2012年9月23日日曜日

モーツァルトとベートーヴェン、漱石と百閒

久しぶりにモーツァルトのピアノトリオを弾いたら、ベートーヴェンとのあまりの違いにびっくり。最近はベートーヴェン好きの友人に引きずられて苦手なベートーヴェンを連続して弾いていた。やっとベートーヴェンに馴れてきて悪くないと思えるようになってきたのに、モーツァルトを弾いたらベートーヴェンはかすんでしまった。なんという生き生きとした音楽!命が迸る。感情がさく裂する。本物の天才。神様の申し子。それだけに演奏するのは難しい。一瞬の油断が命取りとなる。彼の頭の中で出来あがった音楽は推敲の必要もなく、そのまま五線紙に書き写すだけだったと聞く。無駄がない。一つの訂正もないらしい。そして、漱石の「吾輩は猫である」のもじりである内田百閒の「贋作吾輩は猫である」を読むと、漱石との差は歴然。百閒は好きな作家の上位に位置するが、こうしてみると、やはりモーツァルトとベートーヴェンと同じくらい違う。漱石の「猫」の研ぎ澄まされたユーモアやウイットは百閒先生には荷が重い。百閒の「猫」はそれなりに面白いけれど、大勢出てきてワイワイ騒いでいるだけ。やはり天才と準天才の違い。凡人の私が偉そうに言うのもおこがましいが、この差を埋めるのは不可能に違いない。ベートーヴェンの偉業は音楽史上に燦然と輝いても、もし私が明日をも知れぬ命となった時聴きたいのはモーツァルト。子供の頃、学校から家に戻って最初に聴くのはモーツァルトの「交響曲40番」だった。毎日聴いても何年聴いても飽きない。8年前、自分自身の音楽活動に一区切りをつけるために催したコンサートも、モーツァルトの長大な「ディヴェルティメント17番」を選んだ。「うれしそうに弾いていたね」というのが大半の批評。そう、本当に楽しかったのです。

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