これで弾くの何回目かなあ。
ベートーヴェンの「大公トリオ」
ベートーヴェンが公共の場で演奏したのは、これが最後の曲となった。
耳が聞こえなくなりはじめて他の人の音が聞こえず、ひどく乱暴な演奏となったために評判がわるかったそうで、それで引退となったのだろう。
耳が聞こえない不安感はいかほどのものだったかと、心底同情する。
それなのに、ちゃんと耳の聞こえる演奏者が相手の音を聞こうともしないという場合もあって、アンサンブルをするときはそういう人に悩まされる。
カルテットを弾いていて、ファーストヴァイオリンが間違えて1小節早く入ってしまったことがあった。
しかも本人はそのことに、気がついていないらしい。
1小節目と2小節目は同じ和音の繰り返しだから、間違えて入った様には聞こえないのが幸いだった。
その時私は第2ヴァイオリンを弾いていて、あっと思ってすぐに第1につけた。
チェロもすぐに気がついたのに、ヴィオラ奏者だけが悠々と我が道を行く。
和音が小節によって変わるので、音を聴いていればすぐにわかりそうなものなのに。
かなり先に行ってからやっと気がついたヴィオラさんは、ようやく本来の路線に戻ってくれたから事なきを得た。
その間数十小節。
どれほど周りを聞いていなかったのか、ということ。
全く意に介さないで、弾けるのも豪傑と言えるけれど。
ヴィオラ弾きはこういう性格だから、私はけっこう好きなのだ。
アンサンブルの練習では、まず相手の音を聴くことから始める。
だから初めての時には、自分の事がおろそかになってしまう。
聞き耳を立てて、相手のクセや演奏スタイルを感じ取る。
長年一緒に弾いている仲間たちは、その点安心して自分の事に専念できる。
誰がどうやっても、お互いにすぐに寄り添うことが出来る。
全く初めての人で、かなりユニークな演奏スタイルの人と弾く時には、馴れるまでは聴くことに専念する。
初めの内は、随分弾けないヴァイオリン弾きだなあと思われそう。
ようやく相手の観察が終ると、こちらもしゃしゃり出て行く。
その間の駆け引きが面白い。
色々な人がいて、様々な考え方があることが面白い。
気の合った仲間と弾くのもいいけれど、スッタモンダしながら新しい出会いを楽しんで、曲を作り上げるのも中々おつなもので。
自分も聞くけれど相手にも聞くことを要求するので、あんまり口やかましいものだから相手を萎縮させるのもしばしば。
立場が同じだといいけれど、かなり後輩だったりすると、なるべく優しく言ったつもりでも、相手はすくみ上がってしまう。
そのへんが時々やり過ぎて失敗する。
特に私は理詰めで畳みかけるので、ぐうの音もでなくなった相手に逃げられることも。
そんなことで今回の「大公トリオ」もピアニストが私よりもかなり若いから、言いすぎないようにと口にチャック。
チャックの隙間から文句がこぼれる。
口やかましい姑のような存在かもしれない。
それでも練習を重ねる毎に上手くなって、音色も曲想も変わってきた。
艱難辛苦汝を玉にす。
猫から文句を言われても、あまり有り難く聴く気はないかもしれないけれど。
と、偉そうに言って。
今日はこの後英語のレッスン。
何回教えられても発音を間違える私に、先生は呆れていると思う。
「ほら、なに聞いてるの。同じ事を何回も間違えて」とは言わないけれど。(私だったらそう言う)
ルース先生は私とちがって、すごく優しいのだ。
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