元実家のあったところに住む兄は、一族のとりまとめ役を自認しているらしく、昼食会を開いてくれる。
長姉が他界して今は5人兄弟になった。
それぞれの子供達は家庭を持って独立しているし、兄も年をとってきて、私たちとの昔話は楽しいらしい。
話題も毎年ほぼ同じ。
父や母の知られざる一面をこの兄からきかされて、私の知っている両親の思い出と重なってたいそう興味深い。
ルーツが気になるらしく、一族の家系図などを作成して配ったりしている。
三代前くらいまでは信用出来るとしても、江戸時代に遡るともう半信半疑だから、私はほとんど興味はないけれど、家長たる兄としてはなにか形が欲しいようだ。
毎年マンネリになっているけれど、こうやって集まって何回も同じ話をして・・・これが家族の形となっている。
兄が掛川に単身赴任していたときに、狸に餌付けをした話はいつもの話題。
そう言えば話している兄は、狸そっくり。
よほど狸が気に入っていたと見えて、その話は毎度出る。
今日は車の話で盛り上がった。
我が家には私が小学生の頃から、車があった。
そのころ自家用車を持っている家は殆どなくて、これは我が家が金持ちだったという自慢ではなく、子だくさんで貧乏にあえいでいながらも、父が新らし物好きだったという話。
父は元々器械屋さんで、戦中は発明協会などに勤務していたから、器械類や車などはどこからか中古品を見つけては買っていたらしい。
最初の車がフィアット?
もの凄い真っ青な車で、なんとクランクでエンジンをかけていた。
クランクというのは、要するに鈎の手に曲がった金属の棒をフロントの穴に入れてグインと回すとエンジンがかかる仕組み。
この車がしょっちゅうエンストする。
交差点の真ん中でエンストすると、車を降りてクランクをまわすのだが、焦ると中々エンジンがかからない。
それでも当時は車も少なく、ポンコツの車が多かったから、クラクションを鳴らされずに済んだけれど、なぜか父は私を乗せて走りたがる。
エンストすると恥ずかしくて、助手席で小さくなっていた。
次がシトロエン?
これは中々素敵な車だったけれど、やはり相当な骨董品だった。
その次も外車でどこのメーカーか忘れたけれど、やはりフィアットだったか天井が開く車で、これは私のお気に入りだった。
暫くすると日本車も良いものが出はじめて、日産セドリックがやってきた。
この頃私は免許を取ったばかり、初めてのドライブで兄を助手席に乗せて家の周りを回っていると、片方の車線がガラガラで車が来ない。
それで追い越しをかけようと、そちらの車線に出ると助手席の兄が大声で「やめろ~」と喚いている。
だって、誰も走ってないじゃないと言いながら走って行ったら前方は踏切で遮断機が下りていた。
どうりで車がこないわけだ。
反対車線を走っていたので、兄が窓を開けて車の列に手を合わせてやっと入れてもらった。
私にはセドリックは、大き過ぎる車だった。
当時はハンドルを上下したり、シートをスライドしたりする装置はなかったから、小さい私は座蒲団を敷いてステアリングの輪の中から外を見ていた。
それで外からは運転手が見えない。
無人自動車のようだと言われた。
それは父の車だったから、自分の車が欲しくなって買ったのが真っ赤なトヨタパブリカ。
これも今は知っている人は少ないと思うけれど、空冷の軽。
その後すぐに初代カローラが発表されて、試乗に行って気に入って買ってしまった。
そのカローラは走行距離10万キロを軽く越え、ドアが腐って落ちそうになるまで乗りつぶした。
それから10台ちかい車を乗りつぶしたけれど、このカローラは格別愛着があって、今でも九州の山路でスカイラインと抜きつ抜かれつして走ったことなど、懐かしく思い出す。
父親似の私はやはり車大好き。
今思うと私はいつも、父親の傍に居たような気がする。
父は私に頻繁に、お土産を買ってきてくれた。
病気で寝込むと、必ず枕元に新しい本が置いてあった。
それが、子だくさんでお金の苦労ばかりしている母の、逆鱗に触れていた。
カローラを買う時、父は喜んで、母は心配していた。
性格が会わない両親だったけれど、どちらからも沢山の愛情を注いでもらった。
この季節いつも思い出すこと。
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