2012年10月27日土曜日

徳永二男さんのこと

そういえば徳永さんの音を客席で聴くのは初めての事だと気が付いた。いつも、練習場やステージ上でしか聞いたことが無かったから。彼は当時の楽壇史上最年少でオーケストラのコンサートマスターになったけれど、その頃はまだ無邪気でやんちゃで、皆から「つん坊」「つんちゃん」と呼ばれていた。冬の寒いさなかでもセーターにコート無しで、まあ、なんて元気なことと思っていた。ひとたびヴァイオリンを手にすれば、耳の良さで周りを震え上がらせるほどの貫録を示したけれど、普段は卓球の上手い遊び盛りの若者だった。笑顔がチャーミングで、どちらかと言えばシャイな性格を少し突っ張った態度でカバーしているようだった。お父様の英才教育は語り草だった。二人の息子さんを日本のトップ奏者に仕立て上げるには並々ならぬご苦労もおありだったと思う。学校のすぐ近くに住居があって、授業終了の合図が聞こえると家まで何分で帰らなければいけないと決まっていたそうで、本人も大変だったとは思うけれど、それを毎日厳しく指導する親の方はもっと大変。東響からN響に移って、お兄様のチェロ奏者兼一郎さんと共に、文字通り日本のオーケストラの最高峰のトップに兄弟そろって並んだ。あるときホールの楽屋口に外車で乗り付けたから「ヴァイオリンを弾いて、こんな素敵な車に乗れていいわね」というと「いやいや、皆さんとは苦労が違う」と言ったのを覚えている。本当に苦労したのだと思うけれど、素直で心底優しい性格が、まっすぐな道を歩ませてくれたのだと思う。東響をやめる時、皆が引き留めようとノートに寄せ書きをしたことがあった。それを手渡された彼は自分の上着の胸に大事そうにしまって何も言わず、それを上から撫でさすっているのを見て、涙がこぼれた。東響のアメリカ公演にゲストでチェロのトップを務めたお兄様が「つんちゃんはなんでこんな面白いオーケストラやめるのかな?」と言ったそうだ。その頃の東響は貧乏だったけれど素晴らしく活気に満ちていたし、団員同士仲が良かった。その後N響に移ってからはめったにお顔を拝見することも少なくなっていたが、最近ほかの人のコンサート会場でばったりお目にかかることが何回かあった。私も時間の余裕が出来てコンサートに行く機会が増えたので、こうして初めて客席で彼の音が聴けて感無量だった。

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