2018年7月1日日曜日

運命というもの

今しみじみと感じるのは運命というもの。
今回軽井沢でカニングハムさんの別荘と、それにゆかりのあるコンサートスペースを見つけた。
カニングハムさんは私がオーケストラに入りたいと思ったきっかけのコンサートの主催者。
彼女が生きていてお話が出来たら、貴女は私の恩人、運命を決めた人ですと言いたい。
それはもうかなわないけれど、そこに導かれて行った事自体が不思議なことだった。

私は人生は自分が切り開くものであって、決して他力本願のものではないとずっと思っていたけれど、最近その考えが変わった。
その人それぞれに人生は決まった流れがあると思うようになってきた。
私の親は私がヴァイオリンを弾くことを勧めなかったし、むしろ反対されてきた。
もうヴァイオリンはやめなさいと何回言われたことか。
自分でも他の人より遅すぎる時期に始めたことで、ハンディは半端でなく、学生時代はそこそこの成績。
それなのに周りの協力体制がすごくて、次々にチャンスを与えられてがむしゃらに勉強したおかげで、この歳に至るまで演奏が継続出来ている。
これは私一人だったら到底できなかったことで、今でも励まされ慰められ弾かされているのが現実。
もし周りの人達がいなかったら、私のヴァイオリンは良い趣味として嫁入り道具の1つになっていたかもしれない。

もし中学校の同級生にヴァイオリンをやっている人がいなかったら、音大付属高校を受験することも思いつかなかった。
Tさんという同級生は田園調布にある中学校の近くに住んでいた。
学校の登下校のとき彼女の家の側を通ると、時々ヴァイオリンの音が聞こえた。
私がヴァイオリンを習っていると聞きつけて、一緒に受験しようと誘ってきた。
中学校はエスカレータ式に上まで行けるので、のんびりと受験知らずで行けるはずだった。
学校側は音大付属高校受験には好意的で、受験に失敗したら戻っておいでというスタンスで、安心して受験できた。
二人で高校を受けて二人で大学卒業し、その後もいまだにお付き合いがある。
彼女は群馬県に嫁いで、今はその地でヴァイオリンを教えている。

音大ではオーケストラの指導教授に大変可愛がられ、私が音大に残るかオーケストラを受けるか、大学側とオーケストラ側で水面下の交渉があったと、あとで聞かされた。
ところが最後の卒業試験で私がミスをして専攻科に残れず、結局オーケストラ側に引き渡され入団テストを受けた。
負け惜しみでなく、これは幸運だったと思う。
あのまま大学で人に教えていたらとんでもないことをやっていたに違いない。
未熟な音楽家のまま偉そうになってしまったかもしれない。
もちろん今でも未熟ですけど。

母は私が音大に行くのは賛成ではないけれど、自分の子供が一生懸命やることを邪魔することはなかった。
だからといって母が亡くなるまで音楽家業を認めはしなかった。
オーケストラの演奏会にも一度も来たことはない。
初台のリサイタルホールでの私のコンサートのときに、聴いてくれた叔母が「お母さんが生きていたら喜んだでしょうに」と言ったけれど、そんなことはなかったと思う。
「これで気が済んだでしょう?もうやめなさい」と言うに決まっている。
母が私のヴァイオリンに積極的に関わっていたら、私は反発してやめていた可能性もあるから、もしかしたら母の掌で転がされていたのかもしれない。
それも1つの可能性としてありうることで。

それでも母以外の人たちは、いつでも私に勉強の機会を与え続けてくれた。
決して飛び抜けて上手いとは言えない私に、国の内外を問わず素晴らしい演奏家と弾く機会を次々と作ってくれた友人たち。
様々な形での援助や励ましを受けることで、私はなんとか弾き続けている。
今回も積極的に軽井沢のコンサートのチャンスを後押ししてくれるY子さんと、私達の気のいい仲間たち、北軽井沢ミュージックホールのサポーターズがチャンスを広げてくれている。
Y子さんは近くの美術館にも当たって、いくつかの候補が出来た。
美術館側と具体的に話し合った結果、これらの美術館でも来年のコンサートが実現するかもしれないので、乞うご期待!

すべての人と事が今の自分の中にジグソーパズルのように当てはめられてこんにちがある。
私が幸運の分流に乗れたのは、周りの人達のおかげと、感謝あるのみ。
さ~てと・・・ゲームばかりやっていないで、そろそろ夏に向けて準備をしないと。
暑すぎてナメクジのように溶けていますので。



















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