運命はこのように戸を叩く。ダダダダーン。世界中の人が知っている交響曲「運命」を生まれて初めてプロのオーケストラで弾いたときの指揮者は故近衛秀麿氏だった。中学生の時から「朝日ジュニアオーケストラ」で弾いていて、コンサートもよく聴きにいっていたから将来はオーケストラに入りたいと思っていた。それでも音楽的な環境の家ではなかったので、基礎的な勉強はさせてもらえなかった。母は歌舞音曲などを選ぶなんてとおかんむりで絶対にサポートしてもらえず、私はなんの知識もなく一人で勉強するしかなかった。勝手に願書を出して奇跡的に音大付属高校に合格してしまったので、母はますます慌てて、それでも子供の自主性は尊重していつか真っ当な道にすすむことを願っていた。大学進学の時にも普通の大学に進むようにと、しきりに言っていた。気の毒だが私は音楽街道をまっしぐら。それでも今きちんと自立出来るのも、ヴァイオリンを弾いていたお陰と自負している。オーケストラは中学生の時に演奏を聴いて感動してここに入ると勝手に決めた東京交響楽団。おそろしいことに夢は実現してしまった。そして久々に「運命」を聴いて思い出したこと。
近衛秀麿さんは楽団員から愛情を込めて「おやかた」と呼ばれていた。指揮が分からないということでも有名で、初めて運命の冒頭を振り下ろされたときにはどこで音を出したらいいのか分からない。ひとしきり壁塗りのように腕を振り回したあと、一番下に下がった処で音が出た。はあー!こういうものなのかと感心した。よく皆出られるものだ。しかし馴れてくるとこれほど純粋で分りやすい指揮はないと思えるほどになってきた。皆、分からないと言うけれど私はすごく良く分かるようになって、近衛さんの時は非常に楽しかった。やはり分りにくいと有名な山田一雄さん。「やまかず」と呼ばれどこのオーケストラの人たちからも愛された大御所だった。やまかずさんのときには楽員もにこにこしているが、困ったことにおそらくちゃんと振れるのにそうしない。彼は棒なんかどうでも音楽はわかるでしょう?というつもりだったのだと思う。あるときメシアンの曲をやっていて団員から苦情が出た。するとやまかずさんは「じゃあ、こう振ればいいの?」と言ってきちんと振ったので皆驚いた。それでも次の日にはもとに戻ってしまっていた。けっきょく棒のテクニックでなく、音楽をわかっていれば演奏は出来ると考えていたのだろう。ステージから落ちたり、指揮台にヒラリと飛び乗って勢い余って飛び越えてチェロの前に着地したり、この手のエピソードには事欠かない。
お二人は棒を振っていたのではなくて、音楽を表現していたのだと今にしてようやく理解できる。いやしくもプロのオケマンは棒を逐一見るのではなく、音楽を感じて自主的に弾くものなのだ。晩年のカール・ベームが「フィガロ」を指揮しているのを見て、ウイーンフィルのメンバーがあれでよく弾けるものだと思ったが、指揮者はメトロノームではなく表現者なのだと思って自分から積極的に音楽を同化させていけばいい。
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