2020年12月2日水曜日

夜中に思い出すこと

時々ハマってしまうのが掲示板と称するネット上の投稿ページ。見つけたのは、蕎麦の茹で汁を飲んだ彼氏に冷めたという投稿。笑ってしまった。蕎麦の茹で汁って蕎麦湯のことでしょう?れっきとした蕎麦食いの行動。このお嬢さんは自分と違う食べ方をする人(彼氏)を貧乏くさいと言う。けれど、蕎麦の茹で汁にはたくさんのミネラルが含まれていて、茹でる際に蕎麦から出てしまったそれらのミネラルを茹で汁を飲むことで無駄にしない。先人の知恵なのだ。それを知らないということの方がよほど恥ずかしい。

それに対するコメントもひどいもので、蕎麦湯を飲む習慣がない人ばかり。駅前の立ち食い蕎麦ならいざ知らず、ちゃんとした蕎麦やならもりそばを頼めば必ず蕎麦湯を一緒に持ってくる。

どう見ても自分が知らないだけなのにそれが全くわからなくて、周り中から叩かれてやっと気がつく。これなんかも知識不足と言うか、それぞれの家の習慣の違いかと思う。

今日はいつも宅配してもらう蕎麦が届いて美味しく頂いた。蕎麦湯も無駄にしない。残りのそばつゆに入れて飲んでもまだ余った分は、小麦粉と山芋のすりおろしと混ぜてパンケーキにする。これが中々おいしい。ちょっと癖があるので塩加減は少しきつめにする。こういうのもケチくさいっていわれるのでしょうね。

群馬県長野原町の山の中に美味しいお蕎麦屋さんがある。そこはお蕎麦が絶品なのは勿論だけど、蕎麦湯も超絶品、こんなおいしい蕎麦湯飲んだことがない。蕎麦湯だけ別に作っているのかと思うくらい。掲示板の投稿者にこれを飲ませてあげたい。これが蕎麦湯でなくそばガレットになると皆おしゃれ~って言うのでしょうね。横文字にすればいいかな?そばドリンクとかそばポタージュとか。

生まれてはじめてもりそばを食べたとき、なんて不味い!こんなものもう2度とたべないわと思った。その後音大付属高校に入ってから、どうしても欲しい弓があった。それを買うためにスタジオ録音の仕事をしたり、お小遣いを節約して貯金を始めた。昼食は学校の前の蕎麦屋の一番安いもりそばのみ。それがずっと続いた。兄弟が多いから自分だけ高価な弓を買ってもらうのはいけないと思っていた。ある時何気なく母にそれをこぼしたら、母はそれなら弓を買ってあげる、楽器も一緒にと。天にも登る心地だった。うちにそんなお金があるはずはないと思っていたら、就職したばかりの兄のボーナスも全部、私の楽器で消えてしまったらしい。

あれほど私が音楽をすることに反対していた母が協力してくれたのは、娘が必死で自分の力で人生を切り開こうとしていた、そのことに対してのご褒美だったのだと今もすごく感謝している。こんな年になっても母のことを思うと涙が出る。自分は一切贅沢をしなかった。子供のためなら火にも水にも飛び込もうという、たくましい日本の母だった。亡くなって形見分けのとき、私達は母の持ち物のあまりにも質素なことに泣いた。わずかの着物と指輪だけ。私達は自分がやりたいと言えば、母がなんでもやらせてくれた。戦後の貧しい時代に、母は自分は決して贅沢をせず、6人もの私達兄弟を教育してくれた。教育にだけはお金を惜しまなかった。

亡くなる直前まで母の病室に家族がいなかったことはなかった。全員がローテーションを組んでいっときも母を一人にしないようにと。たった1度、私が差し入れた納豆巻きが美味しいと言うから母が眠ったのを見計らって病院の外まで買いに行った。いそいで病室に戻ると母が泣いていた。どこへ行ってたの?と、まるで子供のように。納豆巻きが美味しいと言うから買ってきたのよ。その頃は立場が逆転、私が母の保護者になった。

いくら感謝してもしきれない。私が幸せだったのも母の恵みの暖かさが心に残っているから。いつでも今でもきっと見守ってくれているに違いない。この年になってもまだ親離れできない自分が情けないけれど。









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