2024年12月10日火曜日

平和な日々

9月に引退宣言をして呑気な日々を送っています。しかし毎日が緊張に次ぐ緊張の生活が一変してしまうと、どうもボケが加速しているようでだんだん心配になる。私の内なる声がヴァイオリンを弾きなさいと囁く。

まず手の指が油切れになって関節がギクシャクしてきた。肩が固くなって きた。姿勢を保つのが大変。常に背筋を伸ばすのは楽器を弾いている間はなんでもないけれど、テレビを見ているとだらしなく椅子の背もたれによりかかり、ああ、つまらないことなどと思いながらの数時間。時間がもったいないと思う反面、普通だったらこの年でこれほど健康ならそれだけでも御の字と自分に言い聞かせる。こうして一日は暮れて行く。

野良猫だったのんちゃんがどんどん家猫らしくなり、私と一緒にのんびりツヤツヤ。緊張が溶けてきた。今まで外でどれほどの苦労をしてきたかと思うと可哀想でならない。それでも野良にしては地域猫として毎日の餌も不自由しないで生きられたのはラッキーだったのではないかと思う。

のんちゃんは非常に頭がいい。猫でも知能の高い気の強いものが生き延びられるようで、これは人間社会でも同じ。のんちゃんが人の心を読み取る術は恐ろしいほど。それが彼女に野生猫の魅力を与えていた。しかし今や安穏に慣れて、大きな搗きたてのお餅のようになってしまった。私も同じようにだらしなく広がっているような気がする。

そんなことでだんだん退屈になってきたので海外旅行にでも行ってみたいと思うことしきり。今知人が海外に行っている。私の姪とその娘が今頃ニューヨークで自由の女神とはじめましてと挨拶しているかも、軽井沢在住のY子さんはエジプトへ。みなさんこの円安のさなかに大したものです。どこへ行きたいかと尋ねられても困るのほどアテもない。

本当にこんな平和な日が私に来るとは思わなかった。退屈と言ったら罰が当たる。少し休ませてもらいましょう。休むとなると徹底的に何もしないけれど、家の中が少しだけきれいになってきた。「これできれい?」と驚かれるかもしれないけど、これでも精一杯なのよ。

海外はどこに行きたいかといっても目的はないけれど、非常に自然の厳しいところに行きたい。この年で一人参加は旅行社のツアーでうけいれてもらえるのかどうか。以前チベットへ行ったときには中国の旅行社に手紙を出して一人でいった。ガイドさんと車付きだから費用はかかったけれどわがままに行けた。現地人とも思う存分触れ合えた。中国人の家庭の誕生日のお祝いにも招かれて、彼の国の知識人階級がたいそう洗練されていることも知った。今の円安では費用が跳ね上がるけれど、個人旅行が一番望ましいところ。

ツアーで参加しても途中で一人になりたくなる癖があって、顰蹙ものと非難される。若い頃イタリアに女子4人でいったときは、皆一人になりたいという人で助かった。途中、ミラノで一人で靴屋巡り。どうしてもサイズが合わなくて買えず本当に残念だったけれど、向こうの店員さんがとても親切で時間をかけてつきあってくれたのには感激した。壮大な教会の直ぐ側に素晴らしいステンドグラスがある小さな教会を見つけた。暗いろうそくだけの照明の穴蔵のような建物。それも一人で気ままに探さないと出会えなかったと思う。

こうやってだんだんやる気が出てくるのを私は待つ。決して勤勉な人間ではないので向こうから訪れるのを待っていると、不思議なことに何事もうまくいくのだった。

春になったら飛び歩いて自宅にはいないかも。その時のんちゃんをどうするか考えている。もともと野良だから放っておいても一人でも生きられるけれど、私は裏切り者とみなされるだろう。ホテルぐらしは彼女にとって最悪だし、近所の猫好きさんたちに頼むしかない。

地域猫排除の話がもちあがったときに、近所のお兄さんが、自分がすべての責任を持つと言って地域猫受け入れの方向に持っていってくれた。こういう人がいてくれて最近は安心していられるけれど、まだまだ猫の受難話を聞くことが多い。

でも猫のことで悩むだけの日々は本当に平和なのだ。








2024年12月5日木曜日

素晴らしい音の世界

ヴォルフガング・ダヴィッドさんと梯剛之さんのデュオ ・リサイタル

東京文化会館小ホールにて

毎回聞かせていただいているが、今回は圧巻のステージだった。最初から最後まで息のピッタリあった素晴らしいアンサンブル、ダヴィッドさんのウイーン魂が炸裂。今にもヴァイオリンを弾きながら踊りだすのではないか、いや、実際踊っていたけれど喜びに溢れた演奏で会場中の人々の心を捉えて離さない。梯さんはソロコンサートもよく聞かせていただくけれど、今回もまた磨き抜かれた音色を堪能した。

プログラム 

 モーツァルト;ソナタK.378

 ディートリッヒ/シューマン/ブラームス;FEAソナタ 

 私はこの曲を初めて聴いたけれど、周りの人たちも聽いたことがないと言っていたので、自分がすごく無知と言うわけではないと安心した。

FEAというのはドイツ語の Frei aber einsam (自由にしかし孤独に)の頭文字をとったものだそうで、この作品を献呈された19世紀の大ヴァイオリニストのヨアヒムの口癖だったという。ブラームスのヴァイオリン協奏曲を初演するほど親交の深かったヨアヒムが仲を取り持ち、ブラームスは初めてシューマン家を訪れた。シューマンはブラームスの才能を高く評価し、ヨアヒムのためにシューマン自身とブラームスの弟子のアルベルト・ディートリッヒ、そしてブラームスの3人の合作によるソナタの作曲を提案した。という経緯がプログラムにかかれている。

私は初めて聴いたので最初の音で「あ、ブラームスだ」と思ったのは間違いで、彼のお弟子さんのディートリッヒが第1楽章を、2・3楽章はシューマンが、そして4楽章はブラームスが作曲した。名前を伏せていたけれどヨアヒムはすぐにどの楽章が誰の作品か当てたという。初演のピアノはクララ・シューマンが弾いたそうで、夢のようなお話し。彼らの演奏を聴きたかったなあ。随所にFAE(ファ・ラ・ミ)の音が用いられている。

初めて聞いたけれど本当に素敵な曲だった。なぜこの曲は頻繁に演奏されないのだろうか?早速楽譜を探そう。作曲家同士の親交は聞くだけでワクワクする。当時の作曲家同士は、私が思っているよりもずっとひんぱんに交際していたらしい。お互いに刺激を得て、作曲技術を切磋琢磨したのだろう。

次は シューベルト:ピアノとヴァイオリンのためのロンド

 バルトーク;ルーマニア民族舞曲

 クライスラー;ウイーン風l狂想的幻想曲  ここまで来るとダヴィッドさんのお家芸、彼も楽器も弓も梯さんも客席も踊る踊る!割れんばかりの拍手でコンサートが終了した。

帰りがけにマネージメントオフィスのスタッフが「彼らは昨日、石川県の白山から帰ってきたばかりなんですよ」え、白山?私が素晴らしいパワーを貰ったあの勝山市の平泉寺に近いではないか。道理ですごい迫力だと思った。

私も今迄で一番つらい時期に福井県の勝山市に行った後、ジグゾーパズルのピースが適所にピタリとハマるように問題が解決し始めた不思議な体験をした。あのへん全体が霊的な雰囲気を漂わせている。北陸はすごい!

パワースポットって本当にあるのだと思った。

コンサートからの帰り道、一緒に帰る電車の中でも友人とニコニコが止まらない。「なんだか体がホカホカするわね」「そうねえ」








2024年11月25日月曜日

暑い夏につかまって

 知人の納骨のために暑いさなか隅田川を渡っての墓参りの帰り道、悲しい思い出にふけって多少涙ぐんでいたからだと思う。信号無視で捕まった。

東京駅から右折して日比谷通りに至るまでの信号が3つか4つ、1つ目は直進と左折の矢印が同時に出る。しかし2つ目か3つ目の信号機だけ直進が青でも左折の矢印が出ない。日曜日の昼過ぎで他に車がいなかったこともあって気が付かなかった。もちろん一回ごとにちゃんと信号を見ないといけないのはわかっているけれど、心が塞いでいてなんとなく。これが事故の元だということもわかっている。普段の私なら絶対に見逃さない・・・と思う。

左折を始める前に対角線上にパトカーがいるのも目の角で見ていた。しかし左折を終わるとパトカーが動き出した。私の後ろについて走ってくる。自覚症状のない私は平行に並ばれても、なんでこんなに一緒に走っているのか不思議だった。他に車もいないのに馴れ馴れしく呼びかけてくる。「そこの車停まってください」

おそらく相手もわかっていたと思うけれど、故意ではなく不注意ということが。穏やかに丁寧に呼びかけてくるのでやっと気がついた。「え、私?」鼻先を指さして窓越しに見るとのんびりと頷くおまわりさん。「そこの信号は直進だけで左折はあとから出るんですよ」全く同じような交差点の一つだけ違う出方をするなんて。何ゆえじゃよ!

多分引っかかる人がたくさんいるのだろう。巣の中の蜘蛛のように待っていれば獲物がとれるのだ。パトカーが停まっている時点で気がつかなければド素人。運転歴59年の私がまんまと捕まった一番つまらない捕まり方だった。それで今日は運転免許センターで講習と実技試験を受ける羽目となった。来年免許証の更新ための罰ゲームみたいなもの。

時間が来て集まったのが10人ほど。これがみんな違反者なのかしら。4年ほど前の更新の普通の教習のときよりも多少元気がよろしい人が多い。普通のときにはトイレに行ったまま自分の部屋がわからなくなったとか、歩くのもやっとで大丈夫かしらと思う人がたくさんいた。たぶんそういう人はとっくに免許を返納しているものと思える。もはや違反すらできないとか。

本当にドキドキした。もしこの教習で落とされたら何回も試験を受けて、それでも無理となったらもう免許はもらえない。すると猫を連れて北軽井沢に行くこともできなくなる。せっかく猫の部屋を作ってもらったのに無駄になってしまう。

まずはいつもの認知機能のテスト。これはもう3回目だから手慣れたもの。そして実車テスト。前回のテストでは慎重に走ったら遅すぎると言われたから、今回は景気よく多少やりすぎかと思うほどシャカシャカ走ったら早すぎると言われた。それも認知機能の衰えからくるコントロール失調みたいな言われ方。口を尖らせて前回言われたことでそうなったと抗議しようと思ったけれど、やめておいた。

結果としては良い点数をもらえたけれど、その後の視力検査がいけません。視力、動体視力、暗さに対する順応性などは今までより衰えている。やはり年齢には抗えない。

メガネで矯正できる部分が少ないことも残念で、さてどこまで運転できるか未知数。運転大好きな私が運転しなくなる日はもうすぐそこに迫っている。多くのことを次々に諦めることしかできないなんて。

女性の受験者は二人。試験後にお昼食べて帰りましょうと、どちらかともなく誘って話をしていた。お仕事は?などといううちに私がヴァイオリン弾きだというと非常に喜んで「私のいとこがミュージシャンで富山の滑川のあるグループのヴォーカルなの」と話が弾む。

そのうちに私の元生徒だった女性が某ヴァイオリン奏者が好きで、彼女は彼の側にいたいために舞台関係のスタッフとして働いているというと、その人は喜んで、実は私もその人が大好きでよく聴きに行くと。本当に世の中せまい。おばさん同士はあっという間にコミュニケーションが取れるのにおじさんたちは皆ブスッとして、てんでんばらばらに散っていった。
















2024年11月1日金曜日

何もしない日々

きちんと眠れるのは通常3時間ほど。あとは昼寝やうたた寝で体力維持の穴埋めをする。時々泥のように眠っても5時間ほど。ショートスリーパーだった私はそんな生活を何十年か続けてきた。仕事にも友人にも恵まれて幸せだったけれど、常に緊張した毎日。たいてい1年半以上先まで仕事の予定が詰まっていた。なんとありがたいことだったかとは思うけれど、気の休まることがなく、常にイライラしていた。

なんにも予定のない生活に憧れてやっと手に入れた。このところ全く目的なく行動している。時々コンサートを聴きにいくだけ。ヴァイオリンはレッスンのときに生徒さんと一緒に弾くだけ。こんな気楽なことはない。9月の古典音楽協会の定期演奏会が終り、私は引退宣言をしてプロとしての演奏をやめた。

さてなにかおもしろいことはないかと思ったけれど、みつからない。いままで送ってきた生活のなんと面白かったことか!結局一番自分の好きなことを仕事にできていたのだと感謝している。それならなぜやめるのかというと、やはり年令による体の機能と気力の低下。ここ数年の合奏団の存続に向けての一連の事件があってそのストレスが私を半病人にしたのだった。

今の私はもう何ものにも煩わされることなく、一日7.8時間眠眠る平和な日々を送っている。元気な私を見て「まだまだできるんじゃない?」「もう少しやったらどう?」などとご親切に言ってくださる人も。でも自分のことは自分がよくわかっております。

それで、ぼんやりとテレビを見ているとここ最近は大谷翔平選手のことばかり。いくら彼が稀代の名選手と言ってもあまりにも偏った報道は困ったもの。政治家の裏金問題、選挙、犯罪の多発があろうと一向に野球から離れられない。日本人全員野球ファンではないし、翔平君が一人で野球をしているわけでもないし、彼が一人でドジャースを優勝に導いたわけでもない。本当にすごいと思っても、世界の数多の優秀な人の一人であるというだけ。

今まさに戦争が起こるかどうかかたずをのんでいる国々の人達がいるのに、日本だけはまるで自分たちがゲームの優勝を導いた如く大騒ぎをしている。ニューヨークヤンキースの選手たちは日本人の熱気に負けたのではないかと思うほどなのだ。ちょっとひどすぎませんかね。などと考えている。決して大谷さんに憤っているのではない、彼は本当にすごい。マスコミのバカバカしさに・・・あるいは非常な大金が儲かるこういうゲームにも疑問符が浮かぶ。地球の温暖化にも関係があるでしょう。莫大なエネルギーを使い、大金が儲かるにしてもバカバカしいほどのムダ遣い。

地上で飢えと差別と戦いに苦しむ人達のことを考えると、自分が平和でいることすら罪悪感が湧いてくる。私は生まれて初めて、残された人生をだれかを助けるために使いたいと思う気持ちになっている。今のところ猫社会にわずかに貢献しているだけなのだが・・・

今や私にはいくらでも眠れる自由と、眠らなくてもいい自由がある。今夜はドジャースの凱旋パレードが日本時間の午前3時からあるらしい。中継があるならずっと起きていてテレビを見たい。やはり私もすっかり毒されているのです。






はとかんさんんのこと

 今後のより良い人生のために模索中。

ブログつながりの知人のWさんの宅に押しかけてお話を聽くことになった。彼女となぜ知り合いになったかというと、私の恩人であるヴァイオリニストの故鳩山寛さん繋がりによる。nekotamaに彼の話題を投稿したのはこのブログを始めた頃。オーケストラ時代の思い出などを書き込んでいたら、ある時鳩山さんのことでというメールだったか書き込みだったかいただいたのだと思う。

鳩山さんは沖縄出身で、お父様の遠山寛賢さんとその夫人靜枝さんの教育により天才ヴァイオリン奏者として日本の楽壇に登場した。幼少時代は台湾の台北で幼稚園の経営者であったご両親のもと何不自由なく育ち、ご両親の音楽的環境もあって才能を育んできた。ご両親も実に教育熱心で特にお母様の考えが進歩的だった。お父様はひろし少年のためならどんな苦労も厭わなかった。

「はとかんさん」後にオーケストラでお世話になった頃は業界ではそう呼ばれていたから以後、この名称で呼ばせていただく。

お父様は様々な場面ではとかんさんを世に出すための行動を起こされている。10歳のときには上野音楽学校に連れて行き教授たちの前で演奏させて彼らの称賛を浴びる。体に合わない大人用の汚い楽器を見た外国人教師が嘲笑したというが、演奏が終わると彼らは静まり返ったという。12歳で第5回毎日音楽コンクール一位、もちろん歴代最年少であった。天才少年と言われ、ボストンの音楽大学へ留学、近衛秀麿氏のオーケストラのコンサートマスターを務めた。近衛家と総理大臣を生んだ鳩山家の援助を受けて華々しい活躍をした。様々な経緯から遠山姓を鳩山姓に変わり、以後「はとかんさん」と呼ばれることになる。

わたしがオーケストラのオーディションを受けたのは音大を卒業してまもなく。ベートーヴェンの協奏曲を弾き、初見に出された曲はバッハの組曲のヴァイオリンパートだった。実は高校時代からすでに京浜フィルハーモニーというバロック音楽の研究会のようなところで弾いていたので初見の楽譜もなんなく演奏できてめでたく合格。

初めて団員として上野の東京文化会館の控室のロビーでウロウロしていた私に、にこやかに近寄ってきたおじさん、それがはとかんさんだった。「あんた楽器はなに?いい音してたね」それが最初の出会い。その後はかれがハイドンの弦楽四重奏の連続演奏を試みていた頃、何回か出演察させていただいた。「あんた、私の右腕になりなさい」あるときそう言われて様々な演奏会にほとんど出していただいた。

その頃オーケストラでは世代交代が始まっていて、戦後の日本のヴァイオリン界は戦前のそれとは大違い。たくさんの優秀な人材が輩出しており、はとかんさんが天才的なヴァイオリン奏者ということも話題から埋もれてしまいそうな頃だった。しかも沖縄、台北などで育ち、性格がおおらかで何事にも我関せず、アメリカ生活が身についてしまってハッキリ物を言う。日本的な忖度や遠慮などない性格が反感を買うことも多かった。彼をひどく嫌う人もいた。しかしそれはとんでもないことで、彼が当時すでに日本の業界から少しずつ外れ始めていたというだけで、主流におもねる人たちの偏見以外のなにものでもない。

ある時渋谷公会堂の前にサングラス、アロハ、麦わら帽子の出で立ちで座っているおじさんがいた。私が通ると大声で「ホウー」と奇声を上げてニコニコと手を振っている。やだ変な人と思ったら、はとかんさんだった。臆面もなくいい年してそういうことを無邪気にやるから困るのだ。

ある時電話があった。いつにもなく悲痛な声で「僕はもうだめだよ、さようなら、さようなら」それが最後だった。

彼のお嬢さんのご自宅に一緒にお悔やみに行ったのは、前述ブログ仲間のWさん。彼女は台湾の大学で教えておられた父上と大学生だった兄上と幼少期を台湾で過ごされた。台湾育ちの音楽家として、はとかんさんに興味を持たれ、nekotamaに鳩山さんのお名前を見つけた。そのつながりで後に古典音楽協会のコンサートに毎回来てくださるようになった。Wさんのブログに垣間見られる知識の豊富さに今回最後の演奏を終えた私の、今後の知識の泉になってくださる期待を持っているのです。















2024年10月18日金曜日

おお忙しい

一昨日は高校のクラス会、昨日は雪雀連の集まり、今日はコンサートと大忙し。

引退宣言してこれからは家の片付け、より良い終末期を迎えるための 準備にと思っていたけれど、私の機嫌がだんだん良くなるにつれて、また人が集まってきて浮かれ騒いでいる。掃除どころではない。どうやら私は招き猫。一生遊びの仲間には事欠きそうもないらしい。忘年会にリコーダーアンサンブルをという計画になって、さて、家のリコーダーはどこに?見つかるわけはないと思うから買いに行かねば。

遊びをせんとや生まれけむ・・・憶良のうたは常に私の頭の隅に陣取っている。真面目な日本人は遊ぶことに罪悪感があるらしい。真面目に議論しているときに少しでもふざけようものならハッシと睨まれる。緊張に風穴を開ける行為は罪らしい。一瞬の笑いが凍りつくような視線を浴びることもある。とかくこの世は住みにくい・・・と漱石さんも言っているではないか。

コンサートは鹿野由之さん(バス歌手)のリサイタル。友人に誘われて初めて聴きに行った。銀座三越の裏手の王子ホールは満員。コンサートが始まる前の客席は、普段私達が聞きに行くような雰囲気とは少し違って賑やかだった。さすが声楽家の集まりは声量と歯切れが違う。誰の声も「よく聞こえるから内緒話ができないの」と声楽家の友達が言う。

プログラムを見れば私の大好きな曲がズラリ。舌なめずりをしながら待ち構えていると、立派な風貌の男性が登場。その歩き方や胸の張り方が堂々としていて、さすが長年オペラの舞台で人びとを魅了してきたスターの貫禄。声を出すと驚いた。声の質の素晴らしさ声量の豊かさは、日本人離れしている。こんな人がいたなんて!

私は第二次大戦後の日本人歌手の気の毒なほどの体格の貧弱さ、発声の悪さを散々聞かされていたので、時代が悠かに変わってもこれほどの変化は期待していなかった。弦楽器もそうだけれど、今や日本人の演奏家は世界で通用という以上のレベルであろうと思われる。私の若い頃の声楽の発声は喉を詰めて振り絞ったような声、大げさなビブラートが笑いを誘った。ある時、スタジオで高名なテノール歌手の録音の仕事があって、始まると私は笑いを噛みしめるのに苦労した。自分のヴァイオリンは棚に上げてだけれど。

しかしその当時の声楽家たちは日本の貧しいレベルの技術に翻弄されて四苦八苦だったと思える。わたしたちの弦楽器もまた然り、管楽器に至ってはなおさら、ホルンはかならず音がひっくり返るレベル。それらの先人の苦労あってこその現在の世界的な演奏家の輩出なのだ。笑ってはいけない。よくぞここまでと思う。

鹿野さんの選んだのはモーツァルトとヴェルディ、フィガロ、魔笛、ドン・ジョバンニ、ああ幸せ。ナブッコ、マクベス、シモン・ボッカネグラ等々。圧倒的な声量が最後まで衰えない。これだけ良くぞ持ちこたえるものだ。

久しぶりに銀座にいけたのも嬉しかった。友人に会えたのも嬉しかった。コンサートの素晴らしさに酔いしれて幸せが戻ってきた時間があった。着ていく服がないと思って久しぶりに銀座で買い物しようかと思ったけれど我慢。それより日本橋で気に入ったメーカーの靴を探そうかと思ったけれど、それも我慢。そろそろムカデの本性を直さねば。最近靴を何十足か捨てた。本当にそのくらい履いていない靴がゴロゴロしていたので自分でびっくりした。一体いくらくらい無駄遣いしたのか。それだけあれば上等な服とコートとハンドバッグが揃う。

結局履くのは本当に足にあったものだけだから、その中の一部。長年お気に入りのスニーカーを履いていたら通りすがりのお姉さんに指さして笑われた。「わあ!レア物」ロゴマークが目立つので気がついたらしい。「これ?靴もレアだけど私はもっとレア物よ」といったら黙って気まずそうに逃げていった。十年穿こうが二十年使おうが私の勝手。友人たちだってもう七十年ものヴィンテージだわい。まいったか。




















2024年10月11日金曜日

今年もどんぐりの弾丸

北軽井沢のしんと静まり返った夜は、もののけが跋扈するのかもしれない。けれど数日前、夜中にいきなりドカンと屋根になにかあたったか、誰かが壁を叩いたかと思えるような音がして流石にびっくりした。窓という窓から家の周りを覗いて音の原因を確かめようとした。森は真っ暗。

もし、人がいたら怖いけれど、誰かがいる様子もなく一安心。一人暮らしの美女を狙っているならお生憎様、ここには恐ろしく気の強いアマゾネスがいるからお気を付けて。しかも化け猫と一緒だから噛みつかれたら大怪我するぞ。

家の玄関の真ん前に樹齢何年になるか数えられないほどの大木が立っている。元のこの家の持ち主、人形作家のノンちゃんのお気に入りだった。その大木に巻き付いて樹液を吸って生きてきた太いツタが数本あった。長年に亘りチュウチュウと大木の汁を吸って来たので、直径4,5センチもあろうかと思える太さで巻き付いていたのを私が根こそぎ退治したのだった。しっかり巻き付いていたので遙か上の方までは切り取れず、ぶら下がっていた。それが数年経って枯れて落ちてきたらしい。数本のうち一本だけ残してあとはみんな落ちてしまった。ああ、この音だったのかと思った。

朝ウッドデッキの落ち葉を掃いていたら風が吹くたびに身の回りにバラバラと弾丸のように落ちるどんぐり。この季節、森は賑やかな音で季節の移り変わりを教えてくれる。ここで胸を抑えて「ウーン、やられた」と演技しようかと思ったけれど、ひと気がないので無駄なことはやめた。あくまで観客がいなければやる気にならない。

ヴァイオリンも聴いてくれる人がいなければ練習する気になれない。そういうところが真の芸術家でないのがバレてしまう。せっかく楽器を持っていったのにサボりっぱなし。ノンちゃんは私のヴァイオリンが自分の家に響きわたることがうれしくて、この家を私に残してくれたのに。反省して努力いたしますよ、ノンちゃん(田畑純子さん)でもやっと引退したのだからしばらくはお休みをください。そのうち軽井沢に演奏拠点ができるかもしれない。森の木に語りかけながら弾けるようになるかな。

今回も4日間しか日がとれなかったので、大急ぎで庭仕事。いただいた球根がたくさんあったので馴れない作業、へっぴり腰でスコップで穴を掘る。手入れがされていなかった原始林を切り開いて作られた別荘地は、枯れ落ち葉が堆積して木の根っこがそこここに、地面が凸凹で掘りにくいし、まっすぐに並べて植えるのも一苦労。初日は雨で作業できなかったけれど、二日目は少し晴れ、気持ちの良い気温と風と、命の源のようなゆっくりした時間。

楽しく作業を終えてぐっすり眠ったその夜明けには、体中ミシミシと痛む。腰痛はするわ、足は攣ってしまうわで年齢を思い知らされた。それでも心地よい疲れは朗らかな気分を運んでくれる。一人でいてもなにか喋っている。猫はなんにも聞いてくれない。彼女は興味津々の森には出してもらえず、1日中ふてくされている。一度ハーネスを付けて散歩に連れ出そうとしたらくねくねと体をよじらせて、どうしてもハーネスを付けられなかった。

なんとかして森になれさせたいけれど、野生動物がいるので危険でもあるし。ただいま彼女の家を建設中。少し大きめのゴミ用ネットみたいな。今回の滞在中に何でも屋さんがセットしてくれた、なにやら居心地良さげな鳥小屋風。ここに私が入ろうかなと言ったら、作業を見に来た仲間たちがここでキャンプしたいと言っているそうで。人間に盗られないように、猫よ頑張れ!























2024年10月6日日曜日

野良の覚醒

昨夜、札幌から帰宅した。

 車が我が家の駐車場に入っていくと、野良が飛び出してきた。欣喜雀躍、狂喜乱舞、その後はしがみついてきて噛まれた。どうやら彼女の喜びの表現は噛むことにあるらしい。毛並みはつやつやしているし、お腹も空いていないようだけど、愛情に飢えていたらしい。多分地域猫用の餌場があってお腹だけは満たされるようだ。出かける前に近所の猫好きの家に挨拶に行ったのが功を奏していたのかもしれない。

家に入ったらもうベッタリと離れない。私の膝によじ登り、顔を胸に埋めてくる。こんなにうれしがられてまあ、どうしましょう。感情の激しいのんちゃんは感情がたかぶると噛む癖がある。爪を立ててくるのも困りもの。かなりポカポカと私に打たれても、なお噛み噛みが収まらない。「寂しかったの。辛かったの」と訴えかける。野良のときにはかけてもらえなかった優しさを知ってしまった猫は、私の留守の喪失感が半端なかったようだ。

落ち着いたのは次の日の朝、夜通し私のそばで眠り、やっと安心したようだった。可哀想に、どれほどの苦労を経験してきたのだろうか。気力も知恵も猫の世界では高水準にいるけれど、愛情には飢えていたらしい。今日は小雨模様で友猫たちも外出を控えているらしく、ほとんど外出をしない。被害者は私、ずっと膝をよじ登ってくる猫の爪が痛くて泣きたくなった。

コチャがいなくなって自分だけで私を独占できるのが嬉しいらしく、だんだん飼い猫の顔つきになってきた。

北軽井沢にのんちゃんの部屋ができる。野良の習性が直らずどうしても表に行きたがる。けれど森には野生動物がいっぱい。まだ熊には遭遇したことはないけれど、私がここに住みはじめるようになった頃までは「熊出没注意」の看板があったから、以前は出たのだろう。お化けもいるそうだけれど私はまだ遭遇したことがない。人っ子一人いない寂しい森にいると、お化けくらいいたほうが賑やかで良いと思うときもある。

別荘地の管理事務所のそばにピザのお店があって、そこのマスターが木工細工なども作ってくれる。お願いしたらすごく立派な猫小屋の設計図を持ってきた。しかしうちの野良には立派すぎるからもっと簡素にとお願いした。ゴミ集積場にあるあんなような簡単なネットを張ったものでいいのよというと何回か書き直して来た。

以前から表札を作ってほしいと何回も頼んでいるのに、いつも「今年中にはなんとか」と言いながらもう3年も経っている。やっと本当に作る気になったので、今度は本当にできるらしい。家の玄関脇にある掃き出し口を利用して、そこを猫用のドアにして室内とつなげる。外に出ると網が張ってある。地面は簀の子をおいて足が直接地面に触れないように、半分は砂を敷いてトイレに、掃除は手前の網が開く様になっていて、人間がそこから入って掃除をすることができる。

のんちゃんは今やもう我が家の一人娘。













2024年10月5日土曜日

北海道

姉の娘が札幌に居住しているが、まだ家に行ったことがないと姉がいうので、弥次喜多道中が始まった。私は姪のMが飼い始めた犬を見るのが目当て。ジャックラッセルテリア。私が飼いたいと思っていた犬種の長毛種らしい。旅の手配は長年の仕事での経験で馴れたものだから、さっそく旅のサイトでやすいツアーをさがす。秋の紅葉シーズン、北の国はさぞ紅葉が見事であろうと期待しながらパソコンにむかった。

あった、ん? なに?なんでこんなに安い?往復の飛行機、ホテル3泊、レンタカー付、これでエッというほどのやすさ。家でスーパーで買い物してうだうだ過ごしてもすぐにこのくらいの金額になってしまうから、ずっと旅していたほうが経済的。ただしウイークデーに限るけれど。

私はもっと長い旅がしたいけど、おいていかれる猫の、のんちゃんが可愛そう。姉も庭の植物が心配。だからこのくらいがちょうど良い。姪の家に泊まらないのは好き勝手できないからで、それなら観光は札幌周辺に限られてしまう。本当なら十勝岳や旭山動物園にもいきたいところだけど。しかし姉はもう87歳、あまり旅慣れてはいないしこのくらいがちょうどよい。

快適な飛行機の旅が始まった。空港に到着してレンタカーの営業所までの迎えの車に乗る。少しは肌寒いかと思ったけれど、半袖のシャツでも十分。借りた車はダイハツのなんとやらいう四角い小型車。最近の車はよく走るからまあ我慢しましょう。しかしこの車がよく走った。

ホテルはあの帽子を被った女性社長経営のホテル。このホテル、最近よく利用する。最初は外見にちょっと怯んだけれど、なに、寝るだけなんだからと思って泊まったらたいそう居心地が良い。ベッドは寝心地抜群。部屋には必要なもの以外何もなく徹底的に無駄を省いている。それは女性社長の視点からなのか、とても共感できるところがある。

長期滞在ならまだしも数泊で観光をしていればこれで十分。ツインルームは十分な広さもあり、しかも姉も私も寝付きが良く、相手が何をしていようと眠れる。物価高騰の昨今にはこの廉価はありがたい。朝食はこれでもかというほどの種類の料理が提供される。昔ながらのホテルの静かな朝ご飯を望む人ならちょっと怯むと思うほどの人混み。時々朝ご飯に贅沢をしたいときには私はホテルの朝食を食べに行く。けれど、お腹が満たされていれば十分で、さっさと観光したければこれで結構。

車もよく走る。山道もなんなく走れる。ただ私の体型にはすべてのものが大きくて、運転席の背もたれの後ろになにか挟まないとアクセルやブレーキに足が届かない。

初日は姪の家に行ってランチ。ワンコは期待通りの可愛さ、私もずっと飼いたいと思っていたのでしばらく夢中になって遊んだ。家は新しくこぎれいでなんか広々していると思ったら、周辺の余計な塀がなく、眼の前は原っぱ、空が遮られていない。空気が澄んでいる。地球温暖化の今、北海道は狙い目かも。

しかしその北海道も10月というのにこの暖かさで先が思いやられる。ここでは紅葉もまだまだ始まっていない。二日目は小雨模様だったので遠出せずに札幌市街お決まりの観光。北大の植物園を見たくて北大構内に車を乗り入れたら追い出された。ここは観光客の来るところではないと。テレビ塔に上り公園通りを上から眺め、中央卸売市場場外へ。

雨模様だしウイークデーの午後だったから人出は少ない。こういうところに来るとワクワクする。威勢のよい人たちが・・・しかし、なにか沈んだ雰囲気。天気が悪い、時間帯が遅いだけ?一軒だけ人が集まっているから昼食をここで摂ることにした。テレビで宣伝しているような海産物店で壁には有名タレントたちの色紙がずらりと貼られていた。けれど、料理はそれはひどいもので魚は不味くご飯もうちのよりもまずい。こんなこと滅多にない。我が家のご飯を下回るほどまずい店は。あっぱれじゃ!

がっかりして店を出てホテルに帰ることにした。ホテルは定山渓温泉のそばにあるから温泉に入りに行こうかなどと相談していたけれど、天気も悪いし昼ご飯はまずかったし、結局ホテルの大浴場で我慢。ちょっと残念な一日。

次の日は、さて、どこに行こうか。あてもなく車を走らせていると羊ケ丘公園の案内が。そうよね、北海道なら馬か羊。馬ならもっといいけれど羊で我慢しよう。途中の道路標識に支笏湖の案内が。支笏湖?近いのかなあ。

羊ヶ丘に登り、まずはクラーク博士の銅像の前でしばらく立ち止まってあたりを見回す。小高い丘の上の白い建物は記念館。有名なボーイズ ビー アンビシャスの由来などの書かれた説明板を読んだり散歩したり。心地よい風に吹かれ羊乳をのんだりソフトクリームを食べたりして過ごした。小一時間も過ぎて、さあ、これから何しようかと言ったら姉が支笏湖に行こうといいだした。

ちょっと待ってよ、なれない車でずっと運転しているしもう少し近場でどこかと思っていたから怯んだけれど、姉ももう年だから(私もだけど)途中まででも行ってみようかしら。疲れたら途中で帰るからねと釘を刺すと、知らん顔。都合により耳が聞こえたり聞こえなかったりするのだ。往復約百キロ。仕方がない行こうか。

しかし山道を登リ始めると面白い。本当に最近の車はよく走る。私が初代カローラでさっそうと女ドラデビューした頃は女性であるというだけで珍しがられたものだった。当時の車は横浜ナンバーだったから地方に行けば必ず話しかけられた。九州では「女性でここまでよう走りますなー」なんて。今どき言ったらセクハラですぞ。

乗り気ではなかったけれど支笏湖までの山道が面白くて、ついに湖畔に出たときは感激。湖はいつでも神秘的に思える。海の開放感とはまた別の良さがある。この世の自然物にはすべて神が宿ると思った古代人たちの感性は正しい。神様は寺院や教会ではなく山や草木につつましくおわすものだというのが私の気持ち。力の強いものは優しいのだ。

帰り道はもっと面白くて、姉が助手席で眠ってしまったのをいいことに車は飛ぶように走った。いちいち「この辺は停れの標識がいっぱいあるねえ」なんて遠回しに遠慮がちに注意を促されずに済む。困ったことに姉にとって私はいつまでも妹なので。その夜は姪とその娘の高校生がホテルまで来て一緒に食事をした。

こうして穏やかに何事もなく旅はめでたしめでたし帰途に・・・とはいかないのは私の運命なのだ。無事羽田到着。駐車場においた車の場所がわからない。いつもそうだから今回はちゃんと覚えたつもりだったけれど、甘かった。わかりやすいように入口に対面した奥の方において、これで大丈夫。ちゃんと階も覚えたつもり。でも覚えていなかったので・・・あはは、案の定。

第3駐車場は7階まである。車は見つかったけれど、ここにいてねと釘を差した姉が移動していたり。それはもう!!!


























2024年9月30日月曜日

かわいそうなのんちゃん

 元野良猫のんちゃんは不幸な前半生が原因でなかなか人になれない。私が駐車場で彼女をだっこしていたら「あらっ!この子抱っこできるの?私は撫でることもできないのに」といって驚いていた人がいた。ちょっと優越感。私だって一朝一夕に抱っこさせてもらえたわけではなく、長年の信頼関係の末やっとこさ触れることができたのだった。

今はベッタリと抱っこをせがんでくる。姉との北海道旅行は嬉しいけれど、のんちゃんの世話係がいなくなってしまう。甥に餌やりだけは頼んだけれど、心配でならない。他の家に行っていじめられないかしら、とかなんとか。寂しがって私を呼ぶ声が聞こえそう。でも彼女は筋金入りの野良だったから、今回ものりきれるでしょう。

姉はのりこという名前なので若い頃はのんちゃんと呼ばれた。北軽井沢の家の前の持主の田畑純子さんはなぜかノンちゃんと呼ばれていた。これは「のんちゃん雲に乗る」の主人公由来のニックネームらしい。そして野良は「のら」の、のんちゃん。そして「古典」のコンサートを毎回聴いてくださるお客様の中にも典子さんがいらっしゃる。私の周りには3人ののんちゃんと一匹ののんちゃん。

その中で唯一人間でないのんちゃんは前半生はかわいそうだったけれど、後半は幸せであってほしい。いまだにビクビクしながら生きているので、どれほどの辛酸を嘗めてきたかがわかる。それなのに放浪癖のある飼い主は彼女を残して、とっとと北海道に行ってしまう。

やっと自由な時間がとれると思っていたけれど、今月はシーズンとはいえコンサートを聽く予定が目白押し。結局北軽井沢の滞在は少なくなる。コンサートの標準を軽井沢の大賀ホールにあてるほうがよさそうで。私自身も、もし演奏を再開することがあれば軽井沢でと思う。実に響きの良いとても素晴らしいホールなので。地の利はない。音楽家仲間たちとの接点は少なくなろうし、今まで聞いてくださった方たちとも疎遠になるかもしれない。

最初はパラパラの客席、でも回を重ねるごとに増えるとするなら言葉に例えると「怖いもの見たさ」アハハ、なんか残念だなあ。








2024年9月29日日曜日

皆様本当にありがとうございました

 本日最後のステージ終えました。

古典音楽協会166回定期演奏会は、客席からの応援がひしひしと感じられる温かい雰囲気に励まされ、無事に終わることができました。前回も今回も新しいメンバーの紹介を兼ねた独奏が呼び物。若者の達者な演奏と熟練のベテランが共に心から楽しんで演奏できたと思います。

コンサートマスターのお隣はまだ20代、その隣に80歳のnekotama、この年齢の差は楽器を鳴らし始めればあっという消える。言葉も身振りもいらない。音さえ聞こえればすぐに反応し共鳴してなんと幸せな時間がもてることか。私は本当に豊かな終わりを迎えられたのだ。

皆さん引き止めてくださる。ありがたいことだけれど自分の限界は十分わかっている。他人がこの年まで頑張っているのを見れば、素晴らしいことと称賛できるけれど、自分のことは厳しい目で見てしまう。やはり指の変形による音程の悪さはいかんともしがたい。少しでも音程を外せば心が折れる。気にしていると他のこともうまくいかなくなる。

当日はあまりにもたくさんの花束やお菓子など頂いたので、我が家のガレージで花屋を開業することにした。お菓子もありますよ。売り場では新入りの猫が対応します。

少なくともチケットを売るよりも、もうかりそうな気がする。長い年月に亘り毎回毎回聞きに来てくださった方々にお礼を申し上げます。不本意ながら楽団の経済は逼迫しており、十分な資金が貯まるまでは私達は聴いていただくに足る演奏が必要条件になる。

コンサートが終わったら車に乗り切れないほどのお花など、中には数日前になくなったコチャの姿を描いてくださった人も。聞いていただいた上にお花やお菓子も頂いてなんとアコギな商売かと思われるでしょうが、古くからの慣習につきお許しください。

未練といえば未練、しかしなにか新しいことに出会えるという希望もあって、私はこうして度々環境を変えてみるのだった。今までたどった道筋はほとんど真っ直ぐだったけれど、あとから考えると必然だったことがよくわかる。今回もそうであるといいけれど。

例えばオーケストラをやめたときは、ある人の行為が気に食わなくてだったし、音楽教室をやめたのはある人の境遇に同情してだったし、その同情が仇となって私を半病人にしたのだった。だから今回も多分次に待っていることは私にとってすごく重要なことに違いないと考える。平和な時間が過ごせるかもしれない。修羅場かもしれない。できるなら修羅場が良い。きっと血沸き肉踊るでしょう。何が起こるかな?私に平和が訪れるのはいつの日か。

さて、最後のステージは本当に満足のいくものだった。穏やかな温かい空気、ワクワクする躍動的なヴィヴァルディの2つのヴァイオリンの協奏曲。若手と中堅が立ち上がる。きれいなひとたち。ヴィオラはおじさん二人。もっさりと穏やかに、しかし音は美しい。コンサートマスターの音は透明で明るく会場に広がっていく。幸せだったなあ。素敵な人達にあえて。

先になんの予定もないというのが嬉しい。と言っても北海道には姪の新しい家を姉に見せるというミッションが待っている。呑気な姉を飛行機に乗せてレンタカーで連れ回さないといけない。荷造りだけでも甥が心配してどんなカバンにしたらいいか問い合わせてくる。いいよね、周りから大切にされているということは。私なんか誰も心配してくれない。でもそれは私が極端に口を出されるのをきらうからなんだけど。可愛くない性格は損。

今年は足の状態がいいからスキーに行けるかもしれない。毎年「古典」の定期演奏会が3月頃にあるので、思い切ってすべらないくせがついている。怪我をして舞台に穴を開けるといけないから。ソロでもあろうものなら、心配でスキー場にもいけない。その心配がなくなった次シーズンは行きたい放題?ワクワクするなあ、久しぶりに。














2024年9月24日火曜日

虹の橋を渡るコチャ

 コチャは今頃虹の橋をわたっているかもしれない。今日の午後5時ころ、命の火が消えました。

2001年というから今から23年前に不妊手術を受けている。生まれたのが少なくともその半年から一年、あるいはそれ以上前かもしれないからだいたい23歳~24歳で、長寿がめでたいかといえば疑問だらけ。おむつを付けて寝転がっているコチャは可愛いいけれど、本人は苦しみとの戦いだったかもしれない。

一昨日、仕事で少し長めの外出をした。長い猛暑の夏が明けてようやく秋の気配がした日だった。それでも暑さはまだまだといったところ。出かけるまで冷房をつけて出るか消して出るか迷っていた。けれどコチャの寝ているサークルにシーツを被せれば寒くはないと判断して冷房をつけたままにした。7時間後、帰宅したとき少し冷えたかなと思ったけれど、シーツを剥がすと反応があって口をもぐもぐする。これはお腹が空いたときの催促の合図なので。

それでおむつを取り替えるとかなりの量のおもらしがあって、これではお腹が冷えてしまったかもしれない。でも餌を目の前に置くと早速食べにかかった。良かった、食欲があるなら大丈夫とその場を離れて10分くらい経った頃もう一度見に行くと、お皿の餌に顔を突っ込んで動かない。あわてて首を持ち上げて餌を見せるとまた食べ始めた。

しかしそこまでだった。それ以上は食べられないとみたので餌は片付けた。水分補給のため水を強制的に飲ませていたけれど、いつも飲み込む量とは明らかに違う。途中で喉をつまらせむせてしまう。窒息の危険があるのでいつもの半分くらいしかのませなかった。あいにく連休で病院は休み。

それでも夜中に餌と水を与えるとわずかではあったけれど、飲食してくれた。寒いといけないと思い行火を出してタオルの下に入れた。そのせいかよく眠ってくれた。今朝サークルにかけてあったシーツをめくってみると、明らかになにか変。声をかけても返事がない。いつもならお腹が空いたと餌の催促をするのに。

私はこれはもう限界なのだと悟らされた。全く同じ姿勢でいるからもう逝ってしまったのかと思ったら私の声にかすかに反応する。良かった、明日一番で病院へ行こう。お昼ころ何回か普通の声で鳴いたので私が返事をしたら安心したように大人しくなった。しかし午後4時ころ声を掛けるとわずかに耳をうごかしたのに、その1時間後には全く反応しなくなってしまった。

ほんの僅かな気温の差でも、彼女にとっては体力を奪われる大変な影響だったらしい。悔やまれるのは昨日冷房をかけて出かけたこと。熱中症を心配したことが裏目になった。閉店間際のスーパーで菊の花を買った。骨と皮だけになった遺体は軽くて小さな箱にすっぽりと収まった。コチャ、長い間他の猫が邪魔で、やっと私を独占することができたと思ったら又野良猫を家に入れてごめんね。

猫嫌いの人間大好きなコチャ、数年前まで生きていたモヤという猫だけとは仲良しだった。モヤは賢く心優しい猫だった。コチャみたいな自分の考えを押し通す猫にはうってつけの。今頃虹の橋の向こう側からコチャを迎えに来たモヤと、二人並んであちらに歩いていく姿を想像する。






















2024年9月23日月曜日

今の時代

素晴らしいこととひどいことが、前の時代を上回るほどの規模で起きているようだ。

大谷翔平はどこまでも記録を伸ばし、昨日投稿していくそばからすでに53-55に到達してしまった。人々はあっけにとられて見守るしかない。本人はさして大事とは思っていないような淡々とした表情で自分を語る。自分がとんでもない男であると言う前に、日々のスケージュールがうまく行っていることを喜ぶかのように。たいしたものです。

もう一人怪物が生まれた。大相撲の大の里は石川県出身。史上最速の昇進記録が生まれ間もなく大関になるらしい。

記録はやぶられるためにあるというけれど、それにしても人類の進化はどこまでいくのかしら。私は進化に取り残され縄文人の域を出ることができない。第二次世界大戦のお陰で日本が最悪の食糧事情にあるときに生まれたからとはいえ、もう少し伸びしろがあってもよかったんじゃない?と言いたくなる。よって、体力も気力も知力も最底辺でうごめいている。活躍している彼らにエールをおくることしかできない。

このまま平和が続いてくれれば日本人も世界的な逸材たちが生まれると思うけれど、また変な動きが起きないとも限らない。理性的な人たちも災害の真っ只中で、いつでも冷静でいられる保証はない。

また能登地方が災難に或っている。地震で被害を受けたそばから大雨が押し寄せて仮設住宅も床上浸水に。なんという気の毒な。大の里の故郷は災害と大の里の大関昇進と悲喜交々、どちらに感情を持っていくか戸惑っているのではないか。

私は災害の起こった地域に雀の涙の寄付などしている。東北の地震の時まではなんのためらいもなくお金や物資の寄付をしていたけれど、その行き先に不透明なところがあると聞いて考えた。物資は気持ちはありがたいけれど、ご遠慮したいというのが被災地の本音らしい。東北の地震では古着の寄付を募る古着屋さんがいた。私も古着ではいくら寄付でも悪いから安物でも新品で贈ったけれど、人づてに聞いたところでは大きなお世話で大迷惑らしいので物資の寄付はやめるることにした。

古着屋さんの呼びかけは好意からと信じたいけれど、一部アジアの国々に流して売り、一部を寄付に回すそうで、なにか変ではないですか。お金にしてもどこともしれない団体に流れることも多いそうで、今回のように仮設住宅の建設も遅い、しかも今回の大雨で床上浸水になって踏んだり蹴ったりの状態らいしい。寝具なども新しくしたばかりだと思う。それが水に浸かって絶望的な事態に。なぜこんなに復旧が遅いのか、石川県様お尋ねしたい。国会議員様、わたしたちの代表として最大限の尽力をしてください。

国はあてにはならない。今や総理大臣のi椅子を巡って、議員さんたちは自分のことしか考えていなさそうで。スポーツの世界で若者がこんなにすごいのに、政治はほとんど進化なし。というよりも、昔の大政治家と呼ばれる人たちが良くも悪くも懐かしい。考えると絶望的になる。












2024年9月20日金曜日

すごい!

 大谷翔平くん51-51記録おめでとうございます。

私はスポーツ観戦はほとんど興味なくテレビでもサッカーを時々見るけれど、最近は否応なしに野球の翔平くんが飛び込んでくる。なんとまあ、世界的にもこんな人は百年に一度くらいの才能ではないかと、ほとほと感心している。

顔は童顔なのに体格はアメリカの選手をも凌ぐ。何を食べてこんなに育ったのか知らないけれど、よほどご両親の育て方が良かったと見える。心根の優しい礼儀正しい好青年が今、世間を騒がせている。

ヴァイオリンの世界では日本人の女の子、吉村妃鞠ちゃんが参加したコンクールというコンクールで一位をとっている。今頃、戦後がやっと終わったのではないかと思える。日本は馬鹿な戦争を起こしたために長い間世界の水準よりも体格も実力も劣ってしまったけれど、これからは本来の姿で世界からも尊敬されるのではないかと期待している。今、世界中で紛争が絶えないその中で貴重な才能が殺されているのではと痛ましい。

才能ある彼らに共通しているのは礼儀正しく物静かで明るい。自分の才能をひけらかすでもなく、淡々と練習に励んでいるのではないか、そして落ち着いて行動する。いざというときに慌てず騒がず節度を保った態度に感動する。

こう書くと私は正反対だなあと思い至ってがっかり。

自分がおっちょこちょいだとは百も承知している。あるときは宅配便のおにいさんに「ハンコがつかないわ」というと落ち着いた声で「反対向きです」とおにいさん。はんこの尻尾の方で力任せに押したつもり。百年待ってもそりゃあ押せないわなあ。

即決でことを始めては途中で失敗。料理のレシピは読んだつもりなのに理解する前に行動するので生煮え半茹で。あるいは茹ですぎ焦げすぎ。まともにできたことがない。これもいうなれば家族が愛情深かった、深すぎて甘やかされた結果。私が時々気まぐれで夕飯の支度などすると皆が食べる前に母が「今日はnekotamaちゃんがつくったんだからね」言外に「文句言ってはだめ」

すると家族は口を揃えて「おいしいおいしい」と食べてくれる。ひとりだけ3番目の姉だけが「あんたの作った料理は味に締まりがない。ヴァイオリンの弾き方と同じだね」と的確な批判をする。私はこの姉が一番物のわかる人だと思っている。

私も厳しくされていればもう少しまともに育ったかもしれないけれど、母にとって兄弟の6番目などはまともでもまともでなくても元気ならそれでいいらしい。

来月、私と2番目の姉は北海道に旅行の予定。遊び暮らしたおかげで私は旅行の計画を立てるのに長けている。準備万端なのにコチャの世話をどうしようか、病院やペットシッターなどの手配に駆けずり回っていた。ほとほと困ってかかりつけの病院に相談したらあっさりと入院させてくれることになった。たしか最近は入院を引き受けてもらえなかったはず。やはり北軽井沢の病院の親切さを誇大報告したので医師がやる気になったか。よかった。

コチャは今朝病院で点滴をしてもらい(又々尾籠で)糞を出してもらって超ご機嫌でご飯を食べた。お元気ですね、お婆ちゃま。餌に向かって顔から突っ込んでくる様子にはまいった!















2024年9月11日水曜日

意志が弱くて

猫の治療費を捻出するために倹約を誓ったはずだったけれど、季節は秋、夏のシーズンもののバーゲンが始まっている。これに乗らなきゃまた来年まで新しい服は手に入らないと焦ってしまう。つい面白い服のバーゲンに足をとめてしまった。

この面白いというのが曲者、面白くない服は着たくないけれど面白すぎる服は着るのに勇気がいる。それでもごくおとなしい服は買っても着る気がしない。結局nekotamaさんって変な格好するねと言われる羽目になるのだ。

普段は普通のTシャツとパンツ、それはランズエンドというごく真っ当なメーカーのものだった。質が良くて古くなっても色落ちしたりヨレヨレにならないから結局それで会社が儲からなくて消えてしまったのではないかと思っている。私は数十年もののシャツなど未だに着ている。実に着心地良く、本当に残念。

今日は久しぶりに気分が良くて隣町のショッピングセンターに行く気になった。ずいぶん長いこと塞ぎ込んでいたからこれは少し回復の兆し?と自分でも嬉しかった。暑さもようやく緩んできているようだ。暑い暑いといいながら今年の夏はさほどこたえなかった。クーラーはガンガンつけっぱなし。エコどころかエゴそのものの資源の浪費、でも毎年熱中症でダウンするのだからこのくらいは許してほしい。それで今年は熱中症にはまだなっていない。

ショッピングセンターの二階の片隅にちょっと気になる出店、それはもう勘でしかないけれど足を止めた。他に客の姿は見えない。なかなかおもしろい服で色鮮やかで、手に取っていたら売り子さんがいつの間にか私のそばに立っている。やっと獲物が来てくれてうれしそうに。

面白そうな服数点をああでもないこうでもない、結局4着買ってしまった。私がひっそりとひと気のないコーナーで買い物をしているにもかかわらず、いつの間にか人が増えてきた。しかもこのコーナーだけ。

思い出がある。もうなくなってしまったけれど、麹町にメイミというステージドレス専門店があって私はそこの開店当初からの客だった。そこで買い物しているとオーナーが「nekotamaさんは招き猫なんですよ。いつも他のお客さんがたくさん入って来ますから」と言われた。そして彼女は「ほらね」

地下にあるお店に階段から靴音がしてぞろぞろと人が入ってきたのにはびっくりした。それ以来気をつけていると、いつもそんなことが続いた。それまで閑散としていた店に人が入ってくる。なるほど、他の店ではどうかというと、やはりほかでも私は招き猫。

今日もそんな感じのことが起きて、我ながらびっくり。びっくりして面白がって買ってしまった服を帰宅してから見たら、一つずつがあまりにも個性的だからどうやって組み合わせるか見当もつかない。また無駄使いをしてしまったかな。コチャの治療費どうするの。

10月になったら北海道の姪の家を見に行くことになっている。札幌に新しく家を建てたというから。それを見るのも目的の一つ。本当はもっと下心ありで、姪が飼い始めた犬がジャックラッセルテリアで、私がかねてより飼いたいと思っていた犬種なのだ。どうも血の繋がりというのは恐ろしい。他の姪の車はプジョー、これも私の好きな車で、なんとも言えない深みのある色合いが気に入っている。姪になんでプジョーにしたの?と尋ねたら「色がすき」ですって!

北海道は大雪山で早くも紅葉が始まっているらしい。大雪山といえば、はるか昔、札幌で仕事を終えレンタカーを借りて北海道巡りを企てた。その頃北海道には梅雨がないと言われたその梅雨時だから7月頃。なんの計画もなく大雪山を登っていき疲れたからシートを倒して寝ていた。実に静かで気持ちが良い。と思ったら安全のための?パトロールが来てこちらをジロジロ見ているから慌てて引き上げた。女性一人で山の中、これは自殺するのではと勘ぐられたかもしれない。

一人で車を走らせ飽き飽きした。10日ほどかけて一周するはずの計画は早くも3日ほどで終了。なぜなら一緒に景色を見て楽しい会話ができる人が傍らにいない。サファリパークで熊を見ながら掃除係りのおばさんとしばらく話したのと、ドライブインのおじさんに女性一人車旅をびっくりされたのと、それしか人と接触しなかったから。当時の北海道の観光シーズン以外のひと気の無さたるや。富良野のプリンスホテルでさえ閑散としていた。今ならいやというほど人だらけだと思うけれど。

ドライブインのおじさんがびっくりしたのは、私が借りたレンタカーが九州ナンバーだったから。この車は、はるばる九州から北海道まで様々な土地を経てやってきたのだ。故郷に戻れたかな。

今なら私は一人でも耐えられる。北軽井沢の森の中の生活が孤独になれさせてくれたから。でもコチャがいなくなったらどうかな。寂しいでしょうね。コチャが生きることに執着しているというよりも私がコチャに執着しているのかもしれない。コチャ、死なないで。






















2024年9月9日月曜日

コチャ蘇る

コチャはすごい!奇跡的!

明日をもしれない命と思われたコチャ。毎朝目が覚めるとコチャが寝ているサークルを覗くのが怖かった。 あるときはぐったりと、あるときはかすかにニャアと鳴くだけ。立つこともおぼつかない。無理に餌を与えると怒って噛みつかれた。しかし、末期かと思われる猫のかみ方にしてはすごく強く、歯が食い込んで次の日からしばらく左手の人差し指の付け根が腫れた。

噛まれたときにすぐに傷口に口をつけて毒を吸い出した。そうしないと猫の爪や歯で受けた傷は恐ろしく腫れ上がる。場合によってはひどく化膿して大事になることもある。

コチャが元気なくうなだれているとき、北軽井沢に連れて行くかどうかたいそう迷った。かかりつけの動物病院はホテルはやっていないし、他の知らない病院に行くのはためらわれる。それで森の大木の下に埋めることになることも覚悟して連れて行った。それが吉と出て北軽井沢動物病院との御縁ができた。

時々夜中に具合悪くなったときには救急病院へ連れて行くけれど、過剰な治療で目玉が飛び出るほどの請求書がくるし、必要でもない手術をされたこともあった。その時の経験から過剰な治療は猫にとっては地獄、いつも後で可哀想なことをしたと後悔することになった。今回もコチャはもう末期的で力尽きているものと思っていたけれど、時々見せるびっくりするほどの力強さが私に治療をやめさせない。

今まで多くの猫を見送ってきたけれど、自力で食べられなくなったら治療はやめることにしていた。そしてある日私のベッドの横で静かに眠るように逝ってしまった彼らを見つけることになる。きれいな顔をして毛並みも艶々して呼べば起き上がりそうな。

歴代の猫の中でもコチャは特別。やせ細り足腰立たず、目は白濁してボソボソした被毛に覆われて、それでも生きていたいという意志がはっきりと伝わってくる。力なく呼ぶ声に近づくと口をモグモグさせて食べたいという。起き上がりたい、おむつが汚れているから交換してという。北軽井沢から戻った日にかかりつけの獣医師に相談した。

自力で食べられなくなったらもうそれ以上治療はしないという私の考えを知っている彼らはそれに沿った治療だけをしていたけれど、ここでもう一度頑張っているコチャの意志を尊重することにした。それに向けて治療開始。今までは通常の点滴だけしていた呑気な彼らも、急に態度が変わって真剣になった。私との会話はお互いタメ口だったけれど、急に敬語を使われて私は目を白黒させた。

治療はすごくお金がかかる。私も覚悟して自分でできることはやらないといけない。けれど自宅で点滴をするのは怖くてまだできない。北軽井沢の先生は皆さんご自分でする方が多いですよと言ったのでやればできるらしいけれど。こちらの先生からも点滴をしながら説明してもらったけれど、できるかなあ。できないと我が家の経済は逼迫して靴も買えなくなる。(買ったけど)商店街で500円のシャツを買おうかと迷ったけれど、買わないで帰ってきた。そう言いながらお気に入りの靴のクリーニング(高い)にはお金を惜しまない。このへんでもっと締まり屋にならないといけない。

仕事は引退するから本格的に北軽井沢の庭作りに励もうと思っていたけれど、それも規模の縮小を迫られるかも。宝くじ買おうかなあ。


















2024年9月7日土曜日

氷見雨晴海岸

北軽井沢の家の日当たりの悪い陰気な森を少しでも明るくしたいと 、行くたびに何かしら花を植えてくるのだけれど、なんの効果もない。あまりにも敷地が広く木が多すぎて日当たりが悪い。住宅地としては適さない場所だから、それを承知で住んでいる以上文句は言えない。

前の持ち主、人形作家のノンちゃんの夢は木々が生い茂り草茫々で手つかずの自然のまま、私の夢はバラが咲くイングリッシュ・ガーデン。ロンドンに遊びに行ったとき、自然のままのように上手く配置された草花たちの優雅な姿に見とれた。

元々私は動物専科、花は殆ど知らないし植物の性格は大概意地悪っぽいから特に好きというわけではない。それでも森の青々した庭にはもう少し色が欲しくなる。それなのに私の庭はいつまでたっても花が増えない。これは近所にすごく意地悪な人がいるからに違いない。

常時いるわけではないから月の半分以上は留守というと、庭に入ってやりたい放題できるわけで、せっかく植えて帰った花のさく植物はことごとく荒らされている。早春に水仙が咲いたときは本当に嬉しかった。でも次の滞在時に入っていくと見る影もなく引き抜かれた水仙の残骸。真っ赤な花の咲く木を買ってきて庭の奥に植えておいたら、花を引きちぎり根っこから引き抜いて森の奥へ放り投げられていた。それでもまだ生きていたから今度は表の方へ植え替えておいたら薬のようなものがかけられて半分立ち枯れ。涙が出た。

私に対する敵意だったらさもありなん、でも何も言わず走って逃げることのできない草木に意地悪するとは卑怯者め!本当に腹が立つ。去年ひまわりは根本から引き抜かれて並べて横たえられていた。前回庭のシンボルの大木の前にビオラの株を植えてきた。けれど今回行ったら跡形もなく全部消えていた。気の小さいどす黒い腹の犯人のことが想像される。

それでもめげずにまだ球根を植えているから来年こそは花の咲くきれいな庭に変身できるかも。その球根は富山県に居住する古くからの友人のKさんから頂いた。今回もくださるというのでひょいと軽井沢始発の新幹線に乗った。北陸新幹線が便利になった。駅まで車で迎えて頂いて街の神社などに寄りながら氷見の海岸を目指す。この小さな由緒有りげな神社は柱に弁慶の拳骨の跡があるというけれど、果たして弁慶だったのか森のくまさんだったのかはわからない。しかし神社に詣でると気を感じるのは私だけではないと思う。不思議ですね。

このあたりは義経が奥州に逃れて歩いた道筋らしい。もののあわれというけれど、義経伝説にはいつも涙がつきもの。雨晴海岸には義経岩という岩があって、海岸の砂地にはたぶん義経のお后の小さな祠がある。その下の岩穴で逃亡中に雨宿りをしたという。義経は弁慶に守られながら疲れた体を休めたのか。

今の私達はのんびりと海の青さに魅入られているだけ。厳しい逃亡生活は想像もできない難儀だったと思う。日本の歴史に名を残す彼らに畏敬の念を抱くのみ。凄まじい出来事が日本を変えていったのだ。

どれほど見ていても飽きない景色の氷見の海岸を後にして市場を目指す。なにか買い物をして少しでも災害の助けにでもと思ったけれど、考えがまとまらず食事をしただけで帰路についた。この被災地に一体何をしたらいいのかは後で考えることにしてひとまず北軽井沢の我が家へ。まだ日が残るのにゆっくりしていられない理由は具合の悪いコチャのことで、前日から入院させていた。

北軽井沢動物病院という評判の良い病院が我が家のすぐ近くにある。以前から気になっていたけれど今回は一日家を空けるとコチャになにか起こるといけないと考えたので前泊させたのだった。病院とペットホテルを兼ねているから夜中になにかあっても治療してもらえる。ボロボロの猫を見て獣医さんたちもたじろいだふうだったけれど、しっかりと診てもらえて受け取りに行ったときには女医さんに甘えている最中だった。前日餌をやろうとした私の手を噛んだくせに。

コチャにはすごく強い意志があって、生きる力がはんぱない。見ていると勇気をもらえる。猫嫌いの人好きで、若い頃から多頭飼いの我が家では他の猫と交わらず、押し入れで孤独に暮らしていた。そこで温存した体力が今役に立っているらしい。おむつをして寝ているだけなのにパワーを感じる。

頂いてきた球根は秋植えて来春咲く株らしく、これだけあれば家の庭は花だらけになろうというくらいたくさん。木が多すぎるのが欠点で、木を切りたくないけれど日当たりが悪いのは困る事情があって、一度は造園業者に入ってもらわねばと思っている。来年花盛りの庭でコチャが遊ぶ姿が見たい。
















2024年9月1日日曜日

合宿中止

 今日は音楽教室の弦楽アンサンブルの合宿のはずだった。居座り巨大台風のせいで中止になってしまった。

本来は私の群馬県の山の家に皆が来てくれて楽しくやっていたのに、コロナ感染拡大以来中止や変更が続いて寂しい。けれど今回の台風では、もう呑気に過ごすことはこれから先もできないのだと覚悟させられた。地球温暖化のせいだけではないかもしれないし、地球が活動期に入って人間の都合などお構いなく自己変革を遂げようとしているのかもしれない。

「長いものにはまかれろ」なんて言葉はうまいこと言ったものだと感心する。もうギブアップ。災害を防ぐために人間が作った建造物などはそれだけで自然破壊になっている。巨大な高層ビルの立ち並ぶ埋立地は海風を遮って高温の原因になる。木を切り倒して建造物を作るのが好きな人達は、自分とその家族の命を劣化させていることに気が付かない。

最近私のオアシスである北軽井沢も、訪れるたびに新しい家が作られている。おやまあ、ここも家が建つの?と自分の家は許されても他人には建てられたくない。わがままなものです。

今回の北軽飯沢合宿はnekotama投稿のとおり、介護年齢に入った人たちが家を空けられなくなったことやなにかで都内に場所を変更。せっかく夜中でも大騒ぎできる環境を手に入れられた私は無念。誰もいない(と思われる)森の中で夜中にヴァイオリンを弾くのは楽しい。遅くまで楽しくお酒を飲んで、真っ暗な森をホテルに帰っていく生徒たちの笑い声が思い出される。

もしかしたらリスやムササビが聞いてくれるかもしれない。熊さん一家にはダンスを踊って欲しい。風の強い日、どんぐりの落ちる音で私の中で童話がかけそうな気がする。この家の以前の持ち主は童話作家と人形作家の御夫婦の家だったのだから。皆の共同で使える家にと思っていたけれど、大人たちは他所様の家にはズカズカと訪れるものではないという常識で縛られて一向に来てくれない。私なら我が物顔で借りて住み着くのに。猫の匂いがするから嫌なのかもしれないけれど(笑)

以前の持ち主、人形作家のノンちゃんは、そんな私が嬉しかったらしい。環境を気に入って私がしばしば訪れるので、それを心待ちにしていた。帰るというとがっかりして「もう帰っちゃうの。今度はいつ来るの」と寂しそうに言われた。御夫婦のことはもう思い出でしかないのが悲しい。

一人で怖くない?とよく聞かれる。人間さえいなければ怖くはない。住み始めた頃、夜中にシャッターに当たる大きな音を聞いたときには眠れなくなった。けれどそれがムササビかリスなどの小動物の衝突音だと聞かされて、その後は怖くない。むしろ車の音などが聞こえると怯えてしまう。

台風が過ぎた頃北軽井沢に行く予定。猫のコチャはまだ生きている。私はもう諦めようと思い介護をやめるつもりなのにそれができない。彼女の生きる力はすごい。今日はもうだめかもとサークルを覗くとグラグラしながら立ち上がっていたり、ご飯食べたい?と訊くと口をモグモグさせて食べたいという。飲み込む力もなくなってきているのに。ペーストと水でやっと命を繋いでいる。北軽井沢のおいしい空気を吸えば元気が戻るかも。

お知らせ

古典音楽協会の定期演奏会が9月27日19時から東京文化会館小ホールで開催されます。

コレッリ:合奏協奏曲

チマローザ:オーボエ協奏曲

ヴィヴァルディ;2つのヴァイオリンの協奏曲

テレマン:2つのヴィオラの協奏曲

バッハ;ブランデンブルク協奏曲第5番

今回のヴィヴァルディのソリストはベテランの石橋敦子さんと新人の大谷桜子さん、テレマンのヴィオラ協奏曲は予定されていたソロの中竹さんが体調不良のため急遽三戸誠さんが代役を務めてくれることになった。もう一人のソリスト梯孝則さんと三戸さんは古くからの楽友ですから息のあった演奏になると思います。

ブランデンブルク協奏曲のフルートは大澤明子さん、今までは客演奏者でしたが今回から正式にメンバーとなっての演奏。一同嬉しく期待しております。

新体制の古典も今後ともどうぞよろしくおねがいします。










2024年8月31日土曜日

電車で逆走

 昨日は怪しい男からうち中の通信機器がすべて使えなくなると脅されたから、今か今かと待っているのに一向に途絶えず情報は入ってくる。

今日の天気は時々雨、巨大な台風が日本列島の下半分に居座って動かず、煽りを食ってこちらまでジトジトとした天気が続いている。東京ベートーヴェンカルテットを主宰するチェロの奈切敏郎さんは頑固一徹、カルテットとともに生き延びるつもりらしい。老いてますます成熟の一途、私より年下だけどね。ほぼ毎回聴かせていただいている。しかし偉いものだ。

台風の影響で客足はどうかと思っていたけれど、このお天気にしてはよく入っている。後援者やファンが多いから。客席の人たちがひたとㇲテージを見つめ、一音たりとも聞き逃すまいと舌なめずりするように聞き入っている。長年充実した活動を継続するとこうなるのですね。

東京文化会館を出るとかすかに雨の感触があって、ざあっと来る前に急いで帰ろうと足を早める。山手線の上野駅で目黒に出たいから案内版を見ると、渋谷方面とある。目黒と渋谷ならご近所さん。乗り込むと座席も空いていて座われたからやれやれ。しばらくして考えた。渋谷を通ってから目黒に行くのはどう考えても数駅以上無駄。ああ、やはり逆走している。

私は天才的な方向音痴。右と思うと左。左と思って、待てよ!自分が左と思ったのだから右に違いないと思って右に行くと必ず左が正解。だからそのまた裏をかいて反対に行くとその反対が正解。これって何なのか理解に苦しむけれど、生まれ持った才能の一つではある。

目黒に行くには遠回りと気がついたからすぐに次の駅で降りた。目黒で私鉄に乗り換えて今度こそ正常な方向に走っている電車を見ていると、以前私が乗っていた東横線とはまるで違う場所、例えば飯能とか石神井公園とか、森林公園とか、逆方向は新横浜、海老名などなど、思いがけない名前が出てくるので一体これは何線なんだ。でも一段と便利になったことは確か。しかし一旦乗り間違えると恐ろしい未来が待っているような。

私はこの年の女性としてつい最近まで仕事をしてきたし、こうして他人の演奏を聞くのが好きでよく音楽会場に足を運ぶから、そこはかとない土地勘がある。知らない土地を歩くのが大好きだから迷子になってもうろたえない。むしろ好んで別の路線で行ったりもする。

しかしそれを人生でやるものだから一向に目が出ない。なんでも継続できればそこそこの成果が出るものを、途中でそれを捨てて別の路地を覗いてみたくなる。「古典」だって嫌いで辞めるのではなく、喧嘩別れするでもなく、ひたすら未来に別のものを追い求める。飽きやすいとかそういうわけでもない。好きなものはずっと好きだし努力は惜しまないけれど。今の私は逆走する運勢かな?

なに、すぐに戻りますよ。たとえヴァイオリンを弾かなくても音楽からは、はなれられないから。








2024年8月29日木曜日

逆走

4ヶ月ほど前に眼瞼下垂の手術を受けて後、運転時や楽譜を見るのがとても楽になった。以前はまぶたがいつも覆いかぶさったみたいに重くて、時々指で自分のまぶたを持ち上げると視界がひらけるから このたるみどうしてくれようと思っていた。身近に眼瞼下垂を手術した人がいて、楽譜が見えると喜んでいたから野次馬の私は興味津々、それなら私も。

北里研究所病院は以前からお世話になっていたけれど、あまり長い間通っていなかったため古い診察券を見て驚かれる存在になっていた。手術前後はコロナにかかったり肺炎で入院したりでてんやわんや、無事手術を受けてもまぶたが腫れ上がり、血だらけの顔はもとがもとだけにそれは凄まじい。このままお化け屋敷でアルバイトができると思っていたけれど、スカウトの声掛けはなかったのでひと稼ぎすることはできなかった。せっかくの顔を活かすこともできず、ヒリヒリしたり赤くなったりで残念!

それがやっと落ち着いてきたらなんと快適な。視力は年のこともあって良くはならないけれど運転時の見え方が違う。手術するときに目の下の皮膚のたるみもついでに取ってと言ったら、それは美容整形のほうで値段が高いと言われた。なぜ眼瞼下垂が安くてたるみ除去が高いのか?それは眼瞼下垂は日常生活に不便で目の下のたるみは別に不便ではないからだそうだ。なるほど、鼻が低いのも足が短いのも、日常的には不便ではなく、見てくれの問題だけだから保険がきかないのか。

今朝は手術後の経過観察日、もうすっかり安定しているので痛みもないし抜糸の残りもなくなっていた。すぐに終わって帰り道、都内から出る方だから道は空いている。中原街道の一箇所に朝の渋滞緩和のため中央ラインが一時的に変更になる箇所がある。それは道路の中央ラインがライトの点滅で移動したことを知らせるシステムになっている。道路標識もラインの移動を上から知らせている。

この道路を私はもう50年以上走っているからそんなことは百も承知。都内中心部に向かうほうが車線が増え、出る方は一時的に車線が減る。今朝はこちらが減る方を走っていた。最初はわかっていたけれど右折専用の箇所で他の車が右によっていったとき錯覚がおきた。そちらに車線が戻ったと勘違いしてそのまま直進、あっと思ってすぐに戻って事なきを得たけれど、その間5.6メートル。危なかった。

この区間は錯覚して逆走が多いと先日テレビでも取り上げていた場所なのだ。混雑時のほんの僅かな時間だけ変更するのは知っていたけれど、その区間が終わるときの対処がうまくできなかった。朝の時間帯にこの区間を自宅方面に戻ることはめったになく、慣れていないこともあったけれど、やはり注意散漫のお叱りを受けてもぐうの音も出ない。

台風の影響で雲が垂れ込めて頭が重い。ちょっと一眠りがずっと眠りこけ、電話の音で目が覚めた。

出てみたら音声ガイドでお宅の通信機器は間もなく使えなくなるとか、詳しく聞きたければダイヤル1をプッシュしてという。押すと男性が出てきてなんとかの某だが、お宅の携帯から大量の迷惑メールが送信されているけれど心当たりはないですか?と。まさか私が迷惑メールを撒き散らした覚えはないから「あなたどなた?」そんなことがあるなら文書でちゃんと送ってというとイライラしながら同じことを繰り返す。この電話番号に電話してくださいというから嫌だと断った。たぶんそこに電話するとなにかに巻き込まれそうだ。

そうしないとすべての通信ができなくなるそうで、世の中うるさすぎるから切れたほうがいいかも。それならあなたの会社の電話番号教えて、こちらから折り返し電話するからといったら、手を焼いたらしく突然ぷつんと通話が途絶えた。ご苦労さま、きっとフィリピンなどから電話しているのだろう。婆さん一人手玉に取るのは簡単なものさ。しかしもう少し頓珍漢なことを言って時間をムダ遣いさせてあげればよかった。こちらはどうせ暇だし。

その手の電話をしてくる輩は会社名を言っても役人を装おっても声で違うことがわかる。どこかやさぐれていて言葉遣いがおかしい。突っ込むとしどろもどろになる。そんなことで自分の大事な人生を一生暗く終わるか、努力してちゃんと生きて終わるかは自分しだい。もったいない、せっかく生まれてきたのに。
















2024年8月28日水曜日

フェにゃックス

不死鳥、不死猫 こちゃ。

今朝猫が私を呼んだ。「朝ご飯はまだ?」ん、のんちゃん?しかし声はサークルから聞こえたような。なにっ!コチャが立っている。前足を踏ん張ってしっかりとこちらを見てグラグラしながらも立っている。まさかの事態に私は口をあんぐり。

昨晩は「古典」の秋の定期演奏会のための練習が始まった。東京文化会館のリハーサル室に集まったメンバー一同。ヴァイオリンとチェロの新しいメンバーが二人、コントラバスのエキストラが一人、そして今回テレマンのヴィオラコンチェルトのソリストが急病のため、急遽代役を引き受けてくださったヴィオリスト。これだけの初顔合わせは以前の「古典」ではめったにないことなのに、滞りなく練習は進んだ。

非常に活発な意見の交換や質問や、コンマスの手際の良い対応に練習は滞りなく進んだ。今までの「古典」は前コンマスの意見ですべてが収まったけれど、これからは若いメンバーの意見も活発に出るような、そんな「古典」になってくれると思うのが喜ばしい。皆生き生きとテンポも一段階上がったようだ。隣の新人は私とは半世紀ちかくの年の差。しっかりとした技術と初めての参加なのに臆せず物言う活発なところが心地よい。こうでなくてはね。

私はこれで安心して「古典」を引退できる。

練習が終わり帰宅したときは22時は過ぎて、コチャの食事とトイレの限界。もう虹の橋はとっくに消えていたから安心していたものの、サークルの蔽いを取るのが怖い。しかしコチャはしっかりとした顔で私を迎えた。

目は瞬膜に覆われ足は立たないものの明らかに餌がもらえるのを期待している。まず猫介護用のエプロンをかけ、おむつの点検。そして大急ぎでペースト状の餌と水の噴射のためのプラスティック容器に餌と水を満タンにして、準備万端。猫もここまで生きると化け猫になる。コチャはすっかり心得て私の膝で満足気にくつろいでいる。夜更けの食事もだけれど、私に抱っこされることが殊の外嬉しいようだ。

そして今朝奇跡は起こった。たしか昨夜まで声が出なかったコチャが普通の声で私を呼んだのだ。これで何度目?しょっちゅうもうおしまいだと諦めることがあって、それでも未練たらしく今回もしばらく点滴をしてもらった。あまり効果は見られないからと諦めた矢先、気持ちの整理がついたと諦めていたのに。  もう餌は食べさせないようにしようと思ったのに。コチャにとって、私に抱っこされている時間は至福のときだったのだろう。白濁した目がこちらを見上げてくる。見えてはいないと思うのに、しっかりと視線が合う。

なんという生命力、痩せ細り 被毛はボロボロ、声も出せない状態なのに。おむつをされてサークルに寝かされて時々仕事で放置されても文句も言わず蘇ってくる。

不死鳥ならぬ不死猫コチャにエールを!

頑張れ!頑にゃれ!えいえいニャ~ン!









2024年8月27日火曜日

虹の橋

 今朝西の空を何気なく見ると大きな虹がかかっていた。

虹を見るのは久しぶり、大きな台風が近づいていて昨夜は強い雨が降っていた。野良猫のんちゃんは珍しくご近所周りもせず家の中にいた。雨上がりのベランダへ出たら雲が切れたところに明るい空がのぞいていた。しばらくして少し雲が増えてそこに虹の4分の一がかかっているのが見えた。

コチャは命の途切れる寸前で、もう鳴き声もあげられない。静かにサークルの中でその時を待っている状態ながらまだまだ元気。すごく生命力の強いおばあさんなのだ。もう自力では歩けないから・・・立ち上がることもできないから時々ご機嫌伺いに覗くと、半濁した目でこちらを見上げる。瞬膜が目の殆どを蔽い視力は無いに等しいと思うのに正確に私の目を見つめ返す。

ごはんたべる?と訊くとその目が「もちろん!」と応える。口をモグモグさせるのが彼女の意思表示なのだ。ペースト状のフードを吸引して喉にピュッと発射!それを喉の奥まで通すのは彼女にとってすごく大変な作業であると思える。少し待って水を同じように喉に発射する。これは鼻洗いの薬についていたプラスティック製の器具が便利。水を入れてちょっと押すとわずかに水がぴゅっと発射される。これならむせないで飲み込める。

昨日はほとんど食べる元気がなくてもうこのままおしまいにと思っていたけれど、すごい生命力、おそれいりました。

ほんの少しでも気は心、食べてくれるのは嬉しい。そしてしばらく横になって眠る。体が汚れているので手で触るのはちょっと汚いけど、昨日はお風呂場の洗面台で汚れたところを洗ってブラシをかけたらまだまだ姥桜、これが22か23歳とはとても思えない。身びいきかしら?体重はもう無いに等しい。骨と皮だけ。

生きる気力、食べる欲望が少しも衰えていなくて恐れ入りました。なによりも彼女にとって私に抱っこされて餌をもらえるのが嬉しそう。私は子供がいないからあまり体験はないけれど、赤ちゃんに食べさせるのはこんな気分なのかなと。汚くて見るからに臭そうな猫を抱くのは最初はためらったけれど、嬉しそうに白い目で私の顔をじっと見られると、なに、後で洗えばいいじゃんと汚さを忘れられる。

獣医師がコチャの歳を教えてくれたけど、22年前にその病院で不妊手術をしているから年齢はそれ以上。たぶん23歳という。カルテを見て彼自身驚いていた。「ご立派!」と。コチャは猫が嫌いで人間が好き。うちは多頭飼いで常に他の猫がいて、他の猫と接触しないように四六時中おしいれにこもっていた。玉三郎やモヤが死んでやっと一人で私に甘えられると思ったのに、また野良猫のんちゃんが来たのはさぞや心外だった思う。

その後虹は大きな半円形になった。

今朝虹を見てコチャが今日この橋をわたって天国へ行ってしまうのではと思ったけれど、先程サークルを覗いたら穏やかに息をしていてホッとした。もう立つことができないから虹の橋を歩けないのね。まだいかなくていいよ。ずっとそこで横たわっていらっしゃい。

















2024年8月22日木曜日

くにたちの会

毎年くにたち音大の オーケストラの仲間達が集まってコンサートをやっている。最初はそれぞれ楽器を持って集まってその場で組み合わせを決めてカルテットやソロを弾くという即興的な集まりだった。けれどいつもふざけていても根は真面目のオケマンたちは、そのうちちゃんと練習してくるようになって面白みが減った。

コンサートが終わって打ち上げ会場のくにたちの「天政」さんは数十年間私達にやりたい放題を許してくださった。大広間を開放、そこでも飲みながら食べながら誰かしら楽器を弾いているという楽しい集まりになった。むしろこちらが本番のようだった。

ところがコロナ以来参加者も減り、特に最初のこの会の言い出しっぺが亡くなって今年は演奏者も少なく、小部屋での食事となった。それはそれでまとまって全員と話ができて良いけれど、喪失感は否めない。つい数年前まで集まって昔話ができたおじさんたちが参加しなくなって、私達世代がそのおじさんおばさんの代になってしまった。最近参加を始めた若い世代は私達とは仕事上の接点もなく、ただひたすら若く可愛らしいお嬢さんたち。

はじめは今年の参加を見送ろうかと思っていたけれど、K子さんからお知らせを頂いたら気が変わった。K子さんは数年来の持病を押して幹事をしてくれているのだ。具合が悪いのに働いてくれているので、参加しないではいられない。相棒のピアノのSさんに連絡すると冷たく「あら、今年は出ないのかと思っていたのよ。連絡してこないから」言い放つ。自分はチェロの若い男性と組んで出るつもりだったらしい。悪かったわね割り込んで。

練習してある曲はシューマンのソナタ。それも第1楽章だけでごまかすことにした。毎年一人で数曲ずつ掛け持ちで彈いていた頃は大忙しだったのに、もう一つの楽章しか弾けない。けれどこの年で人前で弾けるというだけでも幸せなことかもしれない。大学で同じ先生の門下だった同級生も参加した。彼女はモーツァルトのソナタを演奏。年ごとに音に艶が増してくるのはご立派。

私は間もなく引退するつもりだからやめたら好き放題遊ぶつもりだけれど、雀百まで踊り忘れずというから、もし百歳になっても彈いているかも。今回参加した若いピアニストは私の相棒Sさんの教え子で、彼女は以前この会に参加したいと言ったらSさんから「まだ早い!」と言われたそうな。それを聞いて「わたしたちはもう遅い!だわね」と言ったのはこの私。もうなにもかも遅い?いやいやまだまだ遊びあきたらまたヴァイオリンに戻ってくるから、そのときにはちゃんとした曲をまとめたいという夢も持っておりますよ。コンサートを開くかもしれないし。

すごく恵まれた人生だったし人にも仕事にも十分楽しく接してこられたからもう良いかというと、まだまだなにか起こることを予想して待っている。人の欲望は終わることがないと痛感。それを実現するための努力ができる体力が残ってさえいれば・・・なんて、欲張りですねえ。

最近やっと体調が戻ってきたらしい。今年春の古典音楽協会の定期演奏会を終えた次の日から寝込んでしまった。眠って眠っていくら寝ても起きていられない。すぐまた眠る。それが10日間くらいか、そのくらいの時間だったと思うけれど眠り続けた。二年ほどの大変な時期に溜まった疲れや気苦労が私を眠り姫にしてくれた。そろそろ次の定期演奏会の準備の会合をという事になったけれど、その頃私にコロナ感染が見つかり隔離状態へ。姉が時々ドアの外においていってくれる食料で生き延びて2週間、やっと治癒したものの激しい倦怠感は続いた。

それでもなんとか生きていたけれど次に激しい咳が続いて入院、病名は肺炎だった。とても陰気な病院での耐えきれないほどの時間の生活、やっと退院を許されて家に戻っても微熱がつい最近まで続いた。ここ1週間くらい前から熱がやっと平熱に戻った。なんだかんだで六ヶ月絶不調。今までこんなに長く病んだことはなかった。

健康には自信があって、私の免疫力は強いと信じていたのも思い込みだと知ってすっかり気落ちした。それでもつい最近になってようやく以前の陽気さが戻ってきたのがありがたい。周りを見れば私の友人たちもなにかしら病気だらけ。悪天候やとんでもない暑さの続く最近の気候に悩まされ、半病人状態だった私。

久しぶりにくにたちの古い友人たちに会ったことがきっかけかもしれない。旧友たちはありがたい。コチャのことはもう自然に任せよう。無理やり口に食べ物を押し込まれてむせながら食事をしても状況が変わらないということは、もう治る見込みはないと。

私と暮らした22年間、結構幸せだったのではないかしら。私はもしかしたら医療関係の仕事も向いていたかもしれない。病人にはかぎりなく優しくなれる。いつもの頑固でドジな私は病人の前では天使になれるのよ。ね、コチャ?返事がない。

















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投稿遅延をお詫び申し上げます

前回の投稿からずいぶん時間がたつので心配する人から連絡を頂いた。 

今年春からずっと元気なく生きる気力もなくてダラダラしているうちにもうすぐ秋。nekotamaは尾籠な話で終わっちゃうの?と言われてなるほど、終わりよければすべて良し、終わりが悪いと胸糞悪い、てなわけでしてご心配くださる方々申し訳ない、私は元気に生きております。

しかし思うところが多すぎて処理しきれない感情が渦巻いていて、いっそのこと認知症になってしまったほうが楽だなあと思っていたのですが本当にそうなりそうで怖い!

テレビやネットの情報を見て、これは面白そうと思ったらすぐに話題にしていたのに、最近はその話題を書き留めようとパソコンの前に座ると「はて、何を書きに来たんだっけ」もう忘れているのですよ。困った困った。で、おぼえていることだけ書きますね。

私の相棒コチャは22歳あるいは23歳、せんじつ獣医師から「ご立派!」と褒められた。数日前から急激に食事をしなくなり、脱水症で点滴に通う毎日だった。しかし点滴だけで生きているのは意味がないから口から自分で食物を摂るようにしないといけない。そうでなければもう天国に行かせるか迷うところで、毎回猫の生き死にの決断は私にゆだねられている。この時期が一番つらい。

コチャは猫が嫌い。好きなのは人間。大好きな私が野良猫を家に入れて餌を与えているのが我慢出来ないらしい。私と野良はコソコソと物陰で食事をする。コチャは耳が良く勘が鋭いのでどんなにこっそりやってもすぐにバレる。野良に対抗するために私に猛アピール「私だってお腹空いているのよ」とばかりに。そして野良の食べ残しはコチャが平らげる。それが原因で体調を崩したコチャは数日前から食事が摂れなくなってしまった。

ある朝ぐったりとしたコチャを目の前にして私は考え込んだ。ここで治療を始めるといたずらに苦しみを長引かせることになる。けれど何もせずに放っておくのは自分の気がすまない。それが一番いけないことと知りながら動物病院を訪れた。

初めて私の猫を治療してもらいにここを訪れてから数十年、おじいちゃんの優しい先生、次の代の二人の息子先生、そして今孫の代の元気な先生ご夫妻、長いお付き合い。コチャはここに来ると気分が良くなると知っていて騒ぎもしない。点滴が始まって数日、気分が良くなったのかお腹が空いたらしいところを見計らってシリンダでペースト状の餌を口にいれる。その後すぐに水を飲ませる。

水は自分で飲むことができないので、人間用鼻洗いのプラスチックの器具を使う。水を入れてピュッと口に放射。少し食べるようになって元気になったコチャは口をもぐもぐさせてお腹すいたをアピールするようになった。時々よろよろと立ち上がる素振りも。しかし長くは続かなくなって、昨日食べさせすぎたか今朝はもう欲しがらない。

また余計なことをしたみたい。たぶん食事も排泄も今のコチャには多大なエネルギーの消費なのだ。ゆっくり静かに虹の橋を渡って猫の楽園に行かせてあげたい。けれど私はいかせたくない。揺れ動く気持ちは整理がつかない。












2024年7月24日水曜日

尾籠な話しですが

 先日北軽井沢を訪れた二人の美女。テレビの仕事でよくご一緒したコーラスさんたち。ふたりとも頭文字が同じ名前なのでU子さんとUさんいうことに。

Uさんは今は北杜市在住、U子さんは東京都民、お二人とのつながりは仕事で度々ご一緒だったほかは「猫」好きという共通の趣味?があるから。ある日、U子さんは軽井沢駅でお出迎え、Uさんは北杜市から車で二時間かけてやってきてくれた。Uさんはアクティブでどんなド田舎でも車を飛ばして颯爽とこられるので、今回も素敵な車が我が家のジトジトした枯れ葉の堆積したおばけのでそうな森まで来てくれた。彼女は自宅で留守番している猫が心配なので、その日の夕方、来たときと同じように颯爽と帰っていった。

そして残ったU子さんとは積もる話で夜更けまで語り合い、次の日もずっと様々な話が尽きなかった。話している以外は眠って、起きるとまた話して、時々食べてはまた眠る。この森でこんなに喜んで暮らしてくれる人がいようとは思ってもみなかった。残念なことにはずっと雨に降られて、輝く日の出と見事な夕焼けを見せられなかったこと。

話の大半は猫の話。猫嫌いが聞いたらなんてバカなと思うかもしれないけれど、U子さんが私の猫たちを見ていると色々思いつくことが多かったらしく、帰宅してから猫のトイレと猫砂を送ってくださった。

私はうちのコチャとのんちゃんのトイレに悩まされていた。コチャはいい子でちゃんとトイレで用を足すけれど年を取りすぎていて然るべき場所がわからない。自分はトイレの中で用足しのつもりが、あまりにもトイレの縁ちかくで行うので盛大に縁を飛び越えて外に漏れることがしばしば。だからトイレの外側に防水シートを張り巡らすだけではだめなことが多い。毎日愚痴をこぼしながら後始末。

のんちゃんは元のらだからトイレでいたすことはあまりなかったはず。いつも私を自動ドア開閉係として夜中でも外に出たがる。自分のトイレは切羽詰まったときにしか使用しない。

それをU子さんが見て、自宅で余っていると言ってトイレを送ってくれることになった。昨日一つ、もう一つは少し遅れて届くという。

先に届いたのは獣医さんが考えたというトイレ。今まで使用していたトイレより縁が高い。足腰弱ったコチャが乗り越えられるかどうか心配したけれど、難なく乗り越えて使い始めると、あれほど悩まされていた周囲への飛び散りがなくなった。添えられていた猫砂も今までの物とは全く違う強力な固まり方で。

これは盲点だった。私が長年使っていた猫トイレは今までの猫たちは普通に大丈夫だったし、コチャほど長命の猫がいなかったのでわからなかったこともあって、そのまま使っていた。けれどコチャは本当に長生きで、人ならばもう100歳はとっくに超えているはず。不自由な後ろ足がヘナヘナするのを踏ん張って餌を食べているのを見ると愛おしくなる。まさに老々介護の現場がここにあるのだ。どんなにトイレを汚しても誰が叱ったり出来ようか。

でもU子さんのお陰で目が醒めた。せっかく北軽井沢まで来てくれるひとたちがいるのに猫のトイレのニオイがしてはまずいのは重々承知のこととはいえ、対策を怠っていたのは私の過失。動物を飼っている人たちは慣れていて気にならないと言ってくれるけど甘えてはいけない。

ついでにもう一つ尾籠すぎる話ですが・・・読むと私の車に乗れなくなるけど。

コチャがこんなに長生きするのには驚いている。数年前からもう駄目だと何回思ったことか。次の日には私のベッドの横にコチャが死んで横たわっていることに違いないと思うこともしばしば。具合が悪くなる度に動物病院で点滴をしては栄養補給。しかし餌を老猫用に変えたら少し持ち直していた。それでも危機はしょっちゅう訪れた。

車で北軽井沢に行くときに必ずケージの中で催すらしくその都度大騒ぎ。それで考えた。もしかしたら普段便秘がちなのでは?

お腹を触ると硬いことがしばしば。トイレで踏ん張っても硬いものが少し出るだけ。それなら毎日車でそのへん回ればいいのでは?

この作戦が見事に功を奏して、いまや彼女のお腹はすっきり!毎日もりもり食べてヘナヘナした足もかなりしっかりと立てるように。毛艶も改善。出すことがどれほど大切かを痛感した。みなさんも食べるより出す方に専念したほうがいいとまあ、余計なお世話だけど。

最初から最後まで尾籠で申し訳ない。











2024年7月22日月曜日

介護の現実

 今年も北軽井沢合宿の準備の手始めとして長野原町役場にホールの使用申し込みをしたけれど、キャンセルすることになった。

毎年北軽井沢には10人くらいのアンサンブルのメンバーが訪れる。私も楽しみにしていたけれど、やはりここは軽井沢よりも来るのに時間がかかるから皆には少し負担ではないかと思っていた。それでも毎年陽気なお客さんたちと会えるのは大層楽しかった。けれどそれが参加者の減少で急遽東京近隣の場所でということになった。なぜかというとこのアンサンブルが始まって以来何年になるかしら・・・

若々しかった生徒たちももはや中年または中年過ぎてきて、私といえばもう後期高齢者。本当なら猫と日向ぼっこしながらうつらうつらして一日過ごしても誰にも文句は言われないはず。なのに、まだこうして若者と交わっての仕事があって、それ自体は嬉しいものの体も頭もポンコツ。皆さんまだまだイケるなどと世迷言を仰るけれど、とっくに廃棄物のレベルになっている。しかしメンバーは長い間やめないで続けてくれてありがたい。ずっとほとんど同じメンバーで練習を重ねてきたので時々すごくいい音がする。

音楽教室の発表会に向けて毎年最後の二回と合宿と3回の練習のお手伝いをしている。合宿は練習もだけれど、一緒に飲み語り学生時代のように楽しい。それが今回できなくなった理由の一つには介護の問題が浮上してきた。ちょうどご両親や兄弟などの介護が必要になる年頃になったメンバーは泊りがけでの外出ができなくなってきているというわけ。そんなことで遠い北軽井沢は都内近隣の日帰り圏内に変更となった。

私はもう両親を見送っているけれど、かつては病院の母のベッドの隣の椅子で寝てそのまま仕事場に行くというようなこともあった。私の兄弟はたくさんいるから持ち回りで介護ができたのがラッキーだった。一人での介護はとんでもなく大変にちがいない。その次代は逃れられない家族としての努めになるけれど、どうして毎年高い税金や保険料を支払っているのに負担が軽減できないのだろうか?

働き盛りでようやく地位も確立できた人々が介護のために仕事を降りなければならないなんて信じられない。そのための施政もできないくせに自分たちの裏金作りはしっかりと無税で確保するなんて、これを人非人と言わないでなんという。

母の病室では音が出せないから、練習のためヴァイオリンを横抱きにして左手だけのお稽古しかできないけれど気は心、練習をしたつもりになる。こんなことも今思えば懐かしい。母がこの世にいただけでも幸せだった。子育てと介護がこんなに大変な国って、他にあるのだろうか。

私の友人は子供が生まれてもオーケストラの仕事をやめなかった。そのために毎日練馬から横浜の方までヴァイオリンと子どもと荷物を持って子供を預けに通っていた。それから仕事に行き、帰りも演奏会場から子供を引き取るためにどんなに遠くても通っていた。

例えば公共の会場だったら保育室を設けるとか、どこか近くの育児支援をする施設を作るとか、大企業は必ず女性社員のために保育施設を作るとかできないものかといつも考える。オリンピック会場などには建設費を惜しまないのに子供にはケチでは人は育たない。海外への外面だけ考えて派手な施設をこれみよがしに建設して、イベントが終わったら取り壊すなどは甚だしい浪費。

介護の現場の厳しさは当事者でないとわからない。ろくな援助もないのに親を介護する人が現場を放棄したり自殺したりすれば非難轟々、議員さんたち、ご自分の親御さんはどうしてますか?ちゃんと介護してる?もちろん裏金で立派な施設に入れてらっしゃるでしょう。

年取ると怒りっぽくなるというけれど、毎日憤慨することで元気でいられるような、これも狙ってのことでしょうか。お陰様で毎日怒っていたら最近少し元気になりました。

うちの猫のコチャも最近すごい!数年前、もうだめだと思った時期があったのに餌を変えて便秘を治したらそれはもうびっくりする回復ぶり。やはりお腹にものを貯めるのは良いことではないようです。














2024年7月21日日曜日

ファスナーを開ける猫

 のんちゃんという元野良猫の頭の良さは驚き。

先日は高速道路でナイロン製の網を食い破って猫のキャリーバッグから脱出したことは前回のnekotamaで書いた通り。私は今回やっと健康が回復したので北軽井沢に少し長めに滞在した。先日のハプニングの経験から今回はコチャのバッグにのんちゃんを入れて、コチャは新しくプラスチック製のケージを使うことになった。

コチャの大きさに今度買ったプラスチックのケージがぴったりだったので。行きは良かった。のんちゃんも文句を言いながらもなんとか網は破かれずに澄んだ。それではと帰りの入れ物も同じものにしたら、家から出て5分くらいのところでのんちゃんの頭がヌッと出た。あれっと思う間もなくコチャが長年愛用したキャリーバッグは使えなくなった。

のんちゃんはキャリーバッグのファスナーをやすやすと開くことに成功したのだった。まいった!どうやって学習したかというと、前回網の目を引き裂いての脱出は相当な体力を使ったものと思われる。たまたまファスナーの引手の部分に爪が届いて引き下げたら開いたらしい。そこをさわればなんとか開くということがわかったらしい。

あっけなくファスナーを開けられてしまったのは浅間牧場の交差点。車を牧場の駐車場に入れて考えた。今コチャが使っているプラスチックのケージはのんちゃんには小さいけれど、これに入れるしか方法はない。窮屈で可哀想だけど交換しよう。

慎重に逃げられないようにコチャを予備のバッグに入れる。空いたところへのんちゃんをガッシと捕まえて押し込む。近くを通る車からの視線を感じる。いったい何をしているのかと見ている。奮闘の末二匹はケージ交換終了。やれやれ

この数時間前、Y子さんからのお誘いで軽井沢の大賀ホールへコンサートを聴きにいった。マチネーだったのでお昼ご飯をY子さんの家で頂いて、そこから徒歩でホールまで行った。梅雨明けの日差しはもう強烈なのに木陰は涼しい。気分よく散歩してホールに到着。やはり軽井沢は素敵。特にこの界隈は美術館やコンサートホールが並び、賑やかな駅前の雰囲気とは別世界。北軽井沢の雑木林もいいけれど、ここに来ると充実した人生を送ってきた人々が古くから好んで作り上げた特別な別荘地の感じがする。

私のように馬を飼いたいというので山を探していた野生人とは人種の違いを感じる。北軽井沢では熊の話は聞かないけれど、雑木林には様々な動物がいて最近はイノシシが散歩しているとか。しかも川沿いに親子連れで歩いているというから自宅敷地内に川が流れている我が家も安心できない。それで猫たちも表に出すことができないので、猫用の小屋を作ってあげることにした。

玄関横に掃出し口があって猫の出入り口にはぴったり。そこから外に金網の小屋を作ってせめての外気を吸わせるという計画をたてた。近所に木工細工をする人がいてお願いしてあるけれど・・・彼に頼んだ表札は二年越しでまだ出来上がっていない。これも計画倒れになる可能性もあるかも。

さて軽井沢の大賀ホールでのコンサートはウイーンフィルの元コンサートマスターのライナー・キュッヒルさんのヴァイオリンリサイタル。

ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ8番から始まった。ブラームス「雨の歌」ショスタコーヴィッチ、プロコフィエフ、チャイコフスキー・・・至福のときだった。

輝かしく端正で豊かで、幸せに満たされたコンサートだった。ここ大賀ホールは音響が素晴らしい。私も1昨年弾かせてもらったけれど、ステージのどの場所で弾いても音が変わらない。本当に心地よい。

そして家に帰ると待っていたのは二匹の猫。お腹をすかせて食事を摂ると立派な排泄物を揃って産出、翌日帰る予定だったのを急遽「今」帰るに変更。こんなチャンスはまたとない。いつも車の中でトイレシートを取り替える羽目になって情けない思いなのに、今日はその心配がない。

そろそろ日が落ちる、高速入り口まで明るいうちにたどり着けたら楽だから、大急ぎで家の片付けをして猫を車に乗せて発車、でこの文章の最初に戻るとファスナーの話しに繋がります。

帰宅するや二匹の猫はすっかりくつろぎ、のんちゃんは早速ご近所さんを訪問に出歩いている。梅雨が明けて暑いけれどやはり自宅がいいらしい。北軽井沢は前の持ち主のノンちゃんから引き継いで6年、あと4年持てばいい。体力的にはそろそろきつい。運転も大変。山を降りて軽井沢に居を構えるとなると先立つものがない。千葉県の海辺の家に引っ越してもいいかも。やはり私は野生の血が濃いから自然の中に住みたい。さあてね。









2024年7月10日水曜日

のらの脱出

北軽井沢で病後のリハビリ、清浄な空気と溢れる緑に目の保養を終えての帰り道、高速道路でハプニングが。ほんと、死ぬかと思った。

最近は老猫のコチャはすっかり車に慣れておとなしい。けれど新入りのノラ改めのんちゃんは一向になれることがない。

人のノンちゃんは北軽井沢の家の前の持ち主、ノラはその後継ぎとしてノンちゃんのお名前を頂いて平仮名の「のんちゃん」とすることにした。白黒模様の艶のある毛並み、一見大人しげで美人だしほっそり優雅な物腰、いかにも可愛げに見える。ところがこれが恐ろしく気が強く感情が激しい。しかも賢い。

長年野良で生き抜いてきただけのことはあって、並大抵のことでは我慢することはない。思ったことは必ず押し通す。地域猫として数件の家を渡り歩き可愛がられてきた。艶々した毛皮には傷も見当たらない。外見は全く良いとこのお嬢様。声は高く澄んでいて決して大声を出さない。

ところがこの猫は人の気持ちを見抜く。こっそりわからないように出かける前の日に荷物はほとんど車に運び込んでおく。出かける前から何気なく最後の積荷を運び込むけれど、そのあたりからもう状況は彼女に筒抜けになっている。絶対にケージに入りたくない!という意志がオーラとなって見える。幸い猫には急所があって、首筋を掴まれると身動きがとれなくなる。そこを掴んで乱暴にケージに押し込めファスナーを閉じる頃には私はハアハアと荒い息を収めるのに大変。まずは私の勝ち。

前回ケージのファスナーを開けてのんちゃんは脱出、高速を降りてからだったからすぐに対処できたけれど、今回はそれを高速上でやられてしまった。どうやってファスナーを開けたのだろうか?たぶん最後の止め方にわずかに爪をいれる空きがあったのだろう。

もちろんファスナーは前回のこともあるのでちゃんとしまっていることを確認している。ケージをシートベルトでしっかり固定。しかし今回の彼女の騒ぎ方は前回を上回っていた。なにがなんでもこんなところに入っていたくはないという彼女の強烈なアピールで車内は大騒ぎ。途中の点検で見たところ、底に敷かれたトイレシートはずたずたに食いちぎられていた。

そろそろ高速の出口が近くなったころ異変が。ひときわ大騒ぎがあってやっとそれが静まったと思えた頃、私の左肩からぬっと猫の顔が!あわわわわ・・・・なんで?どうしよう。

猫が大人しく座っているわけがない。しかものんちゃんは私の膝が殊の外お気に入り。膝に乗られたら運転できない。とりあえず速度を落とし左側の走行車線に移り75キロで走っている軽トラックの後ろにつく。猫はと見れば物珍しげにフロントガラスの景色を眺めている。眺めながらも私の膝に座ろうとする。しっかりとのんちゃんの体を左手で固定した。

細身でありながら長年の野良生活で鍛えた彼女の筋肉は強靭で、激しく逃れようとする。そうさせまいと抑える私。ああ、どうしよう。路肩は狭く車を止めるのは無理。その時、三芳パーキングエリアがあと13キロと標識が出た。13キロ・・・とにかく走ってたどりつけばなんとかできる。

そこからは私の持っている全神経と筋肉が悲鳴を上げるほどの恐ろしさだった。猫が暴れる・・必死に抑える・・車がふらついてあわや・・・

外から見たらふらつく車でなにか異変が起きていると見えたに違いない。トラックが横に並んで少しの間並走している。しかし前の軽トラが75キロで走っているので追い抜いていった。軽トラがのんびりと走ってくれてよかった。

三芳のパーキングについたときには心底助かったと思った。のらのケージを見たらファスナーを開けたのではなく、ナイロンの硬い網目の部分が僅かに破られていた。こんな狭いところからどうやって抜け出したのか。しかしそれからが問題で、一体この猫をどうやって壊れたケージで運ぶのか?

いつもなら段ボールが積んであるのに今回は身軽に出たのでそれもない。クーラーボックスはあるけれど猫は蓋を閉めたら窒息してしまう。しばらく思案した結果、高齢で最近ほとんど身動きしないコチャのケージにのらを入れ、コチャは壊れたケージでも決して抜けられないとみた。

入れ替え作業は油断できない、高速の駐車場で逃げられたらもうこの子は生きて帰れるとは思えない。決して手放してはいけない。

まずコチャを座席に移し、その間しっかりと抱きかかえていたのんちゃんをコチャのケージへ。幸いコチャのケージはしっかりしているからこれはこわしようがない。のんちゃんを入れてしっかりファスナーを閉めた。ボロボロになったのんちゃんのケージへコチャをいれると大人しく入ってくれた。コチャはやっぱりいい子だ。

しかし猫が暴れたくらいで壊れるほどの粗悪品、売っていたペットショップに一言カスハラしておかなければ。か弱く見えるのんちゃんは実はものすごく凶暴で、私にさえも噛みついてくる。異常なまでに意思を通す。強烈な愛情深さと賢く人の心を読み取る力、時々猫ではないのではと思ってしまう。

事故を起こさないで本当に良かった。思い出すたびぞっとする。生まれて初めての事故が大好きな猫によって引き起こされたら私は絶望してしまう。ここ数年の悲しい出来事の上事故まであったらもう生きてはいけない。でも誰かが私を守っていてくれるのを感じることがある。

のんちゃんに似た私の母親かもしれない。


























2024年6月30日日曜日

土砂降りの中華街

 悪友のM子さんの誕生祝いをしようと約束した日は、線状降水帯が発生したという素晴らしい日だった。まだ西日本でと思っていたけれど、敵もさるものあっという間に関東地方も土砂降り。われら病み上がりのか弱い二人。元町・中華街の駅に降り立った頃には横殴りの強い雨が。ゆくもかえるも地獄、それなら行ってしまおう。

小さなお店はたくさんの有名人の色紙が壁に貼ってある。どうやら野球関係者?そのあたりの知識のまったくない二人はありがたい色紙にも目もくれず注文をする。しいたけや中華風高野豆腐?の甘辛い炒め物、ピータン、フカヒレスープ、うにの茶碗蒸し、など普段あまり食べない料理につられて食べる食べる。飲み物は慎ましくノンアルコール。ずっと病院食の薄味に慣れていたけれど、濃い味が殊の外美味しい。

すっかり満足してさて、表を見れば、この中を歩いて帰るの?誰に相談するまでもないけれどシャワーのような素敵な大量の水が天から降ってくる。しょうがないか、いつまでもお店に居座ることもできないし。

とにかくコーヒーでも飲もう。水たまりをものともせず駅に近い方まで戻ると、ああ懐かしやヴェローチェなど数件のカフェ。そこでやっと一息ついていると続々と客が入ってくる。入り口近くは水浸しで店員が時々モップで拭いている。慌ただしい誕生会となってケーキもなかったけれど、実現できてよかった。なんたって「俺達に明日はない」だから。誕生日を祝えたことだけでもラッキーなの。思い出に残る誕生日にはなった。

しばらくすると雨は小降りになってきた。しかし、無鉄砲な二人のビショビショ美女がこんな高齢者だとは誰もしらないのが愉快。生命力強いのかもね。メニューの中で気になる食べ残しがあったからまた来ましょうと言って、この食欲がある限りもう少し生き残れるかな?


2024年6月3日月曜日

泡沫の夢

 いつも猫に起こされるのは夜明け前。もうすぐ夜が明ける頃お腹が空いたといって鳴き始めるから、渋々起き上がって少し食べさせてもう一度眠ろうと思うけれど、もう眠れない。それでまたしばらく起きて窓の外を覗いたり白湯を飲んだりしているうちにあっという間に夜明けがきて、そのまま起きてしまうからいつも睡眠時間が短い。

時々まだ眠りたいと思うときには布団に潜り込んで横になっていると、しばらくして眠っていることもある。そんなときに夢を見た。昨日のこと。

つい先ごろまで仕事をしていたからその仲間たちがぞろぞろ登場してきた。どの顔もニコニコしている。ああ、懐かしい仕事仲間たち。本当に楽しかったのに、ここ2年半ほどの擦った揉んだですっかり忘れていた。

同世代もいたけれど、大抵はわたしよりずっと年下の息子や娘の世代なのに、なんとも愉快に過ごしてきた。私は本当に幸せだったのだと改めて思い出した。その仕事仲間にマンドリンのSさんがいて、彼女とは仕事でもプライベートでも仲良くしてもらっていた。

毎年東京マンドリンクラブのコンサートが千駄ヶ谷の青少年センターで開かれて、それを聞きに行くのが恒例だった。去年はあまりの忙しさにいかれなかったけれど、色々解決して余裕ができたので今年は聞かせてもらった。マンドリンの音色は弦を指で細かく震わせるトレモロで演奏するので、不思議に心揺さぶられる。

今年の曲目は前半はクラシック、後半は越路吹雪特集。

前半 プーランクの「牝鹿」 シューベルト「交響曲 未完成」

マンドリンの音は普通の弦楽器よりもボリュームが出ないけれど、ビシッと決めるときには面白いように決まるのだ。そんなことを考えながらのんびりしていた。シューベルトの二楽章に差し掛かり、そういえば三楽章ってどんなメロディーだったかしら?思い出せない。

ついに私もボケたかと思っていて気がついた。思い出せないのは当然、だから「未完成」の名がついたのだ。この曲は二楽章までしかないのだ。いくらオーケストラから遠ざかっていたとはいえ、こんなことを考えるようではもうおしまいなのだ。苦笑い!

後半は思い出の越路吹雪特集。越路さんとは「題名のない音楽会」でお目にかかったことがある。リハーサルに現れた彼女は顔色が悪く髪の毛ボサボサ、声も出ない。「これが?あの?」越路吹雪?有名なあの人なの?

本番当日心細げに佇んでいる彼女。しかし、舞台袖でスタートの声がかかった途端、オーラが噴出した。あの情景を思い出すたびに私は胸がいっぱいになる。そこには輝く火の玉のような大スターがいた。あっという間に私達を虜にした。

マンドリンコンサートの演奏者の中には、リズム担当のゲストとして以前スタジオやテレビ局などで一緒に仕事をしていた人たちがいて、彼らの上手さには舌を巻く。パーカッションやベースの小気味よい決まり方が素晴らしい。こんな人達と仕事をしていたのだ。なんて素敵なことだったのか。終わってみてやっとわかったこと。

外は土砂降り、雷鳴が轟いていたらしい。表に出ると小雨の中、球場から出てきた人たちとコンサート会場から出てきた人たちで歩道はいっぱいでノロノロ進む。目と鼻の先にあるかつて勤めていた音楽教室で私の生徒がピアノ合わせをしている。時間が間に合ったら聞きに行くからと言ってあったのに、終演が伸びたのと人混みと悪天候で遅くなってしまったので諦めた。タクシーも捕まらないし、徒歩では間に合わない。地下鉄で行くのはもっと無駄。

電車の窓には土砂降りの雨が叩きつける。最近私は電車に乗ると必ず席を譲られる。ずいぶん老けて見えるのだろうなと思う。2年半の嫌な時間を過ごしていたときは鏡に映る顔は般若だった。やっと自分を取り戻し始めたけれど、もう時間は戻らない。

姉が来て私の顔を見て「nekotamaちゃん、前に戻ったね」といってくれたから少しは元気に見えるのかな?やっと。

















2024年5月13日月曜日

プラシド・ドミンゴ プレミアムコンサート

 彼ももういい年だと思うから多少の衰えを感じるのは覚悟でコンサートにいったけれど、嬉しい誤算、声もオーラも変わりなく、東京文化会館大ホールの満席の聴衆からブラボーの嵐が巻き起こった。

私が彼の生の声をきいたのはずっと以前、彼の容姿はスラリとしていかにも若々しかったから数十年は経っているかも。私の音楽人生は聞くことから始まった。学齢前の頃からクラシック音楽は私の最高の遊び相手。親兄弟が学校や仕事に出かけたあとの空っぽの家にたった一人、ぽつんと残された無聊をかこちながらレコードを聞くのが日常。そのお供にはいつも猫がそばにいた。逃げないように私にぎゅっと抱きしめられて猫もさぞや迷惑なことだっただろう。

その頃レコードで聞いたのは古くはシャリアピン、カルーソーなどの昔の歌手たち、その後はブライトコッフなど、そしてディートリッヒ・フィッシャーディスカウ、ペーター・シュライヤーなどから後は肉声を聞いている。歌は人そのものが出す音だから、楽器に比べてより面白い。しかも声楽家はだいたい女たらし、美食家、わがままときている。男としての魅力満載でいながらジェントルマンでもある。こういう人は素敵だけれど、そばにいたら鬱陶しいかもなどと妄想を馳せる。私ごときにそんな男は寄っても来ないのに。

さて、今回のコンサートの顔ぶれは

 プラシド・ドミンゴ    モニカ・コネサ(ソプラノ)  マルコ・ポエーミ(指揮)新日本フィルハーモニー交響楽団

ヴェルディ:序曲「シチリアの晩鐘」が終わってドミンゴ登場。少しお腹周りが太ってはいたけれど、無理をしていたかもしれないけれど、歩き方も颯爽としている。第一声を聞いたときに驚きの若々しさに感嘆。最初から手加減せずに聴衆を魅了した。いったいおいくつになりますか?

聞き手は魅了されどんどんヒートアップ、おとなしい日本人も彼に翻弄されてスタンディングオベーション、後半は一階席は殆どの人が立っていた。私は二階席で良かった。そうでないと前の人が立ってしまって彼が見えなくなってしまうところだった。なんかオペラ歌手のコンサートというよりもロックバンドの乘りではないか。しかも客はほとんど中高年層。おしゃれをして母と娘で参加しているようなセレブ層など。珍しいね。

おかかをたっぷりかけた餌をもらった猫のように満足して家に帰ると、やはり疲れたらしく食事後すぐに眠ってしまった。あのパワーに対抗するには私はどうも齢を取りすぎたようだ。

新日本フィルの演奏が新鮮でチェロやビオラのソロがとても良かったことが嬉しかった。多分私のかつての友人たちの忘れ形見が演奏者の中にいると思う。もはやどこのオーケストラにも私の同僚だった人たちの姿はなく、次世代の活躍する時代になった。その血脈が音楽の中に流れてまた次世代につながり、西洋音楽が自然なものになる。今後は日本の文化に自然に溶け込んで世界は一つになる。そんな日がもうすぐそこに来ているのに他国では未だ戦争をしているバカどもがいる。これが悲しい。



















2024年5月7日火曜日

ヴァイオリンはもうやめるけど

体調が戻ってきた。

これは足の状態が良くなったということで、まずは復調の兆しと喜ばしい。けれど私はもう引退を決めている。ステージで死ねたら本望なんていうことも聞くけれど、それはひどくはた迷惑なことなのだ。ステージにたどり着くまでにどれほどの人たちの陰の力が必要か考えてみてください。

誰かがコンサートを企てるとする。まずは会場を決めてホールの使用状況を調べる。プログラムを決める。そのプログラムに必要な演奏者を決める。もし自分が主催者ならば曲目に必要な共演者・・例えばピアノ伴奏がほしいとか、カルテットならば自分の他にあと3人、もっと大編成のこともあって腕の良い共演者を集めるのは至難の業、売れっ子はたいていひどく忙しく希望日が空いていなかったり練習日が合わないとか、様々な障害が立ちはだかる。

やっとメンバーが決まって、大抵はそこからはマネージャーにお願いしてプログラムとチラシのデザインを決めて写真を撮ったり演奏者のプロフィールを集めて印刷が始まる。チラシが出来上がるともうあとには引けなくなる。ここまでに相当のお金がかかる。

一番楽なのは仲良しの共演者を作っておくこと。そうすると同じようなスケジュールができるからグループとして同じ動きもできるし、日頃から練習を重ねておけば多くの言葉はいらなくなる。以心伝心、楽器で会話ができるようになったらしめたもの。それでも揉めるのはいつものこと。以前私がしつこくチェリストに注文をつけてカルテットを潰してしまったことがあった。10年間も一緒にやっていたのに。これからもっと良くなっていくはずだったのに、その度合に対する熱意の分量が違っていたから。

揉めようが未完成であろうがコンサートの日は迫ってくる。眠れない、逃げ出したい。その繰り返し。しかしそうやって苦労しなければ永遠に上手くはならない。生涯の最後の日までうまくなったとは言えず死んでいくのが普通で、私ごときの演奏家は自分の限界を知っているからむしろ楽かもしれない。これが天才的な演奏家になるとプレッシャーは限界がない。

あのハイフェッツが自分に課したのは、演奏はそれ以前のものよりも進化していなければならないということだったと聞いたことがある。なんという厳しい生活なのか。長い目で見れば人は必ず上達していくとおもうけれど、時には体調や心のあり方で不調の事もあろうというもの。ヨアヒムが日本に最後の来たのは彼の引退の寸前で、一体どこが不満で引退するのかと思うほどの名演奏だった。もったいない。会場中の人が涙した。拍手が鳴り止まずハンカチで目を拭う人たち。でもそれが彼らの矜持と思うと、名演奏家はつらいと思う。レベルを下げることはできないのだ。

さて私の場合は引退するといえば皆さん喜ぶ。やれやれ、あのヴァイオリンをもう聴かなくてすむ。あれなら猫の声を聞いたほうがましだ。それは自分で一番良くわかっている。「そこはあたしの寝床なんです」と言って泣く丁稚ではないけれど、今までお付き合いしてくださって皆様、本当にありがとうございます。上等なお茶と羊羹をお出しして、お帰りにはお土産を差し上げたいと常日頃思っておりました。

で、ちゃんと今年で引退します。しますとも。だからヴァイオリンは古典の定期以来もう弾いていないのですよ。まだあと一回本番ありますからそろそろ準備しなければならないのに楽器を持つ気がしない。それなのに私の楽器は良く鳴る。下手くそな持ち主から開放される喜びでしょうか。時々指ではじくと素敵な音がする。この楽器にあえて良かった、としみじみ思う。楽器だけでなく今まで私に関わってくださった皆様、あなた達に会えて本当に幸せでした。

強情で頑固で意地悪で怒りん坊の私をよくぞ支えてくださった。御礼の言葉はどれほど言っても足りません。でもまだ死にはしないから(たぶん)今後ともよろしくお願いします。






































2024年5月3日金曜日

休眠期

 私はどうやら休眠期に入ったらしい。

今までの自分の活動パターンを見るに10年とか15年に一度大病をする。最初の病気の記憶は急性腎炎。ある朝起きると姉たちが大騒ぎを始めた。「nekotamaちゃん、顔どうしたの」どうしたと言われても元々不細工で美人と言われるような顔ではないけれど、大騒ぎされるような、そこまでおばけチックでもないだろうにひどいわ。と思ったらまぶたがあかないくらいのむくみが出ていたらしい。母が驚いて牛乳瓶に私の尿を入れて病院に走った。

結果急性腎炎、かかりつけの岸田先生というおじいちゃん先生が飛んできて私は絶対安静で寝かされた。優しい先生はいつも大きなカバンにいっぱい注射器や薬を詰め込んで往診してくださった。「入れ物が牛乳瓶だったから蛋白が出たと思ったけど、瓶のせいでなく本当に病気だった」と。おかゆと梅干しを食べ、タンパク質の多いものは食べてはだめ、当時はそう言われていたらしい。今なら体外に出てしまうのだから補うらしいけれど、初めての大病に大騒ぎ。

私としては痛みもなく好きなだけ寝ていられて、しかも嫌いな学校に行かなくていいからラッキー!だった。子供のくせに体を動かすのが嫌いで空想にふける毎日。天井の板の模様をじっと見ながらお話を作って楽しんでいた。

終戦後の当時の我が家の経済状態はどん底だったから母は大変だったと思う。1,2ヶ月はじっと寝ていたと思うけれど少しも退屈ではなかった。治って学校に行き始めると、私の授業の遅れを取り戻そうと女の先生が張り切って大いに迷惑した。その先生が大嫌いだったからで。

補講が始まっても私は断固拒否。大泣きに泣いて先生を困らせた。教檀で生徒の前で口紅を塗ったり、胸がやたらに大きく明いた服でなんか不潔!大嫌い、というわけで、先生も親もお手上げだった。その後もその先生が私にやたらと親切だったのは、親が地元の旧家ということだからと子供心にも嫌だった。未だにその手の不潔感が大きいのは、その頃からの感情の芽生えからかもしれない。

兄弟が沢山いて学校の先生よりも兄弟から教わることが多かった。結構な高学歴家族だったから家庭教師が何人もいるようで、授業で教わることはとっくに知っている。それでもなおその先生は私を目立たせようと、学芸会の始まりの言葉を言わせたり、運動会の入場行進の先頭に立たせたり、全く無駄に努力をしていた。

学芸会の挨拶は講堂の壇上で黙って突っ立っていいるだけ、入場行進は道を間違えて他のコーナーに突き進んで混乱を招いた。そのへんでどうやらこの子はだめだと諦めてくれたらしい。というより、3年生が終わって4年生となるときに担任が替わった。やれやれ、4年生からの先生は大好きで私はやっと学校が好きになった。

というように人生の節々の私の体調の変化で人生そのものが変わっていった。小学校の腎臓病のあとからは、それまで他の学友たちともなじまず学校嫌いだった私も楽しい小学校の高学年生活を送った。

中学校は間違えて良妻賢母育成のための女子校に入学、これもまた実につまらない中学生活。あまりにつまらないので同学年でヴァイオリンを習っているという人と共謀して、音大附属高校を受験、とうてい受かる見込みのないレベルのヴァイオリンの腕ながら、見事(?)合格。これからの人生がお花畑だった。

学長の有馬大五郎先生は体も心も巨大な人で、高校に現れると長い腕を広げて生徒たちを愛おしそうに抱え込んで廊下を歩いておられた。学校には校歌も規則もなくて、生徒たちはのびのびと明るく育っていった。この世の中に怖いものはなかった。少なくとも校内では。そして私は音大に進んでもヴァイオリンを練習するより本を読む時間のほうが長かった。

せっかく音大に入っているのにあなたはなんで本ばかり読んでいるの?と言ったのは高校受験をともにしたまり子さん。私は音楽家になるつもりで生きてきたわけではなく、その時々の気まぐれで音大に入ってしまったので、ここは遊びの気分。ここを出たらもう一つ普通大学を受験して真っ当な職業につくのが私の目論見だった。

そして卒業間際に母に「この次はどこの大学受けようかなあ?」その時の母の怒りは凄まじかった。子供の望むことなら何でも叶えてくれる母だったのに、そのときは怒髪天を衝く勢いで叱られた。「そんなにあちらもこちらもできないでしょ。一つ事をちゃんとやりなさい!」本当に音大ではただただ楽しく暮らしていたのでもうびっくり。しかもその頃には周りの大人達が私の進路を狭めていた。学生時代からエキストラでお世話になっていたオーケストラがそのまま私の職場となった。

音楽でお金をもらうということは生半可なことではない。お金をもらうからには絶対に手抜きはできない。生まれて初めて私は必死でヴァイオリンを弾くことになった。そして周りの人々が私を導いてくれて素晴らしい演奏家たちと引き合わせてもらい多大な影響を受けた。半べそをかきながら来る日も来る日も練習に明け暮れ、それまでの遅れを取り戻すために練習を重ねた。

当時は良い時代だった。オーケストラをやめてからも仕事は途切れることなく、そして私は大好きなアンサンブルを勉強するために多くの仲間達と夜中まで、時には早朝から練習を重ねていった。フリーになったのも自由に時間が使えるからという理由だったけれど、忙しすぎてフリーどころか寝る間も惜しいくらい。そして急性肝炎、狭心症などなどの病気にブランクを強いられては入院、通院を繰り返した。その周期がだいたい10年から15年くらい。最近は足の故障でここ2年ほど辛い。それもだいぶ良くなってきた。

今年は80才、何回目かの休眠期になりそう。毎日異常なほど眠る。つい数か月前までは4時間から5時間睡眠だったのに今や9時間ほども眠れる。人生の休息年。こうなるとまた新しい目論見が誕生する。時々こうした休息のあとで、なにかしら変わったことを知りたくなって挑戦してきた。若ければきっと長くてきつい旅に出たと思うけれど、今は体の無理が効かないので頭の体操、もう少し勉強しようかなんて思っている。なにを?さあ、なんだろう?そのうち目標が見つかるでしょう。


































2024年4月28日日曜日

恐怖のドライブ

いつも早朝というより真夜中に目が覚める。午前4時、雨は小降りで猫も二匹揃っている。野良は私が出かけるのを諦めたと思って油断している。ときは今。出かける前に老猫のこちゃのトイレを済ませないといけない。こちゃだけ車に乗せてそこいらへんを走り回る。ついでに24時間営業のドラッグストアで餌の買い出し。さて野良のトイレ事情はわからない。いつもは目が覚めると私にドアを開けさせてしばらく帰ってこないからそのへんでトイレを済ませるのだろう。そこで仲間の猫たちに出会うと昼ころまで帰ってこない。それでは渋滞が始まってしまうから可愛そうだが出発してしまおう。5時近くだんだん明るくなってきた。

野良は私に抱っこされてもまさかその後の苦難が待ち受けていようとは知る由もない。車のドアを開けると珍しそうに中を覗き込む。今だ!ファスナーを開けてあったキャリーバッグに放り込まれてしばらく理由がわからなかったようだけど、その後は猛烈に騒ぎ始めた。ファスナーがちゃんとしまっているかどうか点検して、よし、完璧。

このあとの騒ぎはその時から始まった。

仄明かるい道を走り始めると二匹の猫の合唱が始まる。野良は若いから高い声で「ニャン、ニャン」こちゃはどすの利いた声で「ガオーガオー」一斉に合唱が始まって、驚いたことにその後3時間半、途切れることがなかった。私は気が狂いそうになった。そのうち野良がキャリーバッグをガリガリ引きちぎろうとする。ネットになっている部分が切れるのではないかと心配になるほど。それが不可能と知って諦めても鳴き声は収まらない。

おかしいことに二匹の声の大きさと音程は車のスピードに合わせて上下する。スピードに合った声があることに気がついた。自動スピード検査機を積んでいるようだ。幸い野良はトイレを我慢できているようで、数回の検査でもセーフ。やっと高速をおりたと思ったら運転している私の顔の横に野良の顔が並んだ。仰天して思わずブレーキを踏んだ。一体どうやってキャリーバッグから抜け出したかわからないけれど、出入り口のファスナーをどうにか引きずり下ろして抜け出たらしい。しかしどう見ても猫が通れるほどの空き方はしていない。猫は液体であるという説は正しいらしい。

そこは[カフェ春木]の直ぐ側だったから駐車場に車を止めて、悪戦苦闘の末野良をキャリーバッグに戻しこんだ。ここのカフェには時々朝食時に寄るけれど、そのときはまだ8時になったばかり。開店は8時30分になっているけれど、ここのご主人はたいてい起きていないらしい。しかしその日は珍しく起きていたようで車の側まで降りてきた。「うちにきたの?」「違う、ごめん勝手に車停めて。猫が逃げそうになって」猫をキャリーバッグに押し込めるのに苦労していると「うちに来たのでなければいいんだ」まだ朝食の用意はできないよと言いたいらしい。寝起きのご主人は犬派だから猫に興味はない。

ここまで来るとあとは難所の山道。急カーブが続く。そこでコチャが気分が悪くなった。もうすぐ家に着くというのに。家に入ると冬中切らずにおいた床暖房のほんわかした温かさがありがたい。

コチャは毎度来慣れた家、しかし野良は見たこともない家に連れてこられてびっくり。しかしおどおどしないのはさすが頭脳も度胸もあるうちの野良。真っ先に階段を見つけてロフトの探検に出かけた。その間年寄り猫のコチャはしっかりと野良の監視について歩く。一通り家の見取り図を頭に入れたらしい野良は自宅から持ち込んだ彼女専用のベッドに収まった。

やれやれ、外は雨で気温9度、肌寒くまだ新芽も出ていない森の木々は裸で震えている。その中でひときわまっすぐに丈高くそびえて白い花を咲かせているのは辛夷。そこに鳥が飛んでくる。声の感じでは歌がまだ下手くそなうぐいすなのに、見た感じは一回り大きい。なんという鳥かしら。生き物がいるのは楽しい。周辺の家も森の中もほとんど人の気配はなく、僅かに連休に備えて家のメンテナンスを頼まれた業者の車が通り過ぎるのみ。

疲れていても食い気は健在、御代田の蕎麦の名店「地粉や」に行ってみよう。道も空いているし連休前のこんな寒い日なら混んではいまい。11時半ころ駐車場に入っていくと空きがある。ラッキー!店にはすぐに入れて念願のクルミそばをいただく。その後は佐久平に車を走らせて新しいカインズホームを探した。けれど以前にも行ったはずが見当たらない。おやおやどうしたものか。とりあえず新人野良が心配なので家に帰ろうと車を回すと、なあんだ、近くの別のところにあったではないか。

あまりの広さに圧倒されて疲れ切った私はおそばのエネルギーだけでは持たないから帰って眠ることにした。二匹の猫は騒がしく鳴いて餌を要求したあとぐったりと寝込んだ。しかし野良の様子が気になる。家を出たのは夜明け、その前に排泄したのは何時ころかしら。見るとお腹がやけに張っている。新しく用意された彼女専用トイレはずっと小綺麗なままで心配になる。時々部屋を徘徊してそのトイレまでいくものの、用は足せないらしい。

そのうち夜になった。しかし彼女のお腹はパンパンに膨れたまま。これはおお事だ!もしこのまま出ないと尿毒症に。明日朝帰らないといけないかも。しかし近所にこのあたりで有名な動物病院がある。万一のときには駆け込もう。でも電話番号を知らない。いざというときには地元の人に訊こう。

その時ふとひらめいた。いつもの野良は外がトイレだから土の上にならできるかも。クリスマスローズのために買い込んだ土があるじゃないの。もったいないけど試してみよう。

その時ほど自分を「天才」だと思ったことはない。クリスマスローズの美味しそうな土のトイレに早速入っていった野良はめでたくことを済ませて、二人で安堵のため息を漏らした。ああ、良かった。これで明日から花作りに専念できる。

次の日は絶好の花作り日和、シャベルと落ち葉掃きの熊手を持ち長靴を履いての作業は初めは簡単に思えた。しかし30本近い苗を植え終わったときには足はガクガク、傾斜地で転びそうになってよろよろ。最後の水やりはとてつもない重労働に思えた。もう食欲もなく近くのコンビニで買ったお惣菜を食べて二匹の猫と爆睡した。

夜中に同じベッドで寝ていた野良を蹴ったらしい。朝起きると私を嫌な目で見ている。近づくと逃げる。しかも猫同士の確執も一向に改善されていないから仲裁に駆け回る。私はもう疲れ果て、帰路についたときには心底ホッとした。

今回初参加だった野良はまだ正式の名前がない。今回思ったのは、北軽井沢の家の前の持ち主の田畑純子さんの通称はノンちゃん、そのノンちゃんのお名前をいただこうと思う。年齢からいって野良は私の最後の猫となる。本当はコチャが最後のつもりだったけど野良が来るようになって、それなら飼えるだけ飼ってみようと覚悟を決めた。

賢く情が深く人の気持ちを素早く察知してしかれば二度と同じことをしない。真に飼い主とは正反対の利口者。ノンちゃんも賢くおおらかで勇敢な素晴らしい女性だった。天を仰いでお許しを乞うたら優しい声が「いいわよ、nekotamaさん」と聞こえたような気がした。
















猫は宇宙で一番偉いのだ

野良は自慢じゃないが知能が高く人の気持を読み取る術に長けている。私が北軽井沢に行くときにこっそりと旅支度をするのはすぐに分かってしまう。「また私をおいてどこかに出かけるのね」それがわかるとぷりぷりしながらさっさと近所のスペアの飼い主さんたちに媚を売りに行くのだ。

 出かけるときは前日から車に荷物を積み込んでいつでも出発できるようにしてある。今回は北軽井沢にいよいよイングリッシュガーデンを出現させるための試み。

少し前に花郷園で買い込んだクリスマスローズをすべて積み込んだ。きっちりと鉢を並べるとやっとどうにか全部いれることができた。やれやれ、今回は猫が二匹になり、久しぶりの遠出なので荷物が多いところにクリスマスローズが20本、それに添える花が10本ほど。車の中はジャングルかと思えるほどの植物の葉が茂っている。

いまごろ車の中は植物の息でムンムンしているに違いないから、乗り込むときにご挨拶をしておかないと意地悪をされそう。問題は二匹目の猫をケージにだましていれるのに成功するかどうか。とりわけ賢く人の気持を読むのができるので一筋縄ではいかない。昨日から置かれている新しいいケージのにおいを嗅いでいる。なにか察しているかもしれない。しきりに膝に乗ってくるのを邪険にしたらとっとと外の空気を吸いに出ていってしまった。

花郷園で株を選んでもらって買ってきた花はいずれもしっかりとした株で、1週間ほど自宅のベランダや浴室で暮らしていた。私は20鉢ほどと言ったのにそれよりもたくさん入っていた。北軽井沢の家はおとぎ話の魔女の家のように小さいのに、庭はとても広い。私には手に余る広さで、前の持ち主のノンちゃんは草木がはびこるままにしていたからイングリッシュガーデンは実現できるかどうか。庭の写真を見せてこんなところですと言ったら、結構理想的な環境ではないかと彼女はいう。花郷園の美しい社長が張り切って選んでくれた株はすごく健康で茎がしっかりしている。

植物を飼うのは初めてなので北軽井沢に移植するまでに枯らしてしまうのではないかと心配だったけれど、とんでもない。全てピンシャンと天に向かって伸びている。しっかりした茎がたくさんの花を支えている。どうやら直射日光は苦手らしい。ベランダで毎朝たっぷり日を浴びているもの、室内で網戸越しに朝日を4時間ほど浴びるもの、南側のベランダで日没まで必死で日光浴をしているものを比べると、室内網戸越しが一番お好きなようだ。南側ベランダが一番辛そうにしている。

時々場所を変えて観察するに段々彼らの性向がわかってきた。お日さまは少しで弱めでいい。お水は乾ききったらたっぷりと飲みたい。毎日でなく数日おきが良い。なんて手のかからないお花たち。

これを書いたら八代亜紀さんの・・・肴は炙った烏賊でいい・・・なんていう歌詞を思い出した。

私は植物の気持ちがわからないからこれから勉強していかないと。わけもわからずあじさいやダリアなど買ってきて植えては枯らしていた。今日から手に豆を作って畑を耕すのだ。しかし天気は悪そうで一日目は雨らしい。木・金曜日が晴れそうなのでそこで一気に。行けば美味しいおそばが食べたくなる。

ここ数ヶ月北軽井沢にはとんとご無沙汰だった。美味しいおそばが食べられなく飢餓状態になって自宅付近の蕎麦屋に入ってがっかりした。蕎麦はまだしも蕎麦つゆが真っ黒でしょっぱくて半分も食べられなかった。信州で食べるお蕎麦とは大違い。都心で食べる美味しいお蕎麦は味が良くても高価で少量、ざる蕎麦は食べてもお腹が空く。いっそのことザルまで食べたくなる。

ざる蕎麦を生まれて初めて食べたとき、まだ子供だった私はなんて不味いのかと驚いた。こんなものをどうして大人たちは美味しそうに食べるのかしら。

音大に入って校舎の前に日本そばやさんがあった。私はどうしてもほしい弓があって、その頃は少しずつスタジオの仕事などもやっていたので自分で買おうと思った。昼ご飯は一番安いもりそば。来る日も来る日も、もりそばを食べていて

食べていたらその後はもりそばが好きになった。特に野尻湖周辺の山の中で食べたそばがきなども美味しかった。そして最近時々行くのは御代田にある地粉やさんという蕎麦屋。最初の頃は何回行っても地粉やさんのおそばにありつけなかった。あっという間に売り切れてしまうか定休日だったりして。

できれば月曜日に北軽井沢に行きたいのだけれど、野良はたぶん旅慣れていないから彼女のご機嫌次第。こちらはラッシュに走るのは嫌だからできれば早朝か昼過ぎに出たい。そのときに家にいてくれればいいけれどいないときには時間がずれてしまうと困る。なぜそれほどまでに猫ごときに気を使うかというと、ひたすら猫に嫌われたくないという弱みがあるので。

月曜日には私の気持ちを察して野良は非常に神経質になっていた。私もイマイチ出かける気持ちにゆるぎがある。二匹の猫を積み込んで大量のクリスマスローズに囲まれて運転することに怖気付いている。とにかく植物はどちらかというと苦手で。今回ばかりは車の小ささが不便に思える。

私が出発を諦めたかのように思えるまで呑気そうな顔を装って、猫に本心を悟られてはいけない。ここが犬の飼い主さんとの違いなのだ。ワンちゃんの飼い主は犬に言うことを聞かせるのにためらわない。しかし猫の飼い主はあくまでも猫の機嫌取り。卑屈になってしまう。宇宙で一番えらいのは猫であって、飼い主はしもべでしかない。

その日は夜になってやっと野良の疑いは晴れたらしく、夜の出発はこちらもありがたくないから翌日に延期となった。


















2024年4月18日木曜日

野良に噛まれる

 コロナを患って予後がよくない。なにか体力のすべてが消えてしまったような、生きる気力をなくしたような、これで何歳まで生きなきゃいけないの?みたいな虚無感に襲われる。眠ってばかりいる。

家にいるから猫が喜ぶ。特に野良はまだ元猫との関係がギクシャクしているから私がいることで保護されて安心できる。家に来始めた頃から野良はすごく変わった。それまで遊ぶということを知らなかったから、猫じゃらしでじゃらしても怯えてしまう。ボールを転がしても意味がわからないらしく追いかけようともしない。ちょっと手を頭の上にかざすと逃げ出す。遊んでいる余裕はなかったのだ。ひたすらその日食べるものと温かい寝床を求めてうろついていたのだから。

家に入るようになってから3ヶ月ほど、私の膝によじ登ってくるようになった。しっかりともたれかかって嬉しげに喉を鳴らす。そのうちだんだん感情が高まってきて・・・がぶり!

脛に歯型ができる。腕を噛まれる。彼女の精一杯の愛情表現なのだ。そして最大級の噛み傷ができたのが数日前。たぶんお腹が空いていたのだろう、しきりに私の膝で腕を甘噛してきた。そのうち興奮状態でだんだん激しくなったので、床におろした途端スネをがぶりとやられた。傷が深いのはよくわかった。

翌日スネが腫れ上がったので病院へ行った。最近見つけた家近くの病院。最初に行ったときに先生が気に入って私のホームドクターになってもらおうと思った。そのときは患者さんが大入りだったけれど、その日はがらんとして患者の姿はない。見回せば診察室やリハビリルーム、処置室など設備は整っているのに医師は一人、看護婦一人受付二人と人手不足状態。どこも厳しいのだ。

そして先生は先日の楽しげな人でなく、少し憂鬱そうな初老のおじさん。あらあら、残念、お疲れのようだ。脛に傷持つ身の私はふくらはぎがだんだん腫れていくのが憂鬱。猫の爪や牙は鋭く、特に若猫は力任せに襲ってくる。近所中をうろついて泥の中を裸足で歩くから爪のカーブの裏側や牙には毒がある。猫による傷は「猫ひっかき病」と言って恐れられている。

前日の傷はすでに10センチあまりに赤みが広がっている。その傷を某研究所の医師に見せたら「腫れたら危ないから必ず薬を飲むように」とアドバイスを受けた。その先生の専門ではないので他の科で受けるようにと。なお「腫れて化膿したらその部分をくり抜いて薬を入れないといけない」と手真似でメスを入れる仕草までして。外科の医師は本当に切ったはったが好きなのかなと思う。優しそうな顔した若い先生だけど。

近所の医師は傷を見るなり抗生物質と胃腸薬を処方して、なお言うには「破傷風の予防注射もしておいたら」と。破傷風?おお、怖い。でも少し大げさではないかな。却下して診察室を出る。処方箋の待ち時間にもう一度看護婦から声がかかった。「先生がお話があるそうです」

先生はまた諄諄と語りかけてくる。「やはり破傷風の予防注射をしておくのをおすすめします」破傷風の怖さは子供の頃読んだ本で知っている。未だに忘れられないほど怖かった。けれど、もう間もなく人生の終焉を迎える身としては今更死ぬの生きるのは神様にお任せしたい。予防注射の後遺症のほうがよほど怖い。しかし、待てよ?

急に北軽井沢の庭作りの事が頭を過った。これから広い庭の方々を掘り返すのだから、どんな黴菌が巣食っているかわからない。特に手つかずの森林を20年ほど前に伐採してノンちゃんが建てた家。原始から住んでいるバイキンに溢れているに違いない。一昨年漆にかぶれてひどい目にあったことを思い出した。もしかしてこの先生の言う事を聞いておいて良かったと思えることがあるかもしれない。先生曰く「狂犬病の予防注射よりはよほど必要性があります」

狂犬病の予防注射は今から20年ほど前、チベットに旅行する前に受けた。そのときはチベットでチベタンマスティフと出会って噛まれたらという心配からだったけれど、実際のチベット犬はおっとりとしてもふもふの巨きく穏やかな犬だった。悔やまれるのは写真を撮ってこなかったこと。犬と一緒に写真が撮れる場所があって、そこの犬の飼い主のあまりにも貧しく悲しげな様子に泣き出しそうになって、その場を離れてしまったのだった。撮影費用だって僅かなものだったろうに、飼い主と犬の食事代になったであろうに。

チベットに行ったのを思い出すと未だに後悔と悲しみが襲う。なんとかできるものではない。あの国の人々は貧しくとも自立していた。それを中国が踏みにじった大きな波は私ごときのどうにもできることではない。無力感がいつも私に涙を流させる。

その時私に出された食事は羊の臭くて硬い肉、それでもあちらではごちそうなんだと思うと一口かじってあとは喉を通らなかった。広大な湖の広がる人通りのない道を五体投地でラサに向かって進む人の姿があった。何日もかけて膝を擦りむいてたった一人、疲れ果てラサまで到着できないかもしれないのに。それほど現実が厳しいということなのだ。

私を噛んだ野良はしっかりとそれはいけないと私に叱られた。もともと賢い野良は一度でそれを学んでその後囓みたくなると私の顔を見る。だめというと甘噛してすっと離れていく。人間の子供よりよほど聞き分けがいい。













2024年4月17日水曜日

春の四重奏

 富山県朝日町に春の四重奏を見に行った。聞きにではなく「見に」です。

アルプス山脈の雪の白、桜の桃色、菜の花の黄色、そしてチューリップの赤の四色で奏でるハーモニー。それが重なって一緒に見られるのが朝日町で新幹線の富山宇奈月温泉駅から車で約30分ほど。

前日は軽井沢のY子さんのマンションに泊めていただくことにして、夕方軽井沢到着。食事のあとすごく上手な整体師がマンションに来てくれたので施術してもらいぐっすりと眠ってしまったら、次の朝は目覚ましのアラームの音が聞こえないくらい熟睡した。

次の朝、軽井沢から富山宇奈月温泉駅まで約1時間20分、始発に乗って富山宇奈月温泉駅到着は8時55分。そこから富山県人のKさんの車でいざ出発。ちょうどその日が朝日町の桜の満開日だそうで道々あちこちに桜の群生が見られてのどかな田園風景と相まって眠気を誘う。晴れてはいるけれど薄く霞のかかったような天気模様で、すべてが平和。

北アルブスは雪で白く桜は満開ではあるけれど、手前にあるはずのチューリップはまだ咲き始めたばかり。畝ごとに色分けして植えてあるので、赤は咲いているけれど、他の色はまだ蕾が固く閉じられていた。ところどころ黄色が咲き始めている。これが一斉に開くということはなく、色ごとに時期によって咲いていたり散ってしまったりするらしい。それは植物だから訓練しても一斉に咲くということは無理なので、なるべく一緒に咲いている時期を狙うしかない。

しかし広い!空が全部見える。富山に来るといつでもそう思う。富山駅の周りは流石に高い建物があるけれど、郊外に出れば畑と海と山、人々の口調もどことなく雅で、先日高岡の市内を歩いていたら大伴家持の子孫に出会った。つれが「あ、大伴さんだ」と言うから素早く振り返ったけれど残念ながら見えなかった。家持の子孫だからといって特別なお顔でもあるまいが、でも見たいじゃないですか。

昔の北陸の漁港は賑わっていて、北海道まで魚を積んで行って昆布を引き換えに積んで帰ったそうだ。それで巨額の富を得た商人たちが、派手なお祭りの山車を寄贈して今日までまつりが残っているというわけ。新幹線が伸びて東京からも一直線で行ける。時間も短縮された。昔富山に行くのは飛行機が主だった。河川敷の飛行場に手に汗を握る着陸を楽しんだものだった。着陸地点の少し前の交差する道路に橋がかかっていて、飛行機の車輪が引っ掛かるのではないかといつもヒヤヒヤした。一度ならず、強風で着陸がやり直された。正しく着陸されるとホッとしたものだった。

だからといって怖いとは思わない。けっこう好きな空港の一つだった。新幹線の延長でその楽しみが一つ消えた。どうやら私は飛行機が非常に好きらしい。広島空港から飛び立って10分ほどで飛行機に落雷があったらしい。その後機体は激しく乱高下、それでもあまり怖いとは思わず読書に没頭していたことも。メキシコの黄色い飛行機「バナナ」滑走路に向かって斜めに傾きながら突っ込んでいく。車輪が滑走路に接触する直前でいきなりまっすぐに姿勢を正してドカンと着陸、笑いながら楽しんでいた。真冬の稚内、猛烈な吹雪の中で着陸するのもスリルまんてんだった。

怖いもの見たさの野次馬根性の持ち主なのに、のどかに花を愛でる様になってきたのは歳のせいなのか。今レッスン室はクリスマスローズの鉢植えで埋まっている。先日花郷園で買ってきたものの北軽井沢に行く時間がなかったので家に保管してある。床に新聞紙を敷いて鉢植えの花が20個、ベランダに出して日光浴をさせたり、水をやったり、よく見ているとコンディションがわかる。なかなか手がかかるけれど、可愛いものだと最近は植物にもハマりそう。

猫は絶好調、餌やトイレの習慣などが変わったら、数年前にはもう死ぬと思っていた百歳超えのヨボヨボ老猫が蘇った。すごい勢いで餌を食べ、あとから入った野良猫を威嚇し、その猫の食べ残しを食べる。これは予想だにしなかった。後ろ足を引きずりながらも野良を威嚇する貫禄はなかなかのもの。のらも賢くて威嚇されても私は今ここにいませんよみたいに空っとぼけて不動の姿勢をとる。両者ともにたいした役者なのだ。

春の四重奏を見たから来週から北軽井沢に大量のクリスマスローズを運んで庭作りを始めようと思う。野良は北軽井沢初逗留、果たしてうまく行けるかどうか、今からハラハラ・ドキドキしている。飛行機は怖くないけど、猫のご機嫌取りは怖い。果たしてうまくいくだろうか。














2024年4月4日木曜日

クリスマスローズ

 府中にクリスマスローズの栽培で有名な農場があると聞いて、一度は行ってみたいとおもっていた。花郷園という。

www.kagoen.co

北軽井沢の殺風景な庭はやたらとだだっ広く、厳しい気象条件で花を植えればすぐ枯れる。なにを持ってきても根付かない。落ち葉のフカフカとした堆積は腐葉土のようでいかにも植物に良いようでいて、ある種の植物に良くても他の植物は受け付けない。本当に手の焼ける地面でやっとビオラやパンジーのスミレ類がショボショボと年を越してくれる。私のような非力なものはスコップで数か所穴をほっただけで息が上がってしまう。去年から今年の冬はあちらで越冬するつもりだったけれど、諸般の事情でできずにいたから一体庭がどうなっているかは考えるだけで恐ろしい。

昨日やっと体調も回復の兆し、雨がしょぼ降る中、車を走らせて府中へ出かけた。道路沿いに温室がならんでいる。建物に近づいて中を覗いても閑散として、呼びかけても返事がない。漱石の「道草」の冒頭を思い出した。

しばらく彷徨いていると別棟から女性が現れた。見るとホームページに載っていた花郷園の社長さんだった。髪の毛を後ろに束ね、化粧気がないけれど美しいお顔。スラリと背が高い。北軽井沢の気象条件や日照時間、季節の変化環境などを話して庭の写真を見せると、本当にぴったりの条件でクリスマスローズに適していると。

どこにでもへそ曲がりはいる。花の世界での変わり者はクリスマスローズ、ほったらかしにしても気温の変化も耐えられる、多年草で丈夫、冬の雪の下でも枯れかけても春には生き返る。しかも花は多彩で様々な色の変化が見られる。まさに無精者のためにあるような花なのだ。非常に生命力が強いのでほったらかしにしてもどんどん繁殖するそうで、しかもこの農園のクリスマスローズはそこいらへんの園芸店においてあるものとは雲泥の差、茎が太くまっすぐにしっかりと立っている。

たまたま即売会のイべントが終わったあとで、あまり残ってはいないけれど、その時の値段で譲ってもらえるとのことだった。ラッキー!!あれもこれも欲しいけれど数年経って庭中がクリスマスローズになってきたときに押し合いへし合いにならないように、少し間合いを取って植えるようにとアドバイスを貰った。

車に積むと座席は全部埋まって、これで二匹の猫を連れて行けるのかと心配になってきた。二匹は仲が悪いからケージは2つ、どうやって載せられるか頭が痛い。乗用車でなく軽トラックを買えばよかった。

不思議なことにクリスマスローズは親株から発生した次世代株が親の花とは異なる花が咲くらしい。中にはバラかと見紛う華やかなものから可憐なすみれのようなものもある。

らしいというのは私はまだこの花を育てた経験がないからで、なんという親子関係なのかと不思議に思う。
動物なら大きな馬からネズミは生まれないでしょうに。
とにかく丈夫でたくましいらしい。
形も色も様々で寒さに強い。
雪の中で隠れていた根っこを掘り起こしてみると再生するらしい。
最近やっと植物にも興味が湧いてきた。今までは動物は可愛いけれど植物はちょっと苦手だったけれど。
様々な性格の植物があって世界中に花が咲く。
植物は平和そうに見えるけれど本当はかなり策略家で獰猛なものもいる。
それが動物とも重なるところが面白い。













2024年4月3日水曜日

手が震える

 先日仲間の集まりがあって様々な問題点の話し合いがあり、食事をしながらビールを飲みながらの雑談も始まり、オーケストラ時代の思い出などで盛り上がった。オケに入ったら弓が震えてと手真似で言う人がいた。彼は先日リサイタルで素晴らしい名演を聴かせてくれた人だった。

オーケストラというところは巨大な演奏家の集団で、われこそはと思う人たちが集まっているのに抑制され集団で演奏するため周りとの協調性が必要とされる。それで生じるストレスは相当なもので、緊張のあまり弦楽器なら弓を持つ手が震えて止まらなくなったり、管楽器なら唇に力が入って音がひっくり返るなどの恐ろしい現象が起こるともう大変。当分の間夢にまで出て悩まされることに。

それは難しいパッセージなどでなく単に音を伸ばしているときに現れるから、その癖があった頃の私は二分音符以上の長さの音符を見ると青ざめたものだった。長く弾く音符は二分音符、全音符などオタマジャクシの頭の部分が白抜きで、大抵はそれにスラーという記号がついていてピアニシモで数十秒間とか続く。それはそれは数十分にも感じられるほどの恐怖だった。

それを克服するために様々な練習と人からの助言と自分のコントロールによって今はもう現れないけれど、それまでにどれほど悩まされたことか。あるベテランチェリストが演奏が終わってステージ袖に引っ込むときに「震えちゃったなあ。これでまたひと月はだめだなあ」とつぶやいていたのを聞いたこともあった。ああ、この方も?こんな有名なチェリストなのに。クラリネットの大先生も「またキャアって言っちゃったよ、あーあ」とつぶやきながら帰る。

それは技術よりもメンタル面のことだから、どんな上手い人にも一度現れたら当分の間取り付いて離れない。先日の話し合いの中でオーケストラ時代に弓が震えた話が出た。一度震え始めたらこの世の中に自分だけたった一人、恐ろしい孤独感に苛まれる。それは聴衆よりも身内のプレーヤーに対する恥ずかしさであり、ある有名なコンサートマスターはオーケストラの中でのソロが一番怖いと言っていた。

私といえばカナダとアメリカ西海岸、メキシコの演奏旅行の際、黛敏郎さんの「舞楽」という曲のはじめにたった一人で長い音を弾き始めるというポジションを与えられて難儀したことを思い出す。そのポジションはセカンドバイオリンのトップサイドであり、普通ソロはコンサートマスターが受け持つのだけれど黛さんはなぜかセカンドのトップサイドから始めるように意図して書いたのだった。

その時私はずっとファーストヴァイオリンを弾いていたのに、わざわざその場所に行くようにと言われたのだった。よほど私が図々しく上がることなどないと思ったのか、指揮者やコンマスからの指示となった。私は本当のところひどい上がり性だったけれど、アメリカの演奏旅行に行く直前の定期演奏会で同じプログラムで弾いたときには震えることなく弾けた。

そして生まれて初めての海外への演奏旅行、なにもかも緊張の連続だった。悪いことに当日バンクーバーのテレビ局がやってきて録画があるという。そして始まると私の弓を持つ手元のアップから始めるのだった。もう震える条件満載、弓を弦に乗せるとカタカタと到底長い音とは思えないスタッカートが出てきてしまう。カナダには数日いたけれど、毎日カタカタと震えっぱなし。時差もあるし夜も眠れない。

それがあるときからピタリと止んだ。全く普通に弾けるようになったのだ。なにが私を蘇らせたかというとバンクーバー交響楽団のコンサートマスターの行動だった。かれは私が震えているのを見て嘲笑したのだった。私を指さして笑いながら弓が震える仕草をしたのだった。そうやられた私の負けじ魂に火がついた。なにお!と思ったら私の弓はピタリと弦に張り付いてスーッと滑らかに長い音が出るようになったのだ。

オケのメンバーたちは皆心配して私を見守っていたので、私がすっかり冷静になると次々に良かったと喜んでくれた。当時のコンサートマスターはハンガリー人で、私が震えている間は「おお、かわいそう」と言って出会うたびにハグしてくれた。その彼も私が普通になると大喜びで笑いかけてくれた。

私は留学経験がない割には海外の人と共演するチャンスが度々有った。私も彼らと一緒に弾くのが好きだった。なぜかというと彼らは日本人のような忖度や遠慮がない。陰で悪口をいう代わりに正面から悪ければ悪い、変なら変とはっきりいう。ときには意地悪いと感じる人がいると思うけれど、私はそのようにはっきりした態度が好きなのだ。カナダで開き直ったからその後の演奏はすっかり立ち直ったけれど、他の場面では相変わらず震えることが多かった。

よく大勢で弾くからオーケストラは目立たなくて楽でしょう?という質問を受けることがあるけれどとんでもない。一度オーケストラで震えたらその怖さは世界共通、海外の一流オーケストラでも震えに悩む人が多いと聞く。私が震えから脱出できたのは様々な練習とメンタル面の訓練、オーケストラが大勢で弾くから楽だなんて滅相もない。ある時電車で他のオーケストラのメンバーとばったり出会ったことがあった。彼が「昨日新世界をやったんです」「どうだった?」「ええ、みんな震えました」これはドボルザークの「新世界交響曲」のラルゴのヴァイオリンのソリ(ソロの複数)のこと。

もちろん、そんなことには無縁な人もたくさんいるし大胆で怖いもの知らずの若者は不思議そうに手の震える人を見ている。けれどひょんなことで一度震えると恐怖で眠れなくなる。

絶対震えそうもない人たちがいる。ある時言うことを聞かないホルン吹きに向かってこう言った指揮者がいた。「俺はカラヤンだ」

するとそのホルン奏者が立ち上がって「俺はザイフェルトだ」と言ったそうな。
















2024年4月2日火曜日

筋トレウオーキングやめたら

ここ数年左膝の故障と右足のしびれ、指先の痛みなどに悩まされ歩くこともままならない状態。せっかくの演奏会にヒールの靴も履けない。ぺったんこのサンダルみたいなものでごまかしていたけれど・・・・

ある時、歩くな筋トレするなという整体師の動画を見つけた。何を馬鹿なと思ったけれど先ごろコロナ感染して約1週間寝込みその後も表に出られないのでウオーキングもしなかった。そして体が弱っているので筋トレもしっかりとできない。その動画を見て蹲踞のような筋トレを真似したらもっと痛くなって、この先、生涯この状態で過ごさねばならないのだとすると辛い。そう思っていたら、治りましたよ。

今年はスキーを始めてから61年、初めてゲレンデに立てなかった。スキーの先生と話していたら筋トレのやり過ぎでは?と言われた。私もうすうすとは感じていたので今回のコロナが良い機会と思って筋トレを全くやめてみた。それ以来膝痛も足のしびれもない。

まず体重が2キロほど減ったのが勝因。それでも毎日時間があればせっせとつま先立ち、寝転んでのゴキブリ体操、太もも内側の筋肉のためのねじり脚上げ。などなど。その他毎日雨が降ろうが暗くなろうが毎日数キロは歩いていたのもやめた。その代わり食生活には気を配った。腹六分、食事の間の時間を6時間以上開ける。お腹が空いていないのに食べることはしない。食べすぎたと思ったら翌日一回食事を抜く・・等。体力が無くなる心配もあったけれど結果、足の痛みは消えて毎日平和に暮らしている。

一番心配したのは高齢者の栄養失調。骨がもろくなったりしないだろうか。毎朝乗るタニタの体重計には骨量も計る機能がついている。それによれば私の骨量は去年の後半から少し落ちてきている。ただ昔から私の骨量は非常に多いと出るから、まだ標準範囲で収まっている。そろそろ骨密度を高めるサプリメントでもとは思うけれど、迂闊に飲んで健康障害が起きることもあるから用心しないといけない。

現在、足の痛みがなくなって歩く量も少なくなって、いわゆる健康年齢は高くなっている。これはいかがなものか、先日も歳を取ったら少し小太りのほうが元気でいられるという説を唱える医師もいた。それは極端に痩せてはいけないけれど体重はそれを支えられる足あってこそ、筋力以上の肥満はいけない。それが悪循環の始まりになるのだ。

私の素人考えでは結局物事すべてバランス。筋力が弱い人はそれに見合った体重でないと足を痛める。足を痛めて健康な生活を送るのは至難の業。小太りで足を痛めたらすぐコレステロールが増え、サプリを飲むと小林製薬紅麹事件が発生したり。

私はずっと小太りだけれど、それが健康だと思っていたこともあって、無理に体重を減らさなかった。コロナで寝たきりになったときこんなに食物を摂らなくても全然平気で生きていられるのだと思って愕然とした。今までなんであんなにいっぱい食べていたのだろうか。朝からタンパク質や鉄分やカルシュウム、繊維質などのことを考えると結構な量となる朝食をせっせと食べていた。それでいつもなにか摂取しないではいられない。カロリーオーバーになって胃腸障害や胸焼け、膝の痛みにつながった。

先日寝込んだときにはほとんど水を飲む気も起きなかったけれど、介護士の友人がいち早く飛んできてくれてそういうときに患者に飲ませるという高カロリーの飲料缶を持ってきてくれた。それをうつらうつらしながら飲んでは眠りを繰り返す。近くに住む「古典」のメンバーがお粥を差し入れてくれた。姉は野菜のジュースなどをドアの外においていく。それで約2週間経って胃袋が空っぽになった頃、体調はメキメキ回復した。

すっかり浄化された血液が流れ始めたかのようで、どす黒くなっていた血管が次第に青みを帯びてきた。今はほとんど血管が目立たなくなった。筋トレや過剰なカロリー摂取はアスリートや若者たちのように自力で消費できればいいけれど、私のような高齢者には毒となるのだと初めて実感した。もうこの辺でゆったりと暮らそう。ずっと突っ走ってきたのだからこの辺でね。






















2024年3月28日木曜日

落ち着かない大人

 PCR検査の結果を姉に知らせたらすぐに飛んできた。最初のうちは食物の入ったバスケットが遠慮がちに玄関前においてあったけれど、3日も経つと「足りないものがあったら連絡して」と言ってそれっきり。私は潤沢な食物で何不自由なく暮らしていた。こんなにも冷凍食品があったなんて、これなら震災があっても1ヶ月間は持ちこたえそうだった。それに最近サプリメントで多少カロリーの軽減、体重を極力減らすように努力しているから食べ物が減らない。

姉は小さなケーキを持参していたのでコーヒーを淹れて全快祝い。ずっと甘いものも控えていたので美味しい。今回の検査でわかったのはあれほどコロナコロナと騒いでいたのに、今は検査を受けられる場所もよくわからない。役所の対応はもはやコロナは過去のもの?症状は出なくなったけれど本当に治ったのかどうかを調べないと患者は不安で仕方がない。

今朝たまたまネットで見つけたのが自宅付近の発熱外来だったから良かったけれど、昨日まではそれも良くわからず自宅から電車に乗っていく距離のところばかり。もし陽性のままだったら他人に感染する。

見つけたのは偶々だったけれどラッキーだった。電話をして予約、到着したときにはほんの数人の患者がいるだけだった。すぐに検査は終了して医師の診察を受けると、彼女は少し腹立たしげにあなたの場合は保険診療のケースではないと。なんで同じ検査で保険が効くか効かなくなるのかよくわからないけれど現在発症していないから保険は使えないとか。発症しているのとしていないのとで検査のやり方が違うわけではないらしい。

私はもう症状が治まったこと、それでも大勢の会議とか花見とか旅行とか検査したとしないのとは大違い。PCR検査の陰性の証明があれば気兼ねなく動ける。検査のどこが違うのかはわからないから黙っていたら帰り際にも受付で今度から正しく申告してくださいと言われた。嘘ついたと思われた?なんだかわからないけれど非常に不快な思いをした。それなら最初からきちんと説明してほしい。保険が効かないとしても必要な検査だから受けたいと思っていたので。

自宅に戻って姉に陰性の報告するとえらく喜んでくれてケーキ持参の訪問となったしだい。私の兄弟たちはよく昔のことを覚えている。特に私は彼らのおもちゃだったから今頃になって様々な思い出話しが飛び出してくる。姉に言わせれば私は「夏休みの宿題はね・・・」と始まる。

私は夏休みに入ると先に日記を全部書いてしまったという。へえー、そんなことあったかしら。それで毎日その日のページを開いてそこに書いてあることを次々とやってから「はい、これでおしまい」と言って終わりにしたそうなのだ。そりゃあ能率的だわいと私は思う。10分もあれば済ませられることを済ませてあとは縁側で空に浮かぶ雲を飽かず眺め、レコードで音楽を聴き、ラジオで落語を聞く。毎日何冊もの本を読む。母はそんな私が嫌でまるで子供らしくない子供として持て余していたらしい。時々引っ立てられて近所の同い年くらいの子どもと遊ばせようとさせられるのが本当に嫌だった。話したって面白くない、縄跳び、缶蹴り大嫌い。男子は鼻垂らしてきたないし、なんて。

だから当然体操音痴、跳び箱、縄跳び、鉄棒全部できない。走らせても全力疾走なんてカッコ悪いと思っているから絶対に歯を食いしばって走るなんてことはない。そのつけが全部回ってきて、今は何でもやりすぎている。人間は生涯での運動量が決まっていると私は思っている。子供の頃運動しなかった私は今になってもスキーを諦められない。最後の海外旅行、フランスのヴァルトランスのアルペンスキーの楽しかったこと。スキューバダイビングで死にかけたり、モンゴルの大草原で落馬して大地に叩きつけられたり、大変な思いをしてもなお変ったことがしたいと未だに憧れ続けている。例えば成都からラサまでの青蔵鉄道にもう一度乗りたい・・・とか。高山病で危うかったのに。

子供の時の私がほんとうなのか、大人になってからの私が子供に戻ったのかよくわからないけれど、差し引きゼロにしてから死ぬつもりでいるから、どうぞ皆さんよろしく。






















めでたく陰性。

 私の性格は陽性だからコロナもなかなか離れないかと思ったら今朝の検査で陰性判明!まずはホッとしたところです。

子供の時から様々な病気とお友達なのに決して命にはかかわらない。並べて書いたらゾッとするような病歴なのにいつものんびりと「これで本が読める」とかなんとか言いながら陽気な入院生活。医師も驚く治癒力を誇っていたのに、流石による年波には抵抗できずと思っていたけれど、終わってみれば症状はほとんどなくてひたすら眠って疲労を回復していただけの話となった。

最初の眠り期では食欲もなくひたすら夢の中。これは一番幸せだった。体重が落ちたせいか膝の痛みが消えたのがラッキー。起きられるようになったときにはミツバチのようにスムージーに蜂蜜などの流動食、それが約一週間持続したにもかかわらず空腹感がない。そして確実に体重が2キロほど減って体中が軽くなり、胃腸の具合も良くなり、今までいかに食べ過ぎていたかを思い知らされた。

今ならスキーにも行けそうな膝のコンディションで、もう少し早めにこうなってほしかったと思った。今年はスキー歴60年、はじめて滑りにいかなかったシーズンとなってしまった。去年まではなんとしても這ってでもゲレンデに立つという課題を自分に課していた。今年は「古典」が新体制になった初めてのコンサートでもあり、大事を取っての我慢。幸い古典の再出発は成功裏に終わり、これで持続できる目処がついた。新しい事務所と会計さんの努力の賜物であり、メンバーも張り切っているので老兵は去りゆくのみ、私は安心して引退できる

スキーの先生と話をしていたら、なにか来年もできそうな気がしてきた。何よりも膝さえ痛くなければ初心者むきゲレンデだったら十分に行けそうなので、頑張ってみようと思った。それには膝の痛みを出さないこと。ここ数年筋トレに励んできた。もしかしたらそれが元凶だったのかもしれない。私の性格上なんでもやりすぎる。痛い膝を無理に動かして筋肉をつけようとしていたのかも。nekotamaさんはたぶんやり過ぎ。俺だってそんなには筋トレやらないもん、とか先生は言う。毎日のあの努力は何だったのかしら。そういえば整形外科のリハビリを見ているとイライラした。

なぜかというと皆さんベッドに寝たまま療法士のなすがまま、手足を動かしてもらっている。私だけガツガツと歩いたり階段を登り降りしたり。スクワット一日30回とかやって寝る前に手足ブルブルゴキブリ体操、太腿の筋トレなどなど、暇さえあればやっていた。それでも筋力はさほどつかず、逆に目が覚めたときにすぐに歩けなかったりしたものだった。今は椅子に座って貧乏ゆすりを時々するだけ。それでも体重の管理をすれば痛みもなく歩けることが判明した。ようし、来年こそはスキーヤーとして不死鳥のように蘇ろう。

ここに来て生活の見直しができてラッキーだった。胃腸の不調もスッキリと治った。猫たち(実はノラが家族の一員となった)とのんびり楽しく暮らそう。食べ過ぎの弊害がこれほどのものだとは思わなかった。不足を心配するより過剰をセーブすることの大切さを学んでもいまだ悟りが開けない。今日も早速全快祝いにケーキを食べる。これさえなければねえ。










2024年3月22日金曜日

治癒

今朝目が覚めたとき、昨日までの体調とは明らかに違うことに気がついた。「あ、治った」そう感じた。 体の中から力が湧いてくる。背筋がシャンと伸ばせる。

昨日はまだコロナが私の鼻腔の中にわずかに残っていると感じていたから、何処ぞの病院で治療を受けねばと病院を探していた。19日の午前中、眼瞼下垂手術のために抗体検査を受けて陽性の診断がくだされた。けれど病院側はコロナ患者が自分の病院にとどまることを恐れて現場での検査結果を直接本人に言わない。これは上手く考えたもので、もし結果が陽性ならばその場で患者は入院を希望すると思う。患者を受け入れたくないので本人が帰宅してから電話で結果を報告するという姑息な手段が取られているのだ。

私は自覚症状が軽かったので花粉症くらいにしか思っていなかった。帰宅したら留守電に医師からの報告、すぐに折り返したら陽性を告げられた。一体その治療はどうしたものかとぼんやり考えてもわからない。その病院にいればすぐに診察が申し込めたのにと恨めしい。

とにかく次の日に「古典」の会合があって準備をしなければいけないので、どうしたものか。合奏団のメンバーに相談をしていろいろ考えた結果、やはり中止となった。そのままベッドに倒れ込んでぐっすりと眠る。寝ても寝ても起きていられないほどの眠気に襲われた。たまに目が覚めても水分の補給のみ。食欲はまったくないものの食べないといけないと思ってきゅうりをかじってまた寝る。今朝、珍しくココアが飲みたいと思った。甘いココアは喉に優しく落ちてゆく。そしてふと思った。「治った」

昨日検査や治療を受けようと医療機関に電話してみた。ネットでPCR検査をしてくれるところを探して治療の相談をするともはやコロナでは儲からないと思ったのかけんもほろろの対応。明らかに院長らしき女性が拒絶の気配濃厚で来るなという。何をしたいのか、うちでは治療をしていないからと。それでも医者ですか?

それではと高齢者医療保険の役所に電話してみた。すると身近な区役所に相談しろと。そして最後に救急医療センターへとたらい回し。そこで自宅住所を言って近隣で治療が受けられるか、せめて自分がそのような状態なのか知りたいと思った。すると自宅付近のクリニックでコロナの治療をしてくれる病院を探してくれた。

その中の一つが我が家から徒歩5分、先月初めて診察をしてもらった病院だった。その時初めて会った医師は初対面だったけれど、なんという良い人だろうという印象だった。髪はボサボサ飾り気のない風采の男性医師、しっかりと話しを聞いてくれた上、私が足を引きずっているのを目ざとく見つけて事情を聞くなど、鋭い観察眼があった。何よりもその先生自身がとても幸せそうな表情なのだ。こんな医者は初めて見た。

その病院を教えてくれた役所の人に思わず「ああ、良かった」と私はお礼をいった。すぐに電話で相談するとテキパキとした看護婦が対応してくれて私の杞憂はすべて吹き飛んだ。私の症状からみて軽症だしもう治りかけている、だから今から5日間過ごせばもう大丈夫と言われてすべての心配は吹き飛んだ。最後にちょっと怖い声で「でもやたらにウロウロしてはいけませんよ」釘を刺された。

それで今日はまだその待機期間だから表には出られない。具合の悪いときにはいくらでも眠れたのにもう眠るのも飽きた。食料は差し入れが多かったからまだ十分に備蓄がある。いい気になって食べると体重が増えてしまうから未だにダイエット中。なにもすることがない。狭い家の中を檻の中の熊のように歩いたりして動物園の檻の中の猛獣たちに同情の念を抱いた。

しかし年齢が高くなってから良い医者に会えたのが私の強運の賜。本当にこの先生にホームドクターになってもらおう。聞けばコロナ患者を受け入れるのを躊躇う病院がほとんどだったのにこの病院では受け入れてくれたそうなのだ。

今日は本当に気分が良く久しぶりにコーヒーが飲みたいと思ったけれど見当たらない。もうジタバタして禁断症状と戦っている。いつもなら夕方ふらりと近所のカフェに出かけるのに出られない。自由自在に出入りを繰り返している我が家の野良猫が羨ましい。








2024年3月20日水曜日

矢でも鉄砲でも・・持ってこないで

コンサートのあとのホッとした気分とこれで終わってしまったという喪失感がないまぜになって起き上がる気力もなく毎日眠り続けて気がつくともう一週間が過ぎた。咳が出るけれど殆ど眠っていたので喉の痛みもない。どうやったらこんなに眠れるのかと思うほどの深い眠りに落ちては浮かび上がりまた落ちてゆく。

その間時々夢を見る。ギリシャ神話に出てくるような不思議な人物と動物。今まで絵でも見たこともない想像上の遥か上を行く情景。私の脳みその中にこんな者たちが住みついていようとは。一瞬で高く舞い上がって消えてしまったけれど、脳裏に焼き付いている。これは私の体験からくるものではなく、もともとヒトの遺伝子かなにかに組み込まれていたものなのか、それとも覚えていないだけで幼少の頃本の挿絵で見たものなのか。

うつらうつらとしていたら1週間が過ぎ、申し込んでいた眼瞼下垂の手術を受ける日が近づいた。北里研究所病院の形成外科で明日からの予定だった。長年長時間、楽譜を読んでいると目のコンディションは非常に能率に影響する。最近なんだか世の中が鬱陶しく見えると思っていたらどうもまぶたが下がってきているらしい。鏡を見ると昔はバンビのようだった大きな目が約半分の大きさになっていた。北里研究所病院で指摘されて初めて気がついた。これ上げると楽ですよ、クリンと金属製の器具で瞼を持ち上げられると、あった!もとの目玉が半分。そして世の中急に明るくなった。

見えにくいと頭も重くなる。集中力も下がる。とりわけ最近は脳みそにも曇りがかかっているからダブル効果のパンチ。練習時間も短くなってきた。それならやってみようかな。新しもの好きな私はちょうどコンサートが終わることだからとスキマ時間に手術を受けることにした。昨日は手術前の最終段階、最後の抗原検査だった。そしてコロナ感染が発覚した。

1週間近くひたすら眠いだけでよく聞くコロナの症状もなく頭も痛くない。流石に眠ってばかりだから食欲もない。いつもこういうときに助けてくれる友人がすぐに駆けつけてくれて、高カロリーの栄養補助の缶詰を届けてくれた。やれやれありがたい。これを飲んでは眠り眠っては飲む。しかし人がこんなに長時間眠れるとは知らなかった。こんなに食べずにいてもお腹もすかないというのは生まれて初めての体験だった。

手術は即中止。本当は今頃「古典」の仲間が我が家に集まって大いに盛り上がる予定だったけれど、それも中止。そして今一人寂しくパソコンに向かっているという悲しい状況。明日は病院に入院して猫も何もかもほったらかして眠りたいだけ眠るつもりだった。

最近の世界的な気候変動の激しさ、異常気象に振り回されていることなどが我が身にも影響しているとしか思われない。今まではほとんどいいことばかり、安穏と人生を歩んできたのにどうもそうもいかなくなってきたようだ。身近な人に対する不信感や憤りなどは私の人生にはなかった。しかし、そんな呑気な状況ではなくなってきているようだ。

嬉しいことと悔しさ悲しみの間の落差が大きくなったような気がする。これは年寄りにはちときつい。激動の人生を送ってきてやれやれホッと一息、これからはのんびりと北軽井沢でイングリッシュガーデン作りに励もうとしていたのに。こうなったら矢でも鉄砲でもと言いたいところだけれど、矢はもうたくさん。コロナさんも早くお引き取りいただきたい。

今朝目が覚めると気分が明らかに良くなっている。なにかひとくち食べたいとは思っていても寝てばかりいるのだからうっかりすると消化不良になる。気をつけないといけない。朝はサプリメントのグリーンスムージーにチアシードという不思議な種子を食べる。グリーンスムージーは大さじ一杯でレタス2個分の繊維質がとれるらしい。チアシードは南米産の植物の種を水で溶くと30分ほどでヌルヌルしたゼリー状のものに変わり、それを食塩、レモン汁等と混ぜて飲むと体内ではできないオメガ脂肪酸に変わるとか。

そして昼食時何が食べたいかと言ったら「きゅうり」無性にきゅうりが食べたい。野菜室にきゅうりは6本、3本を塩麹の液体につけてほんの5分、食べ始めたら止まらない。こんなにも水分が欲しかったのかと思うくらい水分を欲していたことに気がついた。ぺろりと平らげあとの3本を漬ける。しばらくしてその3本も平らげてしまった。今日の昼食はきゅうり6本でした。

徐々に気分は良くなっておそらく体内のコロナは絶命しているのではと思うのでPCR検査を受けに行ってこようと思う。しかしながら相手はあの「コロナ」だから迂闊に出歩けない。クリニックをネット検索してやってくれる病院がみつかった。はやく陰性になってくれないと散歩にも行けない。

近所に住む友人と姉から差し入れが届く。気配りのきいた食料が入っていて感謝ではあるがなにせ一人で食べるのでは多すぎる。今日も自分で作っておいた煮物を食べきれず小分けにして冷凍したばかり。「コロナ」のお陰で優雅な休養生活ができて美味しいものが食べられてなにか筋書き通りの休養生活になった気がする。重症ではなかったので症状は眠いだけ、食べられなかったのは睡眠に食欲が勝てなかったから。たべないでいたら体重が減って膝の痛みがなくなった。良かった良かった。






2024年3月16日土曜日

眠りから覚めて

 遥かに以前のことのように思える古典のコンサート、まだ1週間にもならないほどの経過だけれど様々な評判が聞こえてきた。

まだ今日も胃袋にはなにも入っていないけれどレッスンに訪れる生徒が部屋に入ってくるなり皆一様にニコニコと笑っている。ああ、聴きに来てくれたのね、ありがとう!「本当に良かったです、ヴァイオリンの音が素敵だった」皆山中さんの音が大いに気に入っているようだ。その中のいつもは物静かな男性も満面の笑顔。どうやらお世辞抜きで本当に良かったようだ。

良かったでしょう?本当に素敵な音よね。私も自分のことのように嬉しい。テレマンの幻想曲の評判が良くて静けさの中にりんとした筋の通った演奏が「鳥肌モノ」「禅のよう」「居合抜き」などなぜか日本の武道のような捉えられ方をされているのが印象深かった。なるほど、山中さんは日頃から物静かで大きな声を出しているのを見たことがない。弓の先から下まで神経の研ぎ澄まされた奏法は日本刀の扱いにも似ているかもしれない。ふーむ、古武道とヨーロッパの古典とコラボできるか・・・なんて

いろいろな意見の中でも面白かったのは、ブランデンブルク協奏曲をチェロ以外の楽器が立って演奏したので、その身長差が見ものだったという意見。今回は特に年齢の若い女性が入ってかなり身長が高い。スラリと伸びた手足、小顔でその先に行くと私と同年代のメンバーは小柄、その先はもう少し大きく私に至ると立っているのか座っているのかわからないくらい小さくて、その曲線が面白かったと。

まあ、同じ犬でも犬種によって大きさがあれほど違うのだから人間もそのくらい違っても不思議はない。

その曲線は戦後の時代背景よというと、なるほどと相手が答える。私と同年代は戦後の最悪の食糧事情、親の体力も限界だった頃の生まれ。すぐに戦後から日本人の背は伸び始める。私ももう少しあとに産まれればあと10センチは大きくなれたかも。しかいこの小さな体でヴィオラまでひけるんだぞ、どうだ偉いだろう!いや、どう見てもあなたがヴィオラを弾いているというよりもヴィオラがあなたを支えていると言うほうがあたっている。なにお、このべらぼうめ!

べらぼうというのはもともとはへらぼうと言うのだそうですよ。私が最近買った古今亭志ん朝師匠のCDでも言ってますよ。昔の大工さんはヘラの上で糊の代わりにご飯粒を潰して使っていたそうで、飯を潰すで轂を潰す、それで役立たずの職人のことを穀つぶし、へらぼうめというところをそれでは喧嘩にならないからべらぼうになったという。この説明を志ん朝師匠が説明するとどうしてこんなにも面白いのか。声を出して笑ってしまう。志ん朝さんは落語会のモーツアルト=天才ですなあ。

そうそう、単純なテレマンの楽曲が見事な曲になるか、ただの短いつまらない曲になるかはあなた次第・・ということなのですよ、ね。

さてまた寝るか。それではまた明日。














2024年3月15日金曜日

古典音楽協会新たな旅立ち

第165回古典音楽協会は新しい体制になってこの日を迎えた。

メンバーはヴァイオリンが3人、ヴィオラに一人の新メンバー、年齢もかなり若返った。中でもnekotamaは最年長になり今年最後のご奉仕となる。今回のコンサートで隣に座ってくれたのは私の元生徒。5歳の時からうちに来て、キャッキャと楽しげにヴァイオリンで遊んでいた子。楽しさが嵩じてついにプロになってしまった。いつでもニコニコ穏やかで背丈もスラっと伸び華やかさもあって、メンバーともすぐに打ち解けた。こんな幸せなことはない。

コンサート当日は天気予報がとんでもなく嫌な情報を流していた。夜になると関東地方に暴風雨が吹き荒れるとか。お客さまの中にも事前に断りを入れてくる人もいるくらいだった。もし酷い天気だったら行かれないかもと。しかし心配するほどのこともなく、群馬県の友人もお祝いに駆けつけてくれた。

まずカール・シュターミッツの「オーケストラカルテット」のびのびと快活なこの曲を以前から私は温めていた。新しいメンバーになったら第一曲はこの曲と。コンサートマスターは本当に素晴らしいテンポを出してくれて一同心地よく演奏することができた。なんて素敵な心地よさ。空を飛んでいるようだわ。

次はヴィヴァルディの「調和の霊感」から二曲、オーボエとヴァイオリンの協奏曲、短くて明るい曲、そして次は、これは今回の目玉と思うテレマンのソロ幻想曲。短いけれど無限の広がりを感じるこの曲を山中光さんは静かに心に染み入るように演奏してくださった。短いというだけでこの曲をバカにする人もいたけれど、とんでもない、短いし音が単純であってもこのように美しく弾ける人にはこんなに名曲になるという見本。

そして後半の目玉はチェンバロのソロ。「古典」ではいつも協奏曲でしか聞かれないチェンバロを客席で聴くとよく聞き取れないという意見が多かったので、思い切ってソロ楽器として演奏してもらうことにした。チェンバロは楽器自体も美しい。装飾が施され蓋の裏にも絵が描かれている。曲は「調子の良い鍛冶屋」の名前で知られている楽章の入っている「組曲第5番」

私の学齢前、兄弟たちが学校に行ってしまうと広い家はガランとしてとても寂しくなる。縁側に手回しの蓄音機がおいてあって、皮表紙のレコードアルバムがあった。その中から毎日お気に入りの曲を聞いたものだった。特に調子の良い鍛冶屋は何回も何回も聴いたものだった。こんな不思議な音のする楽器ってどんなものだろうか。しかし私にとってはチェンバロよりもハイフェッツのヴァイオリンのほうがより魅力的だったようでヴァイオリン弾きになってしまったけれど。

今までの「古典」の演奏会ではチェンバロはステージ奥に置かれよく見えなかったと思うけれど、今回はステージの真ん中で粛然とその優雅な姿を見せている。演奏が始まるとやはりこの曲を弾いてもらってよかったと思った。おなじみの鍛冶屋さんのメロディーが始まると楽屋にも「ああ、この曲」という声がした。皆さん他の楽器のことはよく知らないけれど、この曲は学校の教科書にも乗っているのではないかと思うくらい親しまれている。装飾音のたくさんついたジャラジャラという音が心の奥をくすぐられているようで心地よい。私は大満足。家の縁側で聞くよりもずっと素敵だわ。

最後はチェンバロをステージの片側に寄せて「ブランデンブルク協奏曲第3番」を演奏。椅子が片付けられているため、最後の曲は全員立って弾くことになった。やはり立って弾くのはとても弾きやすい。今回の演奏会は皆の熱気が強く今まで演奏した中での最高の喜びになった。

とまあ、演奏会は良かったものの、終わってみたら酷い気分の悪さ、ロビーでお客様と立ち話をしていても、果たして自分は家に帰れるだろうかといった状態だった。楽器2つとたくさん頂いた花束などを車に積んで家路をたどりようやく家に転がり込んでベッドに倒れ込んで、ほぼ3日間ものも食べずに眠り込んだ。ときたま目を覚ますと珍しく猫たちもおとなしい。飼い主の異変を気ずいているような。しかし良くもこんなに眠れるものかと感心するくらい全く起き上がれない。人生の疲れがどっと出たらしい。

今日三日目、ようやく起き上がってこれを作成中。初めてなにか食べようという気が起きてきたので、フレンチトーストを食べようかと準備して卵とミルクが食パンに染み入るのを待っている。軽井沢には素敵に美味しいフレンチトーストが食べられるカフェがある。なんだか遠い昔だったような気がするくらい今回のコンサートの準備に没頭していたようだ。素晴らしい仲間が増えて演奏はバリバリに向上したし、これで私も思い残すことなく引退できる。

今後の「古典」を皆さんよろしく見守って頂きたいと思います。





2024年2月28日水曜日

続々と教え子たちが

最近私の身辺はにぎやか。準備が整って新生「古典」の最初の定期演奏会がまもなく開かれる。長い間の闇から抜け出して本番が実現した裏にはメンバーたちの聞くも涙の物語があって、本当にご苦労様でした。しかし序の口が良くても継続するにはもっと大変なエネルギーを必要とする。この先、誰がそれを支えていけるかが重要になる。

それでもやっと無事に演奏会が開かれる見込みができたことで私の気持ちはぐっと上がった。そしてやっと笑顔が出てくるようになった。ニコリともせずいつも暗い顔をしていた頃、人はやはり気まずい思いで私を遠巻きにいていた。気楽に話しかけるのも怖いので恐る恐るというように。

今年に入ってから声を出して笑えるようになった。以前はいつもコロコロと笑っていたのに笑い方を忘れてしまったかのように塞ぎ込んでいた私は、人生の最後のときにつまらないことになってしまったこと、それが私の人を見る目のなさを暴露するものであり、それによって残り僅かな人生が寂しいことになってしまったという後悔や悲しさで毎日胸が痛んでいた。家にこもり猫と二人っきり、もうこのまま沈んでいこうかとも。

それがやっと目の前が開けて前進する気持ちが生まれてきたことは、周りのひとたち、特に「古典」の一部の頑張り屋さんたちのお陰とそれを喜んでくれる友人たち、そしていつもに変わらず私のもとに集まってくれる教え子たちのおかげと言って良い。ごく少数だけれど長年我が家を訪れてくれている生徒の一部でアンサンブル結成の気運が芽生えてきた。今はまだ3人だけでも将来は弦楽アンサンブルの発表会ができたら嬉しい。

私の機嫌が良くなったので生徒たちがホッとして余裕ができたらしい。ちいさな曲を合奏してもらったら・・・それがいい音するのよ。彼らに長年、音は力ずくで出すものではないということを教えてきた。響きを殺してはいけない、無駄な力はナンセンスというと不思議そうな顔をしていた彼らも、今では響く音がいかに遠くに届くか、増幅された音がどれほど美しいかをよく理解するようになった。これからが楽しみ。

午前、午後、と個人レッスンやアンサンブルを教えたら、夕方には音楽教室で以前教えていた生徒たちがやってきてビールを飲み始めた。楽器のこと、音楽のこと、他のグループでの活動など話題は尽きず。千客万来は大げさだけれど、この2年間塞がっていた私の心に合わせるように沈んでいた生徒たちも開放されて久しぶりに楽しい時を過ごした。

やっと抜けた暗い道の向こうに穏やかな夕暮れの光が見えるように明るい気分にさせられた。ありがとうみんな。あなた達が私の行方を照らしてくれているのよ。

心は明るくなっても足の状態は一向に良くならない。このままだとステージでも足を引きずって歩くというみっともないことになりかねない。去年1年間ご無沙汰していた高周波振動による施術室に治療を受けに行くことにした。久しぶりの治療を受けて先生とお話してやっと希望が持てるように感じた。たった一回の施術で椅子から立ち上がったあとあるきはじめるのが困難だった足の具合が見違えるようにスムーズになった。もう2.3回は治療が必要かもしれないけれど、なんとか3月12日の大事なコンサートには間に合う。よかった。

今朝目が覚めると、昨日の夜薬を飲まなくてもは足が攣らなかったし、歩きはじめにもたつくこともないことに気がついた。なんとか大事な日に間に合うようだ。残念なことにドレスに合ったハイヒールはもう履くのは無理なようでぺったんこのサンダルを履くことになると思うと憂鬱なのです。もう少しおしゃれをしていたいのに。











2024年2月25日日曜日

新メンバーによる練習が始まった。

 最近まで異常に暖かい日が続いたので足の痛みはさほどでもなかった。しかしここ数日は急転直下冬日に戻ってしまった。春分過ぎての寒さはこたえる。春先のウキウキ気分に水をさされて浮き立った気持ちが一気にしぼむ。足は以前にもまして痛みが激しい。椅子から立ち上がってあるき出すまでがつらい。歩きはじめて5分ほどで普通の状態に戻る。

「古典音楽協会」の新メンバーによる初めての定期演奏会の練習は着々と進んでいる。いずれ劣らぬ腕利き揃いで一回目から生きの良い演奏となった。ヴァイオリンは半分は新人で年齢が下がったからテンポも軽快で心地よい。コンサートマスターの山中さんは非常に端正な演奏で知られている。立ち居振る舞いもどこまでも上品なので「殿」の呼び名がついている。

そして中程には古くからのメンバーが安定感を見せている。最後はフレッシュな新人としんがりは最高齢の私。セカンドヴァイオリンの末席に陣取っているのは、最後のブランデンブルク協奏曲3番でヴィオラを演奏するときに都合が良いから。

「古典」ではブランデンの3番を演奏するときには私はヴィオラ弾きになる。これは角道さんがコンマスだった頃からのことだった。ヴァイオリンとヴィオラのパートが3つに別れているこの曲はヴァイオリンが7人いる場合、ソロとトゥッティが3組、そうすると一人余ってしまう。そして貧乏な我が楽団はエキストラを頼む余裕がない。一人足りないヴィオラパートにその余ったヴァイオリンを一人回す。だから誰かがこの時だけはヴァイオリンとヴィオラを弾けばヴィオラのエキストラを頼まなくてもすむ。経費が安上りということでずっと私がヴィオラパートに回っていたのだ。

ヴィオラ大好きな私は喜んでヴィオラを引き受けるけれど、実は一つの演奏会でヴァイオリンとヴィオラを弾くのは難しい。まず楽器の大きさが違う。しかも私は人間の中でもかなり小柄であり、ヴァイオリンより一回り大きい楽器に移るのは音程や音色の面からもとてもむずかしい。私がヴィオラを弾いているのかヴィオラが私をぶら下げているのか見た目非常におかしな図柄になるのだ。

楽器が大きくなるから左手で音程を取るのも少し幅が広くなる。ヴァイオリンと同じ指のサイズでは音程が低くなってしまう。それを曲と曲の合間に調整できないとぶら下がった音程となってしまう。一度それで失敗したことがあった。プログラムを最初に組んだとき、ヴァイオリンの演奏をして次にピアノの独奏を入れて指馴らしをしてからヴィオラの演奏をするつもりがで組んだのに、ピアニストのわがままでヴァイオリンとヴィオラを連続する羽目になった。後で動画で聴いたら最初の楽章はものすごく音程が低くてがっかり。次第に音程が合ってきたけれど非常に恥かしかった。音程がいつも決まっているピアノとはわけが違うことをピアニストに知ってもらいたい。

今回は間にチェンバロのソロが入るので十分な調整時間が取れてありがたい。練習はいつも楽しい。どんなに難しくても演奏の解釈が違って意見が別れても、まとまってくると本当にいい音がする。その時が至福のとき。私は足が痛くて演奏が終わったあと椅子から立ち上がれるかどうかが目下の試練なのだ。ぐちをこぼしていたらブランデンブルク協奏曲3番の演奏は最初から立って演奏できることになった。チェロ以外の弦楽器は全員チーター(楽隊用語で立って演奏すること)

それで思い出したけれど私が今よりずーっと若い頃、生まれて初めてレコードでなく演奏会場でマーラー「交響曲第一番 巨人」を聞いたときのこと。ずらりと並ぶホルンの数の多さにびっくり。しかもその後ホルン族がいきなり起立して無数の角笛がなるように一斉にスタンドプレー、なんと格好の良い、なんと素敵な・・・それ以来私はマーラーが大好きになった。コントラバスが一人で演奏するのを初めて聴いたのもその時のこと。

そこから半世紀以上、まだステージで演奏していられる幸せを噛み締めている。さすがに足が悪くて椅子から立ち上がれなくては様にならない。今年の秋の定期演奏会が私の最後のステージになっても思い残すことは全くない。私ごときのレベルの演奏家としては十分すぎるほどの数をこなした。その間ずっと聴いて支えてくださった方々、ともに演奏した仲間たち、その中には身に余るほどの名手たちも含まれているけれど一言「感謝」の文字しかない。

思えば私は音楽家になるつもりは全く無くヴァイオリンはおもちゃだったはずなのに、その魅力に取りつかれアンサンブルの楽しさから逃れるすべもなく魔力に嵌まってしまった。なんてこった!他の人生もあっただろうに。どこで道を間違えたのか。これも私が酷い方向音痴のせいかもしれない。














2024年2月21日水曜日

店頭で転倒

 1月の半ばまでは私の足は絶好調だった。ダイエットの効果もあって膝の痛みは消え、これならスキーに行けるかもしれない。今年のスキースクールは人数が少ないから行かれない?と幹事さんから問い合わせがあったけれど、返事は保留にしておいた。毎日コンディションが変わるので間際まで返事ができない。

しかし何事もなく、それでは行くと返事をしようかと思っていたらその前日いきなり痛みが始まった。結局また痛みがしばらく続き諦めるしかない。そのあと小康状態が続き毎日軽やかに散歩に励んでいたけれど、ここ数日、今までにない痛みが始まって夜明けの足攣りまで仲間入りして大騒ぎ。2日立て続けに足が攣ったのでこれはいかん、やっと病院に行く気になった。

何科に行けばいいのかわからないから家から徒歩5分の病院へ。初めて入った待合室には当然のことながら患者さんがいっぱいいて、ほう、流行っているではないか。表の看板には内科、外科と書いてある。ということは先生は二人いるのかな?病人がたくさんいるけれど診察は早めでサクサク終わる。あまり待たずに名前を呼ばれた。はじめまして、よろしくお願いします。

眼の前にいかにも機嫌良さそうなボサボサ頭の先生が嬉しそうにこちらを見ている。どうしました?「足がたいそう攣ります。なに科に行けばよいかわからないのでこちらで診ていただけるかどうか来てみました」ごきげんな先生は「いい薬があります。有名な薬ですから出しておきましょう。これを夜寝る前に飲んで様子を見てください」と言って処方箋を書いてくださった。

医師で陽気な人はあまりお目にかからないから、この病院がなぜこんなに患者さんが多いのかよくわかった。ここに来ると大抵の痛みは治るのではないかと思う。いかにも町医者らしい一家に一台ほしい医師。家族全員がかかりつけの家庭医。この次からなにかあったらここに来よう。処方箋や領収書も小さくて無駄に紙を使っていない。私は病院へ行ってもあまり長居はしない。自分の訊きたいことだけ聞いたらさっさと帰ろうとして椅子から立ち上がったら目ざとく私の足が良くないことを察して引き止められた。

その瞬間急に専門家の顔をしたのが印象的で、陽気な呑気さがすっと消えた。これはこれは、次回はきちんと足のことを相談してみよう。良い病院が見つかった。しかもこんなに近所で。今までは高層ビルの小綺麗な医院に通っていたけれど、イマイチ不満が残っていた。その日から足が攣っていない。

攣らなくなったので楽になった。少し歩度を伸ばそうと歩いた途中カフェに立ち寄って小休止と思った。入口付近の自転車が邪魔で避けようと思ったらころんだ。転びの天才のわたしは怪我はしないけれど、起き上がろうと思っても自転車やら段差やらでなにもつかまるものがないのでさあ、どうしたものかと思案していた。けれど入り口で人が伸びていたらカフェも営業がやりにくかろう。すると「大丈夫ですか」と上から声がした。

首を回して後ろ上を見ると若い男性が見下ろしている。起こしてくださいとお願いすると片方の手だけ引っ張る。それでは起きられないのよね。すると両脇を支えて起こしてくれた別の男性が。見ると入口付近にきちんとスーツを着たハンサムな男性が四人。あら、素敵!自転車も片付けてくれた。

思わずニコニコ、あちらもニコニコ。今日はいい日だわ。「皆さんありがとう」思わず舞台で挨拶している気になっている自分を見て呆れている自分がいる。こんな無様な瞬間でも演奏家気取り。日本男子も随分進化した。いい子たちね、あなた方は。それにしても気が利かないカフェの店員、と思っていたら帰り際にコーヒーカップを持って立ち上がったら飛んできて下げてくれた。いつもならとぼとぼと返却するためにあるくのに。みんな親切。

帰宅するとお隣の奥さんが訪ねてきた。話題が足の痛みになって、彼女のお孫さんがダンスをやっているので歩き方を教わったら痛みが治った話が出た。つま先を少し外側に向けるようにして歩くといいらしい。早速昨日から始めてみたら調子がいい。なるほど、これは良きことを教わりました。

同世代の仲間が「歳を取るとただ生きていくだけのためにこんなに努力がいるのね」といったのを聞いて、本当にと思った。ただ歩くだけのために歩きかたに気をつけ、筋トレに励み、でないとすぐに痛みや筋力の衰えにつながる。きっと神様がなにも仕事がなくなった老人たちが退屈しないように課題を与えているのだ。でも私はたくさんのやりたいことがあって筋トレだけしているわけにはいかない。

ところが良くしたもので楽器を弾くという行為だけでもそれが筋トレにも健康維持にも繋がっていくのだ。だから仕事はやめないほうがいい。せっかくのんびりと過ごしたいと思っているのにできないのはまだもう少し元気でいるようにとの天の声?仕方がないから生きている限りなんらかの努力は続けないといけないのです。ヤレヤレ