめくられるとタイイングが悪くて音が出せない場合も多い。
オーケストラで弦楽器は、2人一組で同じ楽譜を見る。
客席から遠い方に座っている人が譜めくりの係となる。
譜めくりをしない人のほうが上位なので、めくるのは入団したての新人であったりすると、タイミングが悪くて弾けなくなることもある。
非常に大切な役割なのだ。
大事な楽譜用眼鏡と濡れたハンカチ、それに九㎝のハイヒール。
これでなんとか三重苦が回避できればいいのだが。
リハーサルが終り緊張して本番を迎えた。
濡れたハンカチはスーパーマーケットでレジ袋を開くときに使う濡れたスポンジの代わり。
めくる前に指をぬらして紙をキャッチする。
一曲目「お休み」が始まった。
風邪の後で喉の調子が悪にもかかわらず、松村氏の第一声は、音程も決まり見事だった。
一曲目はほぼ完璧。
アマチュアではあるけれど、言葉の明確さ、ニュアンスのすばらしさはそんじょそこらのプロの歌い手を越えていた。
これは美智子さんの夫である、フルーティストのリチャードの特訓のたまものでもあるらしい。
後半はややお疲れで音程が下がったけれど、言葉を伝えようとする気持ちがひしひしと感じられた。
それに見事なのは妹の美智子さん。
彼女は勿論、ロンドンでピアニストとして活躍しているから、当然ではあるけれど。
ところがリートの伴奏は特別で、ピアニストの力量を問うのには最適といえる。
今日の伴奏を聴いて、ほとほと感心した。うまい!
そして三重苦にもかかわらず、譜めくりもなんとかやってのけた。
でも疲れた。
帰宅して白ワインをちびちびと飲みながら、気がついたら居眠りしてた。
ヴァイオリニストとしては売れなくなってきているから、フメクリストとして今後の人生を暮らしていこうかと・・・だめかしらねえ。
終った時に早すぎる拍手があって、私の以前の投稿「樫本大進」の最後の部分のようなことがあって、ほんとうにがっかりした。早トチリの拍手はそろそろやめて下さいね。
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