2013年5月8日水曜日

新緑に寄す

ケアハウスの中での小さなコンサート。一昨年の春から時々訪問演奏をしている。ピアニストのSさん、ヴィオラのFUMIKOさんと私の3人組。春、秋、クリスマスの頃と季節の変わり目毎にテーマを決めて、それに合った曲目を持って行く。今日は新緑の美しい季節に合う、元気になる曲を取りそろえた。木々に囲まれた中にハウスがあって、大きな窓からあざやかな緑が目を楽しませてくれる。今日は特にお天気も良くて暖かく、弾く方も聴くほうも元気いっぱい。皮切りはハイドン「トリオ」クライスラー「愛の喜び」「愛の悲しみ」ショパン「ノクターン」「子犬のワルツ」ヘンデル/ハルボルセン「パッサカリア」ピアソラ「リベルタンゴ」モンティ「チャルダッシュ」アンコールは「浜辺の歌」
コンサートが終わって、会場に来られなかった人の部屋で短い曲を弾いた。まだ若く美しいその女性は、体中が痛く起き上がることが出来ない。ベッドの足下で弾き始めると涙を流して聴いていた。突然の依頼だったので限られた曲しか出来なかったが、こうとわかっていれば色々用意をしてきたものを。次回はこのひとのためになにか優しい曲で伴奏のいらないものを用意しなければ。帰りしなに手を出して握手をすると、細くて白い手は意外に温かく、早く良くなって再会を果たせるように祈った。
最近よく人の生き死にについて考える。もし今私が死んだら・・・もっと長く生きているのも、今死ぬのも幸せのスケールは変わらない。長く生きるから幸せとは限らない。死んだ人を悼むのは残った人のためであり、死んだ当人はそれが不幸であるとは限らない、というようなことを。生き生きと萌える新緑も秋になれば落ち葉となって散っていく。それは死ぬように見えても、次の春のための準備なのだ。人の死は転生するかどうかは知らないが、少なくとも大きな人類の輪から見れば、個人の死は落ち葉のひとひらのようなもの。私にとって「死とは?」は子供の頃からの命題だった。子供の頃は眠りにつく前にいつも布団の中で、「死ぬってどういうこと」か考えていた。今は布団に入った途端に熟睡するから考える暇もない。してみると私に限って、幼少時の方が哲学的だったのだ。成長するどころか、私はずっと退行しているらしい。残念ながら。

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