オーケストラ時代にお世話になった人たちに会いに小田原へ。
その前に、所用があって寄ったのは伊勢佐木町。
短い時間だったけれど、大好きな友人と一緒だったので楽しく過ごした。
伊勢佐木町で思い出すのは、オーケストラが貧乏のどん底だった頃の私。
私が所属していたオーケストラの創設期は、とても羽振りが良かった。
最初の頃の団員の給料は、普通のサラリーマンの初任給を遥かに超える額だったらしい。
ところがその後、スポンサーだった放送局が降りてしまい、野に放たれてから団員たちの自主経営に至るまでには、団長の自死や社会保険料も払えなくなるなど苦難の連続。
しかし、楽隊はアホがそろっていて、そんな苦境もなんのその、毎日楽しく暮らしていた。
演奏旅行の費用を節約するために、夜行の鈍行列車のボックス席でつぎの公演地まで行って宿泊費を浮かすなど、自慢げに話す人もいた。
安宿を予約してタクシーに乗ったら、田んぼの真中に紫のネオン、まさかあれじゃないでしょうねと言うと、ドライバーが「あれです」
でも電話帳にはビジネスホテルと書いてあった。
ある種の女性のビジネスのためのホテルかも。
汚くてベッドにも入れない。
お風呂はお湯がない。
笑ってしまった。
猫っ可愛がりされて育ったのだから、親にはこんなことは話せない。
それでもなにか感じていたらしく、母には、私のことが心配で死ねないと、よく言われた。
私が入団した頃の東響はそれはそれは面白かった。
当時はまだ海軍軍楽隊上がりの猛者や、華やかなりし頃の残党が幅を効かせていたけれど、怖いもの知らずの私は彼らにすぐに懐いたから、とても可愛がられていた。
貧乏でも本当にジェントルマンだったおじさんたち。
家柄も育ちも良く教養もあるのに、なぜこんなちんどん屋みたいなことをなどと身内に言われる。
道楽稼業と見られても、逆境にも負けず日々楽しく生きていた人たち。
給料は遅配に次ぐ遅配。
生活は逼迫しているのに、なぜか皆幸せそうだった。
唯一の不幸は演奏に失敗したときだけ。
その時はため息をついてうなだれて帰る。
当時の私を今客観的に見ても、元気なお嬢ちゃんが毎日嬉しそうに楽器を弾いている姿は、おじさんたちの慰めになっていたのではと、これは自己満足?
休みなんていりません、うちにいてもやることないしなんて、経営者の喜びそうなアホを言って飛び跳ねていた。
地方に演奏旅行に出かけるのも嬉しかった。
最初の頃は同年代の女性たちと一緒に電車で行動していたけれど、車を連ねて行くグループがあって、それが羨ましくてなんとかして仲間に入りたいと思い、免許をとりにいった。
免許取りたてで買った車は、中古のトヨタパブリカ。
カークラブのメンバーから、新車買ったら一緒に連れて行ってやるよと言われた。
それを真に受けてすぐに真っ赤な初代カローラを買った。
冗談に言ったつもりの人は真っ青。
免許取りたての初心者を、しかも女の子を混ぜるわけにはいかない。
ほんとに買っちゃったんだよねと、頭を抱えて仲間が集まって相談していた。
やっとベテランの運転指導付ならばということで、メンバーに加わった。
免許を取って間もなく最初の日本縦断。
東名高速よりも前にできていた名神高速を走ったときには、感激でウルウル。
怖いもの知らずのおっちょこちょいは、その頃から今に至るまで変わらない。
まだ東名高速が出来る前、母が箱根だけは運転しないでというのを軽く聞き流し、箱根に差し掛かると、ねえねえ、運転させて!とせがむ。
助手席にはベテランが乗って、運転からマナーまで厳しく仕込まれた。
峠を乗り越えると助手席の人がポツリと言った。
「今みたいな運転してると死ぬよ」
経営の安定しないオーケストラは波にもまれる船のように、不安定でブラックだった。
一日に本番が2つあったり、地方へ行くグループと東京で仕事をしているグループと、どちらが本当の東響?などと皮肉られながらも、身を粉にして働いた。
その時の修羅場があったお陰で、10年もするとお金の稼げるミュージシャンになった。
小田原まで行って、そんな苦楽をともにした仲間たちとお酒を飲んだ。
元打楽器奏者のSさんを囲んでの飲み会は、毎回Sさんの家の近くまで出かける。
高齢のSさんは足が少し悪くて、以前は新宿まで出てきたけれど、最近は帰り道が心配で私達の方から出かけるようになった。
Sさんは優れた頭脳と品の良さのために、皆から尊敬されていた。
その証拠には、他のメンバーは呼び捨てだったりあだ名で呼ばれたりしたのに、彼だけは誰もがSさんときちんと苗字を言う。
それだけの威厳があったのだけれど、決して偉そうにしていたわけではない。
おそろしく博識で穏やかな人なのに、ちょっと常識では考えられないような当時のメンバーのタガの外れた振る舞いを、ニコニコして笑って話す。
皆個性が強く、中には戦前なら恐れ多いやんごとなきお方も居たけれど、誰一人そんなことは気にする人はいなかった。
そういう人たちは世間の枠に囚われない生き方が出来るので、野放図に悪さをして歩いた。
特にひどかったのは作曲家のYさんとKさん、素晴らしいお家柄なのに行動は飛び抜けて常識はずれ。
とんでもないことをしでかした。
ある温泉宿での狼藉騒ぎは、地元の新聞で取り上げられて、以後その地には足を踏み入れられないとか。
Sさんは彼らのことを何事もなかったように笑いながら話す。
非常識極まるような行動を面白がる私達も、性格に何らかの欠陥がありそうな気がする。
Kさんのお父様も同じ。
帝国ホテルの調度品が気にいると、断りもなくお付きに命じて自宅に運ばせたとか。
日本の西洋音楽の黎明期を支えた名指揮者だったけれど。
さて、伊勢佐木町の話に戻ると・・・
貧乏でも楽しみは人一倍求めるガクタイは、休みの日には集まって遊ぶ。
横須賀に住むメンバーからバーベキューの誘いがあって、会費は当時1000円位。
前日の夜、お金がないことに気がついた。
家中の抽斗を逆さまにしても、服のポケットをひっくり返しても、出てきたのはたったの500円。
当時ガソリンが40円/Lくらいだった。
スタンドで10リッター入れてもらって、伊勢佐木町まで行った。
お金がないから食事も買い物も出来ない。
ウインドウショッピングで買いものしたつもり。
残りの100円でインスタントラーメンとモヤシを買って家に帰って食べた。
それがとても面白かったので、次の日にオーケストラの事務所に行ってその話をした。
笑ってくれるかと思ったら、事務員に泣かれた。
え!え!何がそんなに可哀想なの?
可笑しい話なのに。
こちらがビックリした。
貧乏は、どんなふうに乗り越えるかによって、その後の人生が変わってくる。
と・・・宗教の教祖様にでもなろうかしら。
信者(しんニャ)は猫ばっかりだったりして。
エサ代かかってお布施入らず。
現在の東響は安定して、いや、めでたい!
追記
K氏がホテルの調度品を持ち帰ってもあとでちゃんと執事がおしはらいしたそうで、誤解を生むといけないので一言。