2012年10月16日火曜日

鳩山さんからの便り

鳩山さんと電話でお話をしたら、早速沖縄からお手紙をいただいた。大きな流れるような字体は相変わらずで、記憶力の確かさも抜群。私が鳩山さんのコンサートに出演するようになったのは東京交響楽団入団して間もなくだったけれど、その後、毎年行われるようになった室内楽コンサートは1978年虎ノ門ホールか皮きりだったそうだ。その第一回コンサートに私は最近再会したピアニストのYさんと一緒に出演していることが書いてあった。その後舞台は文化会館小ホールに移り、新春コンサートと銘打って毎年行われた。私はその頃スキーに夢中で、お正月は天元台で強風にあおられながらのスキーを恒例にしていたために、鳩山さんは「今年もスキーかね。たまには出てください」と毎年お電話をくださった。時々スキーを諦めてコンサートに参加させて頂いたけれど、最後の参加は、プロコフィエフの「ソナタ」を弾かせて頂いた。その時誘ってくれたピアニストの言葉は「そろそろはとかんさんもお歳だから、この辺で出ておいたほうが・・・」私もそれもそうだと思っての出演だった。でも、それからも毎年コンサートは沖縄に移住なさるまで続けられた。沖縄に移住して沖縄芸大の先生として若い人たちとの交流があった。足は弱ったものの、ヴァイオリンを弾くほうはまだまだお元気で、お手紙には「私も来年90歳になります」とあった。今回このブログにコメントしてくださった方のお蔭で、懐かしい思い出に出会うことが出来た。私が免許取り立ての頃道に迷って、高田の馬場から大久保まで行くのに山手線を反対回りするコースでほうほうの体でたどり着いたことなども、よほど印象的だったのか思い出に書いてある。そんなドジばっかりの私を何十年も使っていただいて、今思えば恐れ多いことだった。若さゆえに怖いもの知らずでご一緒させていただいたのが、今となっては素晴らしい財産となっている。その頃次々アンサンブルをさせて頂いたものだから今、どんな曲が出てきても殆ど経験済みなのは、本当に強みと言える。そのかわり、その分寝る暇が少なかったのは仕方がなかった。その名残か、今でもあまり睡眠は長くない。

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