2015年6月12日金曜日

梯剛之ピアノリサイタル

数多くのクラシックの名曲の中でも、ベートーヴェンは誰もが認める大作曲家。
作曲家の頂点に未だに君臨している。
ところが、作品を見てみると、別にどうってことない音の序列。
音階を主とした動き。
ハーモニーもそれほど複雑ではないのに、どうしてこんなに胸に迫るのか。
今朝は明日の本番に向けての最後の練習。
ピアノ三重奏曲「大公」ピアノは私の友人のお弟子さん。

本来私はベートーヴェンが苦手で、モーツァルトフリーク。
それでも周りの人達のリクエストが多く、何曲も弾いているうちに次第に良さが分かってきた。
特にピアニストのSさんには、ピアノとヴァイオリンのソナタ全曲とトリオの数曲を付き合ってもらったお陰で、なるほど食わず嫌いだったのかと、妙に感心した。
大公トリオはこれで何回目になるのか、随分沢山弾いたけれど、この年になってようやく分かってきたところが何カ所もあった。
本当に奥が深い。
弦楽四重奏曲の後期の作品などは、もはや人間の世界を遙かに超えている。

そして夕方からは梯 剛之さんのピアノリサイタルを聴きにいく。
  モーツァルト  「キラキラ星変奏曲」
  ドビュッシー  「月の光」
  シューマン   「子供の情景」
  ショパン    「ソナタ第2番」(葬送行進曲付)

このプログラムは名曲揃いの上、私の大好きな曲ばかり。
特に音の深さと美しさを追求する、梯さんの十八番がずらりと並んでいて聞き逃せない。
彼は一時期音一つ一つの美を追究する余り、音楽が先に進まなくなっていた時期があった。
恐ろしいほどの集中力で和音を重ねる姿には、鬼気迫るようなものがあった。
その頃はたぶん、彼が一番悩んでいた時期だったように感じる。
そして今、それを脱却して流れがより軽やかになってきた。
今はキラキラした華やかさも加わって、試行錯誤していた頃の重苦しさはみられない。
1人の音楽家の成長をこうして順を追って見るのも、非常に興味深いものがある。
梯さんは一時期、ベートーヴェンの作品を中心にしたプログラムが多かった。
教会のオルガンの響きのような音を、模索しているようだった。
何回も何回も絵の具を塗り込んで描く絵のように、音を一つずつ丁寧に重ねていく。
たぶん気の遠くなるような膨大な時間を費やして、試行錯誤していたと思う。

今日の演奏は・・・又変わっていた。
前回聞いたのは紀尾井ホールでのコンサート。
あれは今年だったか去年だったか、そのへんがはっきりしない。
すごく軽やかに華麗に弾いていたけれど、今日はなんとシンプルに戻っている。

去年の秋彼と話しをしていて「あなたのピアノは弦楽器の様な響き、それ以上にオーケストラみたいに鳴っている」と言ったら、非常に喜んで「実はそれを目指しているんです」と言う。
お父さんはオーケストラのヴィオラ奏者。
子供の頃から、弦楽器やオーケストラの響きの中で過ごしていたと思う。
その響きが自然に身について、求めるところがそこにあると思ったのだが、今日は素朴なピアノの音になっていた。

なにか原点に戻って、ピアノの良さを前面に出すことにしたような感じを受けた。
プログラムがシューマンやショパンだから、尚更ピアノっぽい。
当たり前だけれど。
会場の音響や客数、そして肝心のピアノの性質もあるから一概には言えないが、彼は段々熟成を重ね、単純に素直になってきたのだと言える。
それにしても毎回これだけ様々な顔を見せてくれるのは、たゆまず努力しているからだと思う。
次回がどのような音になっているかは、すごく楽しみ。


















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