昨日みつけた徳永兼一郎さんの動画。
何回も見て声を出して泣いた。
私は弟の二男さんとオーケストラでずっと一緒で、彼のすぐ近くの席で弾いていた。
通称つんちゃん、恐ろしく耳が良くて怖かった。
隣で弾いている時は安心していられたけれど、後ろに行くと耳が絶えずこちらを向いているような恐怖感があった。
それでも普段はこの上なく優しくナイーブなひとだったし、お兄さんの兼一郎さんも又同じだったようだ。
お父様のスパルタ教育が見事に花開いて、兄弟そろってN響のトップになった。
それにしても、余りにも早くこの世を去ってしまった兼一郎さんだった。
動画は何回見ても号泣してしまい、目が腫れ上がってしまった。
これからの私の人生には、この様な場面が幾つも連続してやってくるのは避けられない。
人生前半は勉強や恋愛に向かって突っ走る時期だけれど、後半は逆に失っていく事の方が多くなる。
そろそろ死というものを、きちんと見つめないといけない時期にさしかかって思う事は、死は到達点ではないということ。
怠け者で才能も無い私でも、音楽家の端くれとして、人生の最後まで発展途上であることを忘れてはならない。
最後まで音を、音楽を追究して、それで倒れて消えていけばいい。
もし私の音を少しでも受け継いでくれる人がいたら、それは無上の幸せなのだ。
私の師の出したCDを聴いた時、自分の原点がここにあると思った。
もちろん先生には及ばないが、私の音の出し方や歌い方が同じ土壌に育ったものだと感じた。
やはり若いときに師事して7年間吸収して、先生の感性、音楽、音色など、すごく影響されたものになった。
こうやって、次の世代に私の音楽細胞が1つでも受け継がれて、音楽界の鎖の微々たる一環になれたら、私の生きてきたことも意義があったかと思う。
そう思えば、死は決して悲しいものではないと思うけれど、やはり惜しい人が早く亡くなるのは残念でならない。
心に悲しみの澱が積もっていく。
それは若い頃のように激しくはないが、決して消えない。
その消えない澱が音楽には養分となる。
歳を重ねるというのはそういうことだと感じる。
失うからこそ、自分の中に熟成されるものが増えていく。
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