2010年12月12日日曜日
富士山
東名高速道路を走っていると、今日は真っ白な富士山に出会った。私は信心深いほうではないけれど、山には神々しさを感じる。人間が上へ上へと上って行くようになって、征服されていない山はほとんどないと思うけれど、本当はそんなことをしないで、下から恭しく眺めているのが一番良いのだと思う。一時期瞑想にはまっていて、テクニックを身に付けたことがあった。やはり効果はすばらしく、感覚が研ぎ澄まされ、幸福感に満ち溢れた時期があった。そのころ月山に夏スキーに行ったとき、自分の魂が自分の頭の上を漂っているような、そんな幸せな感覚でリフトに乗り頂上付近に近付いた。突然自分には及びも付かない大きな力を感じて、思わずリフトから飛び降りて地面にひれ伏したくなった。それまでのフワフワした安っぽい幸福感は掻き消えた。ほんの少し修行したからと言って、本当のパワーが身に付くわけはない、そんなことを言われたような気がして、たぶん顔青ざめていたことだろう。その後も瞑想は続けていたけれど、今はもうすっかりやめてしまった。やればいい効果が出るのはわかっていても、月山に住む荒ぶる神の前にひれ伏した記憶がよみがえると、自分の小ささ、いい加減さを思い知らされる。本当は瞑想は宗教も人も自然も超越したものにならなければいけない。その境地にまで行かれれば、本物になる。ちゃらんぽらんに多少齧っただけで、本物になれるはずがない。もしそこまで到達した人がいたなら、その人はモーツァルトになれる人だと思う。凡人にとっては、そんな大それた大物になるより、小物でいるほうがそこそこ幸せに生活できるところに落ち着く。ありふれた人生もまた良し。でも瞑想はお勧めしたい。あのシーンと澄み切った世界を思い出すと、いつか又はじめようとおもっている。
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